第76話 何を賭けますか
九日目の朝、俺は組合の四階に、もう一度上がった。
今度は、靴を洗ってから来た。
――絨毯を汚したくなかったわけじゃない。
汚した理由を、あの人に数えられたくなかった。
「――お待ちしておりました」
ヴァインは、また自分で湯を沸かした。
「――ご返答を、いただけますか」
「はい」
俺は、椅子に座った。
「――撤回は、しません」
◇
ヴァインの手が、止まらなかった。
湯を注いで、湯呑を置いて、それから座った。
「――承知いたしました」
彼は、頭を下げた。
「では、予定通り、五日後より差押えに入ります」
「――待ってください」
「――お待ちいたします」
彼は、あっさり言った。
「お話は、まだございますね」
◇
俺は、フィナを見た。
フィナが、頷いた。
「――ヴァインさん」
「はい」
「――才能決闘を、申し込みます」
◇
部屋が、静かになった。
ヴァインは、湯呑を持ったまま、動かなかった。
――笑っていた。
いや、正確には、笑う直前の顔で、止まっていた。
「――決闘」
「はい」
「わたくしに、ですか」
「はい」
「――……なぜでございましょう」
「――勝ったら、条文を書いてもらいます。借金の方の条文です。……才牌は返した上で、借金もどうにかする条文です」
◇
ヴァインは、湯呑を置いた。
初めて、少しだけ、音を立てた。
「ロイ様」
「はい」
「――才能決闘は、才能を賭ける場でございます」
「――知ってます」
「条文は、才能ではございません」
「――知ってます」
「では」
「賭けるものは、こっちが決めていいはずです」
◇
フィナが、前に出た。
「――会戦規則、第六十四条」
彼女は、暗唱した。
「『才能決闘における賭け札は、両者の合意により、これを定める』」
彼女は、顔を上げた。
「――才牌に限る、とは書かれていません」
◇
ヴァインは、彼女を見た。
それから、俺を見た。
――そして、初めて、椅子に深く座り直した。
「――なるほど」
彼は、言った。
「規則の、穴でございますね」
「はい」
「四十四話の時と、同じ手でございます」
「――……なんですか、それ」
「――失礼。わたくしどもは、記録を話数で数える癖がございます」
◇
彼は、そう言って、書棚から一冊出した。
背表紙に、番号が振ってある。
「あなたが病室で『受け取ってすぐ返すのはどうですか』と仰った件です」
彼は、その頁を開いた。
「あの日から、あなたの記録は、うちで一冊になっております」
◇
俺は、その冊子を見た。
――俺の名前が、背表紙に書いてあった。
「――四十年、人の胸を見て生きております。ですが、規則を見る若者は、初めてでございます」
彼は、冊子を閉じた。
「お受けいたしましょう」
「え」
「――決闘、お受けいたします」
彼は、あっさり言った。
「――断ると思われましたか」
「思いました」
「断れないのでございます」
◇
彼は、微笑んだ。
「才能決闘の申し込みを断ると、臆したものとみなされます。貴族十七家に、そう見られるわけには参りません」
彼は、頭を下げた。
「――そこまで読んでの、申し込みでございましょう?」
◇
俺は、正直に言った。
「――読んでないです」
「――……」
「思いつきです」
「――……そうですか」
◇
ヴァインは、しばらく、俺を見ていた。
それから、初めて、声を出して笑った。
小さく、二回だけ。
「――失礼いたしました」
彼は、姿勢を戻した。
「では、条件を詰めましょう」
彼は、紙を出した。
今度は、白紙ではなかった。
――決闘の届出用紙だった。
最初から、用意してあった。
「――わたくしの賭け札は、【契約】といたします」
彼は、書き込んだ。
「三枚のうち、一枚。……負ければ、わたくしは組合長を続けられません」
彼は、顔を上げた。
「――十分な賭けと、お認めいただけますか」
「――認めます」
「ありがとうございます」
彼は、ペンを置いた。
そして、俺を見た。
「――さて、ロイ様」
彼は、静かに言った。
「――あなたは、何を賭けますか」




