第29話 玉座の間
――これは、ロイが知らない話である。
◇
王城の玉座の間は、冷えていた。
夏の終わりだというのに、石の床から這い上がってくる冷気が、跪いた膝を刺した。
第三王子アルディスは、そこに、三日ぶりに立っていた。
いや、正確には、跪いていた。
右目の周りには、まだ紫色の痕が残っている。唇の切れ目は塞がりきっていない。宮廷医は「才能なき治癒は時間がかかります」と困り顔で言った。彼は生まれて初めて、傷が治るのを待つという経験をしていた。
「顔を上げよ」
玉座から、父の声がした。
国王は、齢六十を超えてなお、五枚の才牌しか持たない。だが、その五枚は建国以来の系譜に連なる才能だった。数ではなく、格。それが王家の考え方だった。
「王都の中央広場にて、公開の才能決闘。相手は、無才の平民」
国王は、書簡を読み上げるように言った。
「規定に則り、汝は敗れた」
「……はい」
「そして、汝は帯を外したそうだな」
玉座の間に、ざわめきが走った。
左右に居並ぶ廷臣たちの中から、扇の陰で囁く声が漏れた。
「三十七枚を、地に置いたと」
「はい」
「なぜだ」
アルディスは、答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えが、あまりに簡単すぎて、この場では通じないと知っていたからだ。
――名で呼ばれてみたかった。
そんな理由が通る場所ではない。ここは、名ではなく、枚数と血筋で人が量られる場所だ。
「――王家の格を、汝は三十七枚ぶん、地に落とした」
国王は言った。
「よって、汝の王位継承権を停止する。王族名簿より、第三の位を削る。今後、汝を『殿下』と呼ぶことを、王城内において禁ずる」
廷臣の何人かが、息を呑んだ。
何人かは、笑いを堪えていた。
アルディスは、目を伏せた。
伏せた視界の中で、自分の掌が見えた。石畳の砂を、まだ洗い落としていない気がした。実際にはもう、とっくに落ちている。
「……承知いたしました」
「不服はないか」
「ございません」
「では、下がれ」
◇
彼が背を向けようとした、その時だった。
「――父上」
アルディスは、足を止めた。
「一つ、申し上げてよろしいでしょうか」
「申せ」
「あの少年は」
彼は、玉座を振り返った。
「六十二回、立ちました」
玉座の間が、静まった。
「三十七の才能を浴びて、六十二回です。私は、帯を外してから十一回しか立てませんでした。……格の差というものが、もし本当にあるのなら」
彼の声は、震えていなかった。
「それは、枚数のことではないのだと思います」
国王は、答えなかった。
答えないまま、手を振った。下がれ、という意味だった。
アルディスは一礼し、玉座の間を出た。
◇
廊下は、長かった。
すれ違う侍従が、目を伏せて道を空ける。今までは敬意で伏せられていた目が、今日は憐れみで伏せられていた。
彼は、それを一つずつ数えながら歩いた。
十七。十八。十九。
――数えるのは、悪くない。
あの広場で覚えた、たった一つの技だった。
自室の扉の前で、彼は立ち止まった。
扉の脇に、三十七枚の才牌を収めた箱が置かれていた。返却されたのだ。三十六枚は灰色で、一枚だけ――【値切り】が、抜けている。
彼は、箱の蓋を開けなかった。
代わりに、拳を握った。
親指を、外に。
「……もう一回」
声に出してみると、思ったより、みっともなかった。
みっともなかったが、悪くなかった。
◇
その夜。
王城の三階、使われていない客間の窓辺に、白装束の人影が立っていた。
城の者ではない。門を通った記録もない。
人影は、窓の外の王都を見下ろしていた。下町の方角、まだ灯りの多い一角を。
「……候補者、確認」
声には、性別も年齢も感じられなかった。
「才牌一。名は【諦めない】。分類――概念級、疑い」
白い手が、懐から一枚の名簿を取り出した。
九十九人の名が、既に埋まっていた。
最後の一行だけが、空白のまま残されていた。
「百年ぶりですね。空席のまま開幕を迎えずに済むのは」
白装束は、名簿を閉じた。
「明日、伺いましょう」




