第70話 白紙
白い紙が、俺の前にあった。
いい紙だった。
――なんの模様もなかった。
「何を書けばいいんですか」
「――こう書いていただきたいのです」
◇
ヴァインは、暗記していた。
紙を見ずに、言った。
「『会戦規則第百一条は、これを撤回する』」
俺は、その言葉を、飲み込んだ。
「――撤回」
「はい」
「返した才牌を、また取り上げるってことですか」
「――そうなります」
彼は、あっさり認めた。
フィナが、口を開いた。
「――お断りします」
「お嬢様」
「ロイさんは、答えません」
彼女は、そう言った。
「――帰ります、ロイさん」
「――待ってください」
俺は、そう言った。
立ち上がりかけたフィナが、止まった。
「ロイさん」
「――話は、聞きます。帰るのは、そのあとです」
◇
ヴァインは、頭を下げた。
「――ありがとうございます」
彼は、湯を足した。
「ロイ様。あなたは、条文を書ける唯一の人間です」
「――そうみたいです」
「――ご自覚は、おありですか」
「ないです」
「――そうでしょう」
彼は、頷いた。
「わたくしも、四十年前、初めて金貨を百枚扱った日は、自覚がありませんでした」
彼は、湯呑を包むように持った。
「――金貨百枚は、家一軒です。……ですが、手の上では、ただの重い袋でございます」
◇
彼は、俺を見た。
「あなたが書いた二文は、家一軒どころではありません。二万九千四百軒でございます」
俺は、その数字を、また聞いた。
フィナが数えた数字と、同じだった。
「――ヴァインさん」
「はい」
「――あなた、その二万九千四百人を、差押えるんですよね」
「――いたします」
「なんでですか」
「――担保が、なくなったからです」
彼は、湯呑を置いた。
「金を貸すというのは、返ってこない可能性を、質草で埋める仕事です」
彼は、そう言った。
「質草がなくなれば、埋めるものがない。……埋めるものがなければ、回収するしかございません」
「――待てないんですか」
「待てません」
「――なんでですか」
「わたくしも、借りているからです」
◇
俺は、顔を上げた。
「――借りてる?」
「はい」
彼は、あっさり言った。
「組合は、貴族十七家から資金を預かっております。……総額、金貨百四十万枚」
彼は、指を組んだ。
「担保が消えたと聞いて、既に三家が引き上げを申し出ております」
「引き上げられると」
「組合が潰れます」
「潰れると」
「――二万九千四百人の借金が、貴族十七家に直接移ります」
◇
俺は、その意味を、少し考えた。
フィナが、代わりに言った。
「貴族は、待ちません」
「待ちませんな」
ヴァインは、頷いた。
「わたくしどもは、十四日待ちます。……あの方々は、翌日でございます」
◇
俺は、湯呑を見ていた。
――話が、うまくできすぎている気がした。
でも、どこが嘘なのか、わからなかった。
「――ヴァインさん」
「はい」
「撤回したら、どうなりますか」
「貴族は、引き上げを取り下げます。組合は、全ての債務を、元の十年分割に戻します。……利息も、据え置きで」
彼は、頭を下げた。
「二万九千四百人は、明日から、昨日と同じ生活に戻ります」
「才牌は」
「お返しできません」
彼は、顔を上げた。
「――担保ですので」
◇
俺は、その言葉を、聞いていた。
――昨日と同じ生活。
マーサおばさんは、店を続けられる。
ガルド爺は、炉を続けられる。
院長先生は、孤児院を続けられる。
――そのかわり。
◇
「――マーサおばさんの【味見】は」
「どなたですか」
「下町の食堂です」
「ああ」
ヴァインは、少し記憶を探った。
「――ハルグレン様ですね。金貨四百二十枚」
「覚えてるんですか」
「――二万九千四百人分、存じております」
◇
俺は、その男を、初めて、怖いと思った。
声を荒げない。自分で湯を沸かす。安い湯呑を使う。
――そして、二万九千四百人の名前と金額を、覚えている。
「――ヴァインさん」
「はい」
「――返事は、今しません」
◇
ヴァインは、頭を下げた。
「――もちろんでございます」
彼は、紙を、俺の方に押した。
「お持ち帰りください」
「――白紙ですけど」
「白紙のうちが、いちばん価値がございます」
◇
彼は、そう言って、微笑んだ。
「――ただ、一つだけ」
「――なんですか」
「期限は、十四日でございます」




