第27話 一文字目
黒が、剥がれていく。
塗り潰されていた五つの升目の、一番左。
その黒が、内側から押し返されるみたいに、ぼろぼろと崩れて、松明の火に散った。
下から出てきたのは、金色だった。
「――【諦】」
誰かが、読んだ。
◇
二画目。三画目。
黒が剥がれるたびに、金の線が増えていく。
俺は、自分の胸元を見下ろしていた。
見下ろしながら、なぜか、朝稽古のことを思い出していた。
剣が七回飛んだ日のことだ。ドズさんが「お前の剣はお前に愛想を尽かしてる」と言って、俺が「じゃあ機嫌を取ります」と言って、八回目に飛ばした日のこと。
誰も見ていなかった、あの朝のことを。
「【諦め】……」
フィナの声が、震えていた。
彼女は、鑑定士の道具も出さずに、素の目でそれを見ていた。
見習いの【看破】が、初めて、はっきりと何かを捉えた顔だった。
「【諦めない】」
◇
五文字が、揃った。
【諦めない】
金の文字が、石の上で光っていた。
広場は、無音だった。
誰も、何も言わなかった。
言えなかったんだと思う。
だって、才能の名前じゃない。
【火焔】でも【剣聖】でも【俊足】でもない。何かができる名前じゃない。
それは――ただの、態度の名前だった。
◇
「……なんですか、これ」
俺は、間抜けな声を出した。
「これ、才能ですか?」
「才能です」
フィナが、掠れた声で言った。
「才牌に、金の文字が刻まれています。……これは、才能です。間違いなく」
「でも、何ができるんですか、これ」
「……わかりません」
彼女は、正直に言った。
「わかりませんけど。……ロイさん、これ、ずっとあったんです」
彼女は、俺の胸元を指した。
「壊れてたんじゃない。塗り潰されてたんです。……何かが、上から黒く塗って、隠してたんです。十五年、ずっと」
「誰が」
「わかりません。でも」
フィナは、金の五文字を見つめた。
「今日、一文字目だけが、ほどけた」
◇
審判の神官が、我に返ったように、声を張り上げた。
「――規定第二条の履行を行います! 敗者の才牌より、一枚!」
王子の帯が、舞台に運ばれてきた。
三十七枚。今は、そのほとんどが灰色だ。
俺は、選ぶ気になれなかった。
あの人が集めた三十七枚だ。名前の代わりに背負ってきた三十七枚だ。そこから一枚もぎ取るというのが、どうにも、しっくり来なかった。
「……一番、安いのでいいです」
俺は言った。
「一番安いのって、どれですか」
神官は目を白黒させて、帯を確かめ、そして戸惑ったように一枚を持ち上げた。
「……【値切り】。市場での交渉が、わずかに有利になるという、その」
「それでいいです」
広場が、どよめいた。「馬鹿か!」という声が三箇所から上がった。マーサおばさんの声も混じっていた。
◇
【値切り】の才牌が、俺の手に置かれた。
置かれた瞬間だった。
俺の胸元の【諦めない】が、ひときわ強く光った。
そして。
手の上の【値切り】が――
◇
音もなく、消えた。
◇
溶けたんじゃない。砕けたんじゃない。
吸い込まれた。
俺の【諦めない】の、金の文字の中へ。
文字が、ほんのわずかに、太くなった気がした。
「……え」
俺は、空になった掌を見た。
「え、ちょっと、なくなったんですけど」
「――喰った」
フィナが言った。
彼女の顔から、血の気が引いていた。
「今、【諦めない】が……【値切り】を、喰いました」
◇
広場が、ざわめいた。
ざわめきは、悲鳴に近かった。
才能が才能を喰う。そんな話は、王国のどこにも記録がない。
神官が震える手で書板に何かを書き付けている。側近らしき男が人垣を割って走り出した。誰かが「これは報告せねば」と叫んでいた。
その騒ぎの真ん中で、俺は、自分の胸元を見ていた。
【諦めない】。
残りの四つの升目は、まだ黒い。
――一文字目。
ということは。
二文字目が、あるということだ。
◇
「……フィナさん」
「はい」
「これ、たぶん、まだ四つあります」
「……はい」
「四つ、ほどくには、どうしたらいいと思います?」
フィナは、しばらく黙っていた。
それから、散らばった解析の紙を一枚拾って、埃を払って、言った。
「……たぶん、今日と同じことを、あと四回です」
「四回」
「はい。四回」
俺は、星空を見上げた。
全身が痛い。指が折れている。眉毛がない。明日はきっと動けない。
それでも、口から出たのは、いつもの五文字だった。
「――もう一回、か」




