第24話 二人とも、ゼロ
最初の一発は、王子が外した。
思いきり振りかぶって、思いきり空を切って、勢い余って半回転した。
広場から、悲鳴とも笑いともつかない声が上がった。
俺は、殴り返さなかった。
殴り返すより先に、教えてしまった。
「振りかぶらないでください。肩から先に出るので、丸見えです」
「……ぐ」
「あと、足が揃ってます。前後に開いてください。そうしないと、押されただけで転びます」
「――貴様、余を愚弄しているのか!」
「してないです。俺、他に喋ることないんで」
◇
二発目は、当たった。
頬に。
痛かった。
正直に言うと、朝の【剛力】の百分の一も痛くなかった。でも、痛かった。
殴られたのが痛いんじゃない。
殴られたのが、ちゃんと「人間の拳」だったのが、なんだか、痛かった。
俺は転んで、立った。
「五十一」
◇
俺も、殴った。
左の掌で、王子の胸を押した。
王子は転んだ。
立ち上がるのに、彼は五秒かかった。
次は、彼が俺を押した。
俺は転んだ。
立ち上がるのに、俺は三秒かかった。
――勝ってる。
俺は、立ち上がりの速さでだけ、この人に勝っている。
十五年ぶんの差だ。
◇
殴り合いは、みっともなかった。
どっちも技がない。どっちも足元がふらついている。どっちも、当たるより外れる方が多い。
英雄譚には、絶対に書かれない類の絵面だった。
でも、広場の誰も、笑わなかった。
夕日の中で、王都の全員が、その、みっともない殴り合いを、じっと見ていた。
◇
「――なぜ、笑わぬ」
王子が、荒い息の下で言った。
俺にではなく、広場に向かって。
「余は今、才能を持たぬ。王族の格もない。剣も刃も、何ひとつ持たぬ。……ただの、無様な十七歳だ。笑え」
誰も、笑わなかった。
誰かが、小さく言った。
「……殿下、まだ立ってるじゃねえか」
別の誰かが言った。
「あと何回立つんだよ、二人とも」
誰かが数え始めた。
「ごじゅう、に!」
――俺じゃなかった。
王子が立った回数だった。
広場は、いつのまにか、二人ぶんを数えていた。
◇
王子の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
泣いたのかと思った。
違った。
笑っていた。
「……はっ」
彼は、口の血を拭って、笑った。
「――は、はは。なるほど」
彼は、拳を握り直した。今度は、親指を外に。
「これが、貴様の十五年か」
「はい」
「地獄だな」
「そうですかね」
俺は、少し考えて言った。
「わりと、楽しいですよ。もう一回できるので」
◇
その後のことは、正直、あまり覚えていない。
覚えているのは、断片だけだ。
王子の拳が頬に来て、視界が揺れたこと。
俺の掌が王子の肩を押して、二人でもつれて倒れたこと。
石畳が冷たかったこと。
立ち上がりながら、王子が「五十四」と自分で数えたこと。
それを聞いて、俺が笑って、笑ったせいで肋骨が悲鳴を上げて、また転んだこと。
その俺を、王子が――待ったこと。
殴らずに、立つのを、待ったこと。
◇
「殿下」
俺は、立ち上がりながら聞いた。
「なんで、待つんですか」
「……知らん」
王子は言った。
「余は、待つということを、今日初めてした。……悪くない」
「そうですか」
「貴様は、なぜ待った」
「え?」
「先ほど、余が転んだ時。貴様も、殴らなかった」
言われて、気づいた。
俺も、待っていた。
「……たぶん」
俺は言った。
「まだ、終わってほしくなかったんだと思います」
◇
夕日が、屋根の向こうに沈みかけていた。
誰かが、松明を灯した。
一本が二本になり、二本が十本になり、気がつくと、広場中に火が灯っていた。
王都の全員が、この決闘を、夜まで見る気でいた。
俺は、火に照らされた王子の顔を見た。
ぼろぼろだった。
鏡がないからわからないけど、俺は、たぶんもっとひどい。
「――もう一回」
俺は言った。
「ああ」
王子は、頷いた。
「もう一回だ」




