第60話 この者は、折れない
「――『この者は、折れない』」
フィナの声が、闘技場に響いた。
「――それだけ、ですか」
白装束が、聞いた。
「それだけです!」
彼女は、叫んだ。
「――ですが、条件がありません!」
◇
「――条件が、ない」
「はい!」
彼女は、紙束を投げ捨てて、両手で叫んだ。
「才能には、必ず条件があります! 発動条件、持続時間、消費、代償! 私が三年見てきた才牌は、全部そうです!」
彼女は、俺を指した。
「――【不撓不屈】には、一つもありません!」
◇
闘技場が、ざわめいた。
「――つまり」
白装束が、言った。
「――永続、無条件、無代償」
「はい」
「――折れない」
彼は、その言葉を、繰り返した。
「――比喩ではなく」
◇
俺は、自分の手を見た。
――変わっていなかった。
力は出ない。速くもならない。剣は下手なままだ。
――ただ。
膝が、震えていなかった。
視界が、白くなかった。
息が、整っていた。
◇
「――白装束さん」
「はい」
「――俺、まだ立ってます」
「――はい」
「――たぶん、あと三十分、立ってます」
「――はい」
「――試合、あと十五分ですよね」
◇
白装束は、両手を下ろした。
そして、深く、頭を下げた。
「――七十席、ロイ」
「はい」
「――一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「――あなたは、なぜ、折れないのですか」
◇
俺は、少し考えた。
――四百四十一枚の皿。
――三万六千回の転倒。
――四十七分。
――九万九千九百九十九段。
――八十九回。
全部、地味だった。
◇
「――たぶん」
俺は、言った。
「――折れる前に、次の日が来るからです」
◇
白装束の動きが、止まった。
「――次の、日」
「はい」
俺は、言った。
「皿を割って、怒られて、落ち込んで。……でも、次の日が来ます」
俺は、言った。
「次の日が来ると、また食堂に行きます。……行ったら、また皿を割ります」
俺は、笑った。
「――五年、それの繰り返しでした」
◇
「――それが、折れない、ということですか」
「――わかんないです」
俺は、正直に言った。
「――でも、たぶん、そういうことだと思います」
俺は、彼を見た。
「――折れるって、次の日に行かないことです」
◇
白装束は、長いこと、動かなかった。
やがて、彼は、片手を上げた。
――俺は、身構えた。
でも、彼は、俺を狙わなかった。
――自分の、顔の布に、手をかけた。
◇
布が、落ちた。
――顔が、あった。
普通の顔だった。
三十くらいの、どこにでもいる男の顔。
――ただ、目が、疲れていた。
百年分。
◇
「――わたくしの名は、セン」
彼は、名乗った。
「――百年前の、優勝者です」
闘技場が、静まり返った。
「――そして、百年前」
彼は、言った。
「――九十九人に、才牌を返さなかった男です」
◇
彼は、俺の前に、歩いてきた。
そして、片膝をついた。
「――七十席、ロイ」
「はい」
「――わたくしの、負けです」
◇
「――え?」
「まだ十五分ありますけど」
「――ございます」
彼は、頭を下げたまま言った。
「――ですが、わたくしは、あなたを倒せません」
彼は、言った。
「わたくしの武器は、百年分の記録でした。……人の折れ方を、千人分、覚えました」
彼は、顔を上げた。
「――折れない者の倒し方は、記録にありません」
◇
闘技場が、爆発した。
九十人が、一斉に、声を上げた。
俺は、その場に立っていた。
――立っていた。
◇
「――ロイさん!!」
フィナが、闘技場に飛び降りてきた。
紙束を、抱えたまま。
「――勝ちました! 勝ちましたよ!」
「――はい」
「――第一席に!!」
「――はい」
「――才牌一枚で!!」
「――一枚で」
◇
彼女は、俺の前で、泣いていた。
三年、半人前と呼ばれた鑑定士が。
