第62話 三百人の列
三日かかった。
九万九千九百九十九段を、下りきるのに。
最後の一段を踏んだ時、シャノンが言った。
「――膝が、他人のものみたい」
「――わかります」
「あなた、【不撓不屈】でしょ」
「――他人のものです」
「効いてないじゃない」
「折れてはいないです」
「膝が笑うのは、折れたって言わないの?」
「言わないみたいです」
◇
王都の中央広場に、俺たちは立った。
――静かだった。
三か月前、百人の候補が集められた場所だ。
あの日は、人がひしめいていた。露店が出て、賭け札屋が板を掲げて、子供が石畳を走り回っていた。
今日は、誰もいない。
石畳に、木版刷りの紙が一枚、落ちていた。風で、端がめくれていた。
「誰も、いませんね」
「――いえ」
フィナが、北の通りを見た。
「――いるようです」
◇
北の通りは、金貸し組合の本部に続いている。
石造りの、四階建て。王都で三番目に大きい建物だ。
その前に、人がいた。
――列だった。
通りの角を曲がって、その先まで続いている。
「何人ですか、あれ」
「――三百人ほどかと」
「数えたんですか」
「角までで百二十、その先は推定です」
◇
俺は、その列を見た。
――妙だった。
人が三百人並んでいたら、普通は、うるさい。
文句を言う奴がいて、割り込む奴がいて、それを怒鳴る奴がいる。
――誰も、喋っていなかった。
全員が、胸を押さえていた。
右手を、心臓の上に。
――才牌を、押さえる手つきだった。
持っていない人間の、押さえ方だ。
「ロイさん」
「はい」
「――あの人たち、待っています」
「――何をですか」
「胸が、熱くなるのを」
◇
俺は、列の後ろに回った。
最後尾に、若い男が立っていた。二十歳くらいだ。指の関節が、太かった。
「――あの」
「――ああ?」
彼は、俺を見た。
――俺の顔を、知らないようだった。
「ここ、何の列ですか」
「――知らねえのか」
「三日、王都にいなかったので」
「――田舎もんか」
「浮島です」
「は?」
彼は、聞き流した。
たぶん、聞こえていたけど、意味がわからなかったんだと思う。
◇
「――返るんだよ」
彼は、そう言った。
「――返る?」
「才牌だ」
彼は、胸を押さえた。
「三日前の夜に、組合から札が回った。……『担保として預かっている才牌を、全て返還する』」
彼は、その紙を見せた。
――印刷だった。木版で刷った、粗い紙。
文字が、ところどころ潰れていた。急いで刷ったのが、わかった。
◇
「返還」
「そうだ」
「――なんでですか」
「知らねえよ。なんか、上の方で、規則が変わったらしい」
彼は、鼻を鳴らした。
「――百年に一度の大会で、誰かが偉いことをしたんだと」
「――そうですか」
「うちの親方は、嘘だって言ってる」
「――嘘ですか」
「三年、そう言われ続けたからな」
彼は、あっさり言った。
「『来月には返す』ってのを、三十六回聞いた」
◇
俺は、フィナを見た。
フィナは、俺を見た。
――何も言わなかった。
「――あんた、才牌は」
男が、聞いてきた。
「一枚あります」
「――一枚か」
彼は、少し笑った。
「――そりゃ、いいな」
「俺は、ゼロだ」
彼は、そう言った。
「――親父が病気でな。三年前に、二枚とも預けた」
彼は、胸を押さえた。
「【石積み】と【目測】だ。……石工なんだよ、うち」
彼は、自分の手を見た。
「――三年、日雇いだ。石は積めるが、まっすぐ積めねえ」
「――まっすぐは、目で測れないですか」
「測れる奴もいる」
彼は、そう言った。
「うちの親方は、才牌なしで四十年やってる。……俺は、三年で覚えられんかった」
「今日、返るんですね」
「――返るはずだ」
彼は、列の先を見た。
「昨日、五百人並んで、三百人しか捌けなかった。今日は、朝の四時から並んでる」
「――今、昼過ぎですよ」
「知ってる」
◇
俺は、その列を、もう一度見た。
三百人。
全員が、胸を押さえて、黙って立っている。
――誰も、笑っていなかった。
◇
「フィナさん」
「はい」
「――なんで、誰も喜んでないんですかね」
「喜んでいます」
彼女は、静かに言った。
「――そう見えないです」
「――三年待った人は、あと三時間待つのが、いちばん怖いんです」
「――怖い」
「順番が来るまで、まだ、返らない可能性があります」
彼女は、そう言った。
「返ったあとは、もう、怖くありません」
◇
俺は、その言葉を、飲み込んだ。
列の先で、組合の扉が開いた。
誰かが出てきた。
――胸を押さえたまま、その場にしゃがみ込んだ。
声は、聞こえなかった。
列の何人かが、そっちを見た。
――そして、誰も、何も言わなかった。
また、前を向いた。
◇
「ロイさん」
「はい」
「行きましょう」
「どこにですか」
フィナは、南を向いた。
下町の方角だ。
「――ガルドさんのところです」
「――爺さん、質に入れてましたっけ」
「入れています」
彼女は、あっさり言った。
「十年前です」




