第50話 九万九千九百九十九
「――は?」
「背中です」
俺は、しゃがんだまま言った。
「乗ってください」
「――む、無理です!」
「無理じゃないです」
「重いです!」
「軽いですよ、たぶん」
「たぶんって何ですか!?」
◇
結局、フィナは乗った。
三分、押し問答をして、日没が近いという事実に負けた。
「――重くないですか」
「重いです」
「――降ります!」
「降りないでください」
俺は、立ち上がった。
――重かった。
人ひとり、それに三百十二ページの仕様書。
「――ロイさん、あと三万段ですよ」
「知ってます」
「――無理です」
「――たぶん、無理です」
◇
俺は、上り始めた。
一段。二段。三段。
七万一段。七万二段。
――膝が、笑い始めた。
七万五千段で、視界が揺れた。
八万段で、息が、うまく吸えなくなった。
◇
「――ロイさん」
「はい」
「――降ろしてください」
「降ろさないです」
「――間に合いません」
「――間に合わせます」
「――ロイさん」
彼女の声が、震えていた。
「――私、鑑定士です。あなたの体の限界を、三百十二ページ分、知っています」
彼女は、言った。
「――あと、八千段で、あなたは倒れます」
◇
俺は、笑った。
笑ったら、息が切れた。
「――フィナさん」
「はい」
「その三百十二ページ、俺のこと、なんて書いてますか」
「――え?」
「【不屈】のところです」
彼女は、少し、黙った。
それから、言った。
「――『負傷や恐怖で、動きが鈍らない』」
「――その次は」
◇
「――『ただし、本人が「もういい」と判断した時点で、効果は消失する』」
彼女は、そう言った。
「――そうです」
俺は、一段、上った。
「だから、俺が『もういい』って言わない限り」
俺は、また一段、上った。
「――倒れないんですよ」
◇
八万五千段。
日が、沈み始めた。
空が、赤かった。
――浮島が、見えた。
階段の終わりに、島の影があった。逆さまの山みたいな、巨大な岩の塊。
その縁に、光が並んでいる。
――たぶん、先に着いた候補者たちだ。
「――あと、一万五千です」
フィナが、背中で言った。
「――数えてたんですか」
「――数えてました」
◇
九万段。
俺の足が、止まった。
――止まった。
動かそうとして、動かなかった。
「――ロイさん」
「――大丈夫です」
「――大丈夫じゃないです」
「大丈夫です」
俺は、目を閉じた。
――もういい、と思うな。
思うな。
◇
その時。
――上から、声がした。
「――おい! 七十席!」
俺は、顔を上げた。
階段の、五十段ほど上に、人が立っていた。
鎧の男。三十席のドルガ。
「――何やってんだ、お前!」
「――上ってます!」
「――遅えんだよ!」
彼は、階段を、駆け下りてきた。
◇
「――背負ってんのか、それ!」
「鑑定士です」
「――なんで背負ってんだ!」
「歩きなので」
「――お前もだろうが!」
彼は、俺の前で止まった。
それから、フィナを見て、俺を見て、それから、舌打ちした。
「――貸せ」
「え?」
「荷物だ! その紙束!」
◇
俺は、三百十二ページの仕様書を、渡した。
ドルガは、それを片手で持ち上げた。
「――重っ!? なんだこれ!」
「仕様書です」
「――お前の?」
「はい」
「――三百ページ!?」
「三百十二です」
「――どんな才能だよ!!」
◇
彼は、それを抱えて、階段を上り始めた。
「――行くぞ! 九千五百段だ!」
「――なんで、手伝うんですか」
俺が聞くと、彼は、振り返らずに言った。
「――借りだ」
「――借り?」
「予選、見た」
彼は、言った。
「四十七分。……あの六分が、気に入らねえ」
◇
「――気に入らない?」
「気に入らねえ」
彼は、言った。
「なんで待つんだよ。殴りゃ終わりだろうが」
彼は、階段を上りながら、続けた。
「――でも、なんで気に入らねえのか、二か月考えて、わかった」
彼は、そこで、少し黙った。
「――俺が、三十二枚奪った時に、一度も待たなかったからだ」
◇
俺は、その背中を、追った。
九万三千段。
九万五千段。
九万八千段。
――日が、沈みきる寸前。
◇
九万九千九百九十九段目に、足をかけた時。
俺は、倒れた。
仰向けに。
浮島の、岩の地面に。
フィナが、背中から転げ落ちた。
「――ロイさん!」
「――着きました」
俺は、空を見上げた。
――星が、出ていた。
地上より、ずっと近かった。
◇
その時、胸が、熱くなった。
俺は、震える手で、才牌を引っ張り出した。
【不屈】。
――その下の、三つ目の升目が。
黒が、剥がれかけていた。
◇
「――フィナさん」
「はい」
「――ほどけかけてます」
「――見えています」
彼女は、【看破】を使っていた。
目を見開いて、俺の才牌を見ていた。
「――ですが、ほどけません」
「――なんでですか」
「――足りません」
彼女は、言った。
「――あと、ほんの少しです」
◇
俺は、空を見上げた。
星が、近かった。
――あと、少し。
俺は、目を閉じた。
――九万九千九百九十九段、上った。
でも、これは、勝ちじゃない。
――ただ、着いただけだ。
◇
「――ロイ」
ドルガの声がした。
彼は、俺の隣に、仕様書を置いた。
「――お前、明日から、九十九人と戦うんだぞ」
「――はい」
「――才牌一枚で」
「――はい」
「――勝てると思ってんのか」
俺は、目を開けた。
星を見た。
「――思ってないです」
俺は、言った。
「――でも、諦めてもいないです」




