第72話 同じ意味で
その夜、フィナは、食堂の隅で新しい紙束を開いた。
表紙に、書いた。
『ヴァイン・仕様書 第一巻』
◇
「――俺のじゃないんですね」
「――あなたのは、第四巻の途中です」
彼女は、あっさり言った。
「今は、あの人の方が急ぎます」
「でも、俺のも書いてくださいよ」
「書きます」
彼女は、言った。
「千ページ書くと言いました」
「今、何ページですか」
「四百十二です」
◇
彼女は、ペンを取った。
「【契約】から始めます」
「一つ目。【契約】」
彼女は、書きながら言った。
「口頭の合意を、強制力のある契約に変える才能です」
「――強制力」
「はい」
彼女は、顔を上げた。
「――破れません」
「――破ろうとしたら、どうなるんですか」
「体が、動かなくなります」
彼女は、そう言った。
「『三日以内に金貨十枚払う』と合意して払わなければ、三日目の夜から、動けません」
「――死にますか」
「――死にません。……ただ、動けません」
◇
俺は、それを想像した。
――動けないまま、四日目が来る。五日目が来る。
「――怖いですね」
「怖いです」
彼女は、ペンを走らせた。
「――ですが、この才能には、有名な制約があります」
「――制約」
「はい」
彼女は、鑑定書の写しを開いた。
組合が二十年前に王家へ提出した、才能登録の写しだ。
「――【契約】は、双方が、同じ意味で理解している語でしか成立しません」
「どういうことですか」
「たとえば」
彼女は、俺を見た。
「私が『明日、ロイさんに"かわらけ"を三つください』と言って、あなたが承諾したとします」
「――かわらけ、って何ですか」
「素焼きの器です」
「――知らなかったです」
「では、その契約は成立しません」
◇
俺は、少し考えた。
「――知らない言葉だと、無効なんですか」
「――正確には、双方の理解がずれていれば無効です。あなたが『かわらけ』を『瓦』だと思っていたら、その契約は最初から存在しません」
彼女は、ペンを置いた。
「だから、【契約】使いは、必ず、簡単な言葉しか使いません」
◇
俺は、その言葉で、手紙を思い出した。
――封蝋の押された、あの手紙。
あの文章は、難しくなかった。
――一つも、難しい言葉がなかった。
「フィナさん」
「はい」
「――あの手紙、簡単でしたよね」
フィナの手が、止まった。
彼女は、手紙を取り出した。
――もう一度、読み返した。
◇
「――……全部、下町の言葉です。『混乱』『規約』『穴』『片が付く』。……鑑定書なら、全部、別の語を使います」
彼女は、顔を上げた。
「あの人は、わざと、あなたが知っている言葉だけで書いています」
「――なんでですか」
「――契約を、成立させるためです」
◇
俺は、背中が冷たくなった。
「手紙で、契約できるんですか」
「できません。【契約】は口頭のみです」
彼女は、そう言った。
「ですが」
彼女は、手紙を置いた。
「――あの人は、あなたが理解できる語彙の一覧を、作っています」
◇
俺は、その手紙を見た。
――俺が読める文章。
――俺が、二回読んで、意味がわかった文章。
「――試されてたんですね」
「たぶん」
彼女は、言った。
「――四階に上がった時点で、もう始まっていました」
◇
俺は、湯呑のことを思い出した。
安い湯呑。自分で沸かした湯。脚の短い椅子。
――全部、俺が知っているものだった。
「フィナさん」
「はい」
「あの人、俺と話す準備をしてましたね」
「しています」
彼女は、ペンを取り直した。
「――ですので、こちらも、します」
◇
彼女は、新しい行に書いた。
『対策一・ロイさんは、意味のわからない言葉で返事をする』
「え?」
「――【契約】は、双方の理解が一致しなければ成立しません」
彼女は、顔を上げた。
「――あなたが意味をわかっていない言葉で答えれば、契約は生まれません」
「たとえば」
「――『かわらけ』です」
「――かわらけ、で返事するんですか」
「します」
「変な人だと思われませんか」
「――思われます」
彼女は、あっさり言った。
「――ですが、あなたは、既に十分、変な人だと思われています」




