第67話 桁が二つ
東門のセリネ婆ちゃんの花屋が、畳まれた。
四日目のことだ。
俺が知ったのは、ピノが走ってきたからだった。
「――ロイ兄!」
「どうした」
「――婆ちゃんの店、荷車が出てる!」
「――荷車」
「二台! 桶、積んでる!」
彼は、息を切らしていた。
――東門から下町まで、走ってきたらしい。
◇
東門まで、走った。
――本当だった。
店先に、荷車が二台。
組合の記章をつけた男が、桶と棚を積んでいた。
昨日、マーサおばさんの店に来たのと、同じ記章だった。
セリネ婆ちゃんは、店の前に立って、それを見ていた。
小さい人だ。俺の胸くらいまでしかない。
「――婆ちゃん」
「ああ、ロイかい」
彼女は、こっちを見た。
――泣いていなかった。
それが、いちばんきつかった。
「――畳むの」
「畳むよ」
「――いくらですか」
「――なんだって?」
「借金です。いくらですか」
「聞いてどうするんだい」
「――聞かせてください」
◇
婆ちゃんは、少し笑った。
「――金貨二百四十枚だよ」
俺は、懐に手を入れた。
布の袋がある。
――予選の賞金の残りだ。
治癒師に八割持っていかれた、その残り。
俺は、それを出した。
「三枚あります」
◇
婆ちゃんは、それを見た。
それから、俺を見た。
――笑った。
「三枚かい」
「三枚です」
「――足りないねえ」
「足りないです」
「――でも、出したね」
「出しました」
「――もらわないよ」
◇
俺は、その袋を、握ったままだった。
二百四十と、三。
――桁が、二つ足りない。
俺は、それを、生まれて初めて、はっきりと理解した。
――金貨三枚は、大金だと思っていた。
五年、皿を洗って、一度も見なかった額だ。
――そして、足りなかった。
「――婆ちゃん」
「なんだい」
「――孫娘さんは」
◇
婆ちゃんの顔から、笑いが消えた。
消えたというより、抜けた。
「家にいるよ」
「足は」
「――治らないね」
◇
彼女は、荷車を見た。
「去年、医者に見せたんだ。『これは、治療じゃ治らない』って言われた」
彼女は、言った。
「――じゃあ」
「【延命】だ」
「――才能ですか」
「――そうだよ」
彼女は、言った。
「【延命】を持ってる治癒師に、月に一度かけてもらえば、あの子は歩けるようになる。……そう言われた」
彼女は、そこで、少し黙った。
「一回、金貨八十枚だ」
「八十」
「そうだよ」
「毎月ですか」
「――毎月だ」
彼女は、あっさり言った。
「――王都に、【延命】を持ってる人間は、十一人いる。全員、貴族の抱えだ」
「――十一人」
「十一人だよ」
「――四千万人に、十一人ですか」
「そんなに人がいるのかい」
彼女は、そう言った。
「――あたしゃ、東門しか知らないよ」
◇
俺は、その数字を聞いていた。
――八十枚。
俺の賞金が、三枚。
――一回分に、二十七か月かかる。
そして、それは一回分だ。
――毎月、要る。
「婆ちゃん」
「なんだい」
「――なんで、【延命】は貴族しか持ってないんですか」
◇
婆ちゃんは、荷車を見ていた。
「――知らないよ、そんなことは。昔から、そうだ」
「昔って、いつからですか」
「――知らないよ」
彼女は、あっさり言った。
「あたしが子供の頃も、そうだった」
俺は、その「昔から」という言葉が、引っかかった。
――なんで、昔から、そうなんだろう。
才能は、神様がくれるものだ。
――なら、なんで、貴族にばっかり配られるんだろう。
◇
荷車が、出発した。
棚が二つ、桶が三つ、それと花瓶が積まれていた。
花瓶は、欠けていた。
――それでも、積んでいった。
婆ちゃんは、それを見送らなかった。
背を向けて、家の方に歩き出した。
――足が、遅かった。
「婆ちゃん」
「――なんだい」
「――花、まだ売りますか」
◇
婆ちゃんは、足を止めた。
振り返らずに、言った。
「売るよ」
「――店、なくなりましたよ」
「――籠がある」
彼女は、そう言った。
「四十年前は、籠一つだった」
彼女は、歩き出した。
「――戻るだけだよ」
「――四十年、戻るんですか」
「――そうだね」
彼女は、そう言った。
「でも、花畑までの道は、覚えてる」
◇
俺は、その背中を見ていた。
――四十年、積んだものが、四日で消えた。
――でも、あの人は、明日も花畑まで歩く。
日の出前に。
――足の悪い孫娘のために。
ピノが、俺の袖を掴んだ。
「――ロイ兄」
「なんだ」
「ロイ兄のせいなの?」
◇
俺は、答えられなかった。
答えられなかったのは、たぶん、答えを知っていたからだ。
「――たぶん、そうだ」
俺は、そう言った。
ピノは、しばらく黙っていた。
――袖を、離さなかった。
それから、俺の袖を、両手で掴み直した。
「――じゃあ、直せる?」
◇
俺は、その手を見た。
十歳の手だ。
――俺の袖を、掴んでいる。
この手は、俺が皿を割った日も、同じように掴んできた。
「直す」
俺は、言った。
「直します」
「――いつ?」
「――わからん」
「――わからないの?」
「わからん」
俺は、正直に言った。
「――でも、やる」