「――私、書きます」
彼女は、言った。
「――第四巻、書きます」
「――何ページになりますか」
「――千ページです」
「――多くないですか」
「――足りないです!」
◇
その日の夕方、島の中央の白い建物で、閉会式が行われた。
優勝者は、俺だった。
七日目終了時点で、才牌の数は――
「――一枚です」
セン、と名乗った男が、名簿を読み上げた。
「――第七十席、ロイ。才牌一枚。【不撓不屈】」
彼は、顔を上げた。
「――百才会戦、史上最少の優勝者にございます」
◇
「――優勝賞品につきまして」
彼は、言った。
「ロイ様は、受け取りを辞退されました」
広間が、ざわめいた。
「――代わりに、規則の改定を求められました」
彼は、石の名簿を掲げた。
そして、そこに、指で文字を書いた。
――百年ぶりの、書き換えだった。
◇
『会戦規則 第百一条』
『才牌は、いかなる契約においても、担保に供してはならない』
『既に担保として保有されているすべての才牌は、本条の施行をもって、原保有者に返還される』
◇
広間が、静まり返った。
それから、誰かが、立ち上がった。
第三席のカイル。百二十枚の男だった。
「――ふざけるな」
彼は、言った。
「才牌の担保は、金貸し組合の商売の根幹だ。……国が傾くぞ」
「――傾きません」
センは、あっさり言った。
「――なぜだ」
「――百年前に、同じ条文が提案されておりました」
◇
彼は、名簿をめくった。
「百年前、会戦の後、一人の候補者が、これを提案しました」
彼は、言った。
「――却下されました。提案者が、優勝者ではなかったからです」
彼は、顔を上げた。
「――その提案者の名は、ガルド・オルグレン」
◇
俺は、その名を、聞いた。
――ガルド。
「――待ってください」
俺は、言った。
「その人、才能を取られて帰ってきた平民ですよね」
「――はい」
「――その人の、息子は」
センは、名簿を見た。
「――鍛冶屋を、営んでおられるそうです」
◇
俺は、その場に、立ち尽くしていた。
――爺さん。
あの人が、十年前に才牌を貸したのは、娘の嫁入りの金のためだと言った。
――そして、十年、打てなかった。
それでも、五日前から炉に火を入れて、三日かけて、俺の剣を打った。
◇
「――セン、さん」
「はい」
「――この規則、いつ施行されますか」
「――本日、只今より」
彼は、言った。
「――百才会戦の規則は、地上の法に優先します」
彼は、深く、頭を下げた。
「――百年、誰も、それを使いませんでしたが」
◇
その夜。
俺は、島の縁に立っていた。
崖の下は、雲だった。
――明日、階段が戻る。
「――ロイさん」
フィナが、隣に来た。
「――帰りましょう」
「はい」
「――九万九千九百九十九段、下ります」
「――背負いますか」
「――今度は、私が背負います」
「――無理でしょ」
「――無理です」
◇
俺は、胸元の才牌を出した。
【不撓不屈】。
五つの升目が、全部、繋がっていた。
黒は、一つもなかった。
「――フィナさん」
「はい」
「――これ、これで終わりですかね」
「――いいえ」
彼女は、即答した。
◇
「――なんでですか」
「――一枚だからです」
彼女は、紙束を抱え直した。
「才牌は、一枚です。……升目は、五つ、全部埋まりました」
彼女は、顔を上げた。
「――ですが、二枚目がないとは、誰も言っていません」
◇
俺は、笑った。
「――増えるんですか」
「――わかりません」
彼女は、正直に言った。
「――三百十二ページ書いて、まだわかりません」
彼女は、少しだけ、笑った。
「――ですので、書き続けます」
◇
星が、近かった。
俺は、その空を、見上げていた。
――百人の候補が、この島に来た。
九人が、才牌を返された。
一人が、百年ぶりに顔を出した。
そして、一つの条文が、書き換わった。
◇
――才能は、仕様だ。
仕様には、穴がある。
◇




