第65話 あたしが払う番
翌朝、取り立てが来た。
俺が皿を洗っている、その最中だった。
――四百四十二枚目は、まだ割っていなかった。
男が三人、店に入ってきた。
組合の記章をつけている。銀の、小さい留め具だ。
先頭の男が、帳面を開いた。分厚い帳面だった。
「――マーサ・ハルグレン様」
「あたしだよ」
おばさんは、鍋をかき混ぜたまま言った。
「――借入残高、金貨四百二十枚」
「知ってるよ」
「――本日付で、即時全額返済の対象となります」
「知ってるよ」
「――お支払いの目処は」
「――ないね」
◇
男は、帳面に何かを書いた。
慣れた手つきだった。
――今日、何十軒も回ってきた手つきだ。
顔も、上げなかった。
「では、十四日後に、差押えの手続きに入ります」
「――そうかい」
「――対象は、この建物と、什器一式です」
「鍋もかい」
「什器に含まれます」
「――そうかい」
◇
俺は、皿を持ったまま、立っていた。
――何か言おうとして、言葉が出なかった。
男が、俺を見た。
「従業員の方ですか」
「――手伝いです」
「そうですか」
彼は、帳面を閉じた。
「――十四日後には、職を失われます。お早めに次を」
「――あの」
「はい」
「――何軒目ですか、今日」
男は、少し、間を置いた。
「――十九軒目です」
彼は、そう言って、頭を下げた。
――丁寧な、下げ方だった。
◇
男たちが出ていった。
扉が閉まった。
――鍋の音だけが、残った。
「――おばさん」
「なんだい」
「四百二十枚って」
「金貨だよ」
「――知ってます」
「――じゃあ聞くんじゃないよ」
◇
俺は、皿を置いた。
「十二年前ですか」
「――そうだね」
おばさんは、鍋をかき混ぜていた。
「亭主が死んでね。……店の権利を買い戻すのに、要ったんだ」
彼女は、あっさり言った。
「【味見】を預けて、金貨三百枚。……利息で、四百二十だ」
「十二年で、百二十枚増えたんですか」
「――そうだよ」
「増えすぎじゃないですか」
「そういうもんだ」
彼女は、そう言った。
「毎年、利息だけ払ってた。……元金は、一枚も減ってない」
「――毎年、いくらですか」
「金貨十枚」
彼女は、あっさり言った。
「十二年で、百二十枚。……そのまんまだろ」
◇
俺は、その計算を、しばらく考えていた。
――十二年で、百二十枚払った。
――そして、借金は、一枚も減っていない。
「――おばさん」
「なんだい」
「才牌が返ってこなければ」
鍋をかき混ぜる手が、止まった。
「――なんだって?」
「――才牌が返ってこなければ、今まで通りだったんですよね。毎年、利息だけ払って。……店は、無事だったんですよね」
◇
おばさんは、鍋から手を離した。
振り返った。
――怖い顔をしていた。
五年働いて、初めて見る顔だった。
「ロイ」
「はい」
「こっちにおいで」
俺は、厨房に入った。
おばさんは、俺の前に立った。
俺より、頭一つ小さい。
――なのに、見下ろされている気がした。
「――あんた、今、なんて言った」
「――返ってこなければ、って」
「もう一回言ってごらん」
「――……」
「――言えないだろ」
◇
おばさんは、俺の胸を、指で突いた。
一回だけ。
――強くはなかった。
「あんたね」
彼女は、言った。
「――十二年、あたしが何を思ってたと思う」
「――……」
「返してほしかったんだよ。毎年、利息を払いに行くたびにね。……あの棚の中に、あたしの【味見】があるんだ」
彼女は、自分の胸を叩いた。
「――ガラス越しに、見えるんだよ。番号札つけられてね」
「――番号」
「四千八百十二番」
彼女は、あっさり言った。
「十二年、同じ番号だ」
◇
「――十二年だ」
彼女は、言った。
「十二年、あたしはそれを見に行ってた」
彼女は、俺を見た。
「――返ってきたんだよ、昨日」
◇
俺は、何も言えなかった。
「――借金は、あたしのだ」
おばさんは、言った。
「あたしが借りた。あたしが利息を払ってた。……あんたが返してくれたんだから、あたしが払う番だろ」
「でも」
「でもじゃないよ」
彼女は、鍋に戻った。
「――四百二十枚、どうにかするさ」
「――どうにかなりますか」
「ならないね」
彼女は、あっさり言った。
「――だから、十四日、うまい飯を作る」
「――それ、どうにかなってないです」
「なってないよ」
彼女は、鍋をかき混ぜた。
「――でも、他にやることがないだろ」
◇
俺は、厨房に立ったまま、その背中を見ていた。
五十年、この鍋を振ってきた背中だ。
「――おばさん」
「なんだい」
「俺、何をすればいいですか」
◇
おばさんは、鍋をかき混ぜながら、言った。
「――皿を洗いな」
「それだけですか」
「――それだけだ。あと、割るんじゃないよ。今、皿を買う金はないんだ」
「――割らないです」
「割るだろ」
「――割らないです」
◇
俺は、その日、皿を六十七枚洗った。
一枚も割らなかった。
――割らなかったのは、五年で初めてだった。
夜、店を閉めたあと、おばさんが言った。
「――ロイ」
「はい」
「――明日は、割っていいよ」




