第5話 賭け札はゼロ
ガルド爺の店の奥、いつもの古い卓に、湯気の立つ豆のスープと黒パンが置かれた。
「食え」
「いただきます」
爺さんは向かいに座って、煙管に火を入れた。しばらく、俺がスープを飲む音だけが店に響いた。
「……逃げるか、坊主」
「え?」
「国境までの馬車代くらいは出してやる。隣国に行きゃ、不敬罪も決闘も追っては来ん。文字化けの小僧が一人消えたところで、王家は本気で探しゃせん」
俺はスープの椀を置いた。
爺さんの目は本気だった。冗談でこういうことを言う人じゃない。
「……ありがとうございます。でも、逃げません」
「理由を言ってみろ」
「逃げたら、あの花売りの婆ちゃんが『文字化けに逃げられた王子様』の八つ当たりを食うかもしれません。ドズさんも、俺を詰所から出した責任を取らされるかもしれない。それに――」
「それに?」
「決闘なら、途中でやめない限り、負けじゃないので」
爺さんは長いこと俺の顔を見て、それから、盛大に煙を吐いた。
「……理屈が貧乏くせえ。相変わらずだ」
「よく言われます。主に爺さんに」
「言っとくがな、坊主。俺はお前が勝てるとは思っとらんぞ」
「はい」
「三十七の才能ってのはな、腕が三十七本あるってことじゃねえ。『世界がそいつを三十七回ひいきする』ってことだ。剣を振りゃ当たるように世界が曲がる。火を呼びゃ燃えるように世界が傾く。才能ってのは、そういう仕組みだ」
爺さんの言葉は、いつもの悪態と違って、妙に具体的だった。まるで、その「仕組み」と殴り合ったことがある人間の言い方だった。
「……爺さん、なんでそんなに詳しいんですか」
「うるせえ。年の功だ」
爺さんは話を打ち切って、立ち上がった。
「今日はもう寝ろ。明日から、店の仕事は半分でいい」
「え、なんでですか」
「なんでもだ。……ああ、それとな、坊主」
店の奥へ消えかけた背中が、一度だけ止まった。
「決闘ってのは、届け出がいる。才牌の公式鑑定書だ。お前のそのイカレた牌でも、鑑定所の判は要る。明日、行ってこい」
◇
翌朝の下町は、俺の顔を見るなり大騒ぎだった。
「ロイ! 生きてたか!」
「お前、王子様に喧嘩売ったって本当か!?」
「売ってません。花を拾ってただけです」
「花を拾って王族と決闘になる奴が世界のどこにいるんだよ!」
ここに。
マーサおばさんの食堂に顔を出すと、おばさんは俺を見て、何も言わずに大盛りの朝飯を出した。皿洗いをしようとしたら、初めて断られた。
「今日はいい。割られたら困るからね」
「ひどい」
「……あんたねえ」
おばさんは、手を腰に当てて、それから、ふいっと横を向いた。
「決闘の日はね、店を閉めて観に行くから。……あんたが立ってる間は、あたしゃ帰らないよ。だから、精々長く立ってな」
「……はい!」
食堂を出ると、孤児院の弟分のピノが走ってきた。十歳。すばしっこくて、下町の情報は大人より早い。
「ロイ兄! 大変だよ、賭場! 賭場がすごいことになってる!」
連れて行かれた裏路地の賭場の店先には、黒板が出ていた。
『王子アルディス様 勝利:一・〇一倍』
『下町のロイ 勝利:三百倍』
そして黒板の下の隅に、チョークの小さな字でこう書いてあった。
『※ロイ側、賭け札ゼロにつき、受付中!』
「三百倍だよ!? 銅貨一枚が金貨三枚だよ!? なのに誰も賭けないんだ。胴元のおっちゃんが『こんな綺麗なゼロは初めて見た』って」
「はは……」
王都中の誰一人、俺が勝つ方に銅貨一枚張らない。
まあ、そうだよな。俺だって、俺の立場じゃなかったら賭けない。剣は飛ぶし、皿は割れるし、才牌は読めない。賭ける材料が、どこにもない。
「……ロイ兄は、悔しくないの?」
ピノが俺の袖を掴んだ。目が赤かった。
俺は少し考えて、正直に答えた。
「悔しいよ。でも、ゼロってことはさ」
「?」
「俺が一勝ちしたら、王都で一番びっくりする黒板になるってことだろ、これ」
ピノは、泣き笑いみたいな顔になった。
さて。びっくりさせる方法は、まだ何一つ思いついてないけど。
まずは言われた通り、鑑定所だ。届け出をしないと、決闘の舞台にすら立てないらしいから。
――この時の俺は知らなかった。
その鑑定所で、俺の人生で一番大事な出会いが待っていることを。




