第3話 拾い終わったら退きます
「文字化け……」
「おい、あいつ文字化けだったのか」
「知らなかったのか? 下町じゃ有名だぞ、文字化けのロイ」
人垣のささやきが、さざ波みたいに広がっていく。
王子アルディスは、俺の才牌を指先でつまんで、日にかざした。黒く塗り潰されたような五文字を、珍しい虫でも観察するように眺める。
「なるほど。読めん。……ふ、ははは」
王子は笑った。今度は、目も笑っていた。心の底から可笑しそうに。
「傑作だ。噂には聞いていたが、実物は初めて見た。神に名を呼ばれることすらなかった人間か。無才にも劣る、席のない魂。おまえたち、見ろ。これが『文字化け』だ」
王子が才牌を高く掲げると、人垣のあちこちから、遠慮がちな笑い声が起きた。笑わないと不敬になる、そういう種類の笑い声だった。
俺は黙って待った。怒りは、あまりなかった。この程度のことは十五年で慣れている。それより、早く才牌を返してもらって、婆ちゃんの荷車を溝から出してやりたかった。
「殿下。それ、返してもらっていいですか」
「……なに?」
「才牌です。身分証なので、ないと困るんです」
笑い声が、ぴたりと止んだ。
王子は俺をまじまじと見て、それから、ああ、と何かに気づいたように頷いた。
「そうか。おまえ、わかっていないのだな。自分が今、どういう状況にいるのか」
「行列を止めてしまった状況です。すみませんでした。でも道はもう空きました」
「わかっていないではないか」
王子の声から、温度が消えた。
「王族の行列を平民が止めた。これは不敬罪だ。鞭打ちか、鉱山送りか――首が飛んでもおかしくない罪だぞ。それを、道が空いたから終わり? ふざけているのか、おまえは」
「ふざけてません」
俺は、できるだけ丁寧に言った。
「殿下の進路を塞いだのは謝ります。でも、あそこで花を拾ったこと自体は、謝りません。あれを謝ったら、婆ちゃんの花に『踏まれてよかった』って言うことになるので」
「――ほう?」
「騎士様には『退け』と言われました。だから答えました。拾い終わったら、退きます、って。実際、拾い終わって、退きました。約束は守ったつもりです」
しん、と大通りが静まり返った。
人垣の顔、顔、顔が、全部同じ表情で固まっていた。「こいつは何を言っているんだ」という顔だ。うん、知ってる。俺もたまに自分でそう思う。
でも、これは本心だった。俺には才能がない。金もない。家名もない。だから、自分で決めたことを途中でやめたら、俺には本当に、何にも残らないんだ。
王子は、しばらく無言だった。
やがて、囁くような声で言った。
「無才が。……いや、無才ですらない、席なしの分際で」
その声は静かで、だからこそ、行列の騎士全員の空気が変わったのがわかった。
「余の前で、『退かない理由』を語ったのか。おまえが。この、余の前で」
「殿下、才牌を――」
「捕らえろ」
命令は短かった。
左右から騎士に腕を極められて、俺は石畳に膝をつかされた。抵抗はしなかった。しても無駄だし、暴れたら婆ちゃんに累が及ぶかもしれない。
人垣の中で、花売りの婆ちゃんが「小僧! 小僧!」と叫んでいるのが見えた。騒がないで、婆ちゃん。あんたは花を売って、今日の飯を食ってくれ。それでこの件は、俺の中では全部チャラだ。
「不敬罪だ。詰所へ運べ」
王子は俺の才牌を騎士に放り投げて渡すと、馬車へ戻りかけて、ふと足を止めた。
振り返った顔に、さっきまでなかったものが浮かんでいた。
思いつき、というやつだ。性質の悪い遊びを思いついた時の、あの顔。
「いや……待て。鞭打ちも鉱山も、つまらんな」
「殿下?」
「文字化け。おまえ、命拾いしたぞ。余は今、慈悲深い気分だ」
王子は、口の端だけで笑った。
「処罰は、なしだ。代わりに――余と、遊べ」
「……遊ぶ?」
「光栄に思え。席なしの魂に、余が直々に『席』というものを教えてやる」
嫌な予感しかしない台詞を残して、王子は馬車に消えた。
行列が動き出す。鐘が鳴る。俺は騎士に引きずられながら、遠ざかる黄金の馬車を見ていた。
――この時の俺は、まだ知らない。
この「遊び」が、俺の人生を丸ごとひっくり返すことになるなんて。




