第25話 六十二回目
六十回を超えたあたりから、時間の感覚がなくなった。
立つ。押す。押される。転ぶ。立つ。
それだけの作業が、松明の火の中で、延々と繰り返された。
俺の体は、もうほとんど言うことを聞かない。
でも、立ち方だけは、体が覚えていた。
斜めに、半歩前へ。
ガルド爺が一晩で叩き込んだ、たった二つの技のうちの、片方。
◇
「六十一!」
王子が転んだ。
立った。
「六十一!」
俺が転んだ。
立った。
数は、並んでいた。
朝からの合計は、俺の方がずっと多い。三十七の才能に殴られていた時間があるからだ。
でも、帯を外してからの数は、ぴったり同じだった。
◇
「――ロイ」
王子が、初めて、俺の名前を呼んだ。
「なんですか」
「貴様、名を、なんという」
「……いま、呼んだじゃないですか」
「ああ、そうか」
王子は、ふらつきながら笑った。
もう、まともに喋れていなかった。
「余は、アルディスだ」
「知ってます」
「一度も、名で呼ばれておらん」
「……そうですか」
俺は、息を吸った。
吸ったら、脇腹が焼けるように痛んで、視界が暗くなった。
それでも、言った。
「アルディスさん」
王子の目が、見開かれた。
「……なんだ」
「もう一回、行きます」
◇
六十二回目。
俺は、踏み込んだ。
踏み込んだつもりだった。実際は、ただ前に倒れただけだったのかもしれない。
でも、体は前に出た。
王子も、前に出た。
二人の拳が、同時に出た。
◇
俺の頬に、彼の拳が入った。
彼の胸に、俺の掌が入った。
二人とも、後ろへ倒れた。
石畳に、二つの音が響いた。
松明の火が、風で揺れた。
広場は、無音だった。
◇
仰向けで、俺は空を見た。
星が出ていた。
朝は洗濯日和の青空だったのに、いつのまにか、星が出ている。
ずいぶん長いことやってるな、と思った。
――立て。
体に言った。
体は返事をしなかった。
――立て。
もう一度言った。
指が、動いた。
◇
頭のやさしい声が、また来た。
今度は、いちばんやさしかった。
『もういい。誰も責めない。むしろ、みんな讃える。王子と互角に六十二回。歌になる。伝説になる。ここで終われば、綺麗な話だ』
……うるさいな。
俺は、そいつに言った。
俺、綺麗な話とか、興味ないんだよ。
だって俺、剣を千回飛ばして、皿を何百枚割って、道を何十回間違えて、それでも今日ここに立ってる。
綺麗じゃない。
一回も綺麗じゃなかった。
でも、続いてる。
――それだけが、俺の全財産なんだ。
「……もう、いっかい」
◇
肘が、石畳を掴んだ。
膝が、返事をした。
斜めに、半歩前へ。
俺は、立った。
「――ろく、じゅう、に……!」
ピノの声が、震えていた。
広場が、息を吸う音がした。
◇
俺は、隣を見た。
王子は、石畳に手をついていた。
立とうとしていた。
手が、震えている。腕が、体を持ち上げられない。
それでも、彼は、もう一度、手をついた。
――立てよ。
俺は、そう思った。
自分でも、意味がわからなかった。俺が勝つには、この人が立たない方がいいに決まっている。
でも、そう思った。
立てよ、アルディスさん。
あんたも、もう一回、やってみろよ。
◇
王子の腕が、震えて。
震えて。
――力が、抜けた。
彼の体が、石畳に落ちた。
落ちて、動かなかった。
◇
審判の神官が、舞台に駆け上がった。
王子の脈を確かめ、瞳を確かめ、それから、松明の光の中で、ゆっくりと立ち上がった。
その手が、上がる。
広場の、全員が、息を止めた。
「――第三王子アルディス殿下、続行不能」
神官の声が、震えていた。
「勝者――下町の、ロイ」




