第45話 手のひら
下町に戻ったのは、それから五日後だった。
馬車を降りると、通りに、人がいた。
――ずいぶん、たくさん。
「――ロイだ!」
「帰ってきたぞ!」
人が、集まってきた。
三か月前と、同じだった。
――いや、違った。
三か月前は、みんな、笑いながら寄ってきた。
今度は、誰も笑っていなかった。
◇
「――ロイくん」
声をかけてきたのは、パン屋のおかみさんだった。
「――あの、これ」
彼女は、紙袋を押しつけてきた。
「え、いや」
「いいから!」
「いや、あの、お代」
「いらないよ!」
彼女は、そう言って、俺の顔を見た。
それから、急に、泣きそうな顔になった。
「――あんた、五年、うちの前を通ってたねえ」
◇
「え?」
「毎朝、食堂に行く時さ。うちの前、通ってただろ」
「――通ってました」
「あたし、一回も、挨拶しなかったよ」
彼女は、エプロンで目を拭った。
「――ごめんね」
俺は、紙袋を持ったまま、固まった。
「――いや、あの」
「いいから、食べな」
彼女は、そう言って、店に戻っていった。
◇
同じことが、五回あった。
八百屋のおやじ。鍛冶屋の隣の靴屋。井戸端の婆さん。
みんな、何かを押しつけてきて、それから「ごめんね」と言った。
――誰も、「すごいね」とは言わなかった。
「――フィナさん」
「はい」
「これ、なんですか」
「――手のひら返し、ですね」
彼女は、あっさり言った。
「三か月前と、同じです」
「三か月前は、握手を求められました」
「はい」
「今回は、謝られてます」
「――はい」
◇
彼女は、少し、考えた。
「三か月前、みんなは『ロイは勝った』と思いました」
彼女は、言った。
「今回は――」
彼女は、俺を見た。
「――『ロイは、ずっとあそこにいた』と、気づいたんだと思います」
◇
俺は、その言葉を、飲み込むのに、時間がかかった。
――そうか。
五千人が見たのは、勝ちじゃない。
三十一回斬られて、十一回転んで、それでも立った四十七分だ。
あれを見た人は、たぶん、こう思う。
――こいつ、今日始まったわけじゃないな、と。
◇
マーサおばさんの食堂に行った。
裏口から入ると、おばさんは鍋をかき混ぜていた。
「――おや、来たね」
「はい」
「――生きてたね」
「生きてます」
おばさんは、鍋から目を離さなかった。
「――皿、割るかい」
「割りません」
「割るだろ」
「割りません」
「あんた、三日連続で割らなかった次の日は、必ず割るんだよ」
「――五日、寝てました」
「じゃあ、今日は割る日だね」
◇
俺は、エプロンを取った。
「――おばさん」
「なんだい」
「本戦、二か月後です」
「そうかい」
「――たぶん、勝てないです」
俺は、正直に言った。
「上の連中は、化け物だそうです。一桁台は、国が動くって」
「――そうかい」
おばさんは、鍋をかき混ぜ続けた。
「――で?」
「――で、って」
「勝てないから、やめるのかい」
◇
俺は、答えられなかった。
おばさんは、鍋から目を上げた。
「あんたね」
彼女は、言った。
「五年、うちで働いて、皿を何枚割ったと思う」
「――知りません」
「四百三十六枚だよ」
「――数えてたんですか!?」
「数えてたよ」
おばさんは、あっさり言った。
「四百三十六枚割って、四百三十六回謝って、四百三十六回、次の日も来た」
彼女は、俺を見た。
「――あんたが勝てないって言うのは、聞き飽きたよ」
◇
俺は、その場で、しばらく立っていた。
「……おばさん」
「なんだい」
「――ありがとうございます」
「礼はいらないよ」
彼女は、鍋に戻った。
「その代わり、今日は皿を割るんじゃないよ」
「――割りません」
「割るだろ」
◇
その日、俺は、皿を一枚割った。
おばさんは、笑わなかった。
代わりに、こう言った。
「――四百三十七枚目だ」




