第23話 空の皿
夕方になっていた。
舞台に、長い影が落ちていた。俺の影と、王子の影。二つとも、ふらふら揺れていた。
誰も帰らなかった。
朝、「昼までかからねえよ、午後は祭りだ」と言っていた連中が、一人も帰っていなかった。
水を運んでくる者がいた。俺にも、王子にも。審判が止めなかったので、二人とも飲んだ。
水は、うまかった。
◇
じゃら。
三十枚目が、灰色になった。
王子は、もう、才牌を選ばなくなっていた。選ぶ必要がないのだ。生きている牌が、数えるほどしか残っていない。
「――【剛力】」
拳が来る。
速くない。朝の速さの、半分もない。
俺は避けた。
避けられた。
◇
その事実に、たぶん、王子より俺の方が驚いた。
朝は、見えなかった。動きが見えないどころか、殴られたことにも気づかなかった。
今は、見える。
拳が、腕が、肩が、動く順番が見える。
速くなったのは、俺じゃない。遅くなったのは、王子でもない。
――減っただけだ。
これがフィナの言っていた消耗戦か。ずっと、そう聞いていた。聞いていたけど、実際に自分の目で見ると、なんというか、地味だった。
英雄譚みたいな逆転じゃない。
ただ、豪華な皿が、少しずつ空になっていくだけの、静かな作業だった。
◇
じゃら。
三十四枚目。
「……ぐ」
王子が、片膝をついた。
誰も押していない。誰も殴っていない。
自分の重さで、膝が落ちた。
【心身剛健】が、枯れたのだ。
六つの時から一度も風邪を引かず、転びもせず、擦り傷ひとつ負わなかった王子の体に、十七年分の疲労が、一度に請求書を突きつけた。
彼は、両手を石畳について、荒く息をした。
「……なんだ、これは」
掠れた声だった。
「体が、重い。……こんなに、重いのか。人間の体は」
「はい」
俺は言った。
「そんなもんです」
◇
じゃら。
じゃら。
三十五。三十六。
残り、一枚。
最後まで残ったのは、【危険感知】だった。
常時点灯の、地味な一枚。危ないものが来ると、体が勝手にびくりとする、それだけの才能。
王子は、膝をついたまま、その一枚を見ていた。
そして、帯に手をかけた。
「――外す」
◇
広場が、どよめいた。
「殿下!?」
「なりません、殿下! せめてその一枚だけは!」
側近らしき男が柵の外から叫んだ。
王子は、聞かなかった。
帯を外して、石畳に置いた。三十七枚の才牌が、じゃらり、と重い音を立てた。
三十六枚は灰色。一枚だけが、まだ光っている。
「余は、この帯で呼ばれてきた」
王子は言った。膝をついたまま、俺を見上げて。
「『三十七の王子』と。……名ではなく、枚数で」
彼は、立ち上がった。
ふらついて、二度よろけて、それでも立った。
律儀に、真上に。
「今日は、名で呼ばれてみたい」
◇
俺は、口を開いた。
開いて、何を言えばいいのかわからなくなった。
喉から出たのは、たぶん、この日いちばん間抜けな一言だった。
「……えっと。俺、まだ、負けてないですけど」
「知っている」
「あと、たぶん、まだ何十回か立ちますけど」
「知っている」
王子は、拳を握った。
握り方が、下手だった。親指を中に入れていた。それをやると指が折れると、ドズさんに一番最初に教わる。
――才能に頼らない戦い方を、この人は、一度もしたことがないのだ。
俺は、少し迷ってから、言った。
「殿下。親指、外側です」
王子が、まばたきをした。
「……なに?」
「親指、拳の内側に入れると、折れます。外に添えてください」
王子は、自分の拳を見た。
それから、親指を外に出した。
「……なぜ、教えた」
「なんとなくです」
俺は言った。
「その方が、たぶん、長く続くので」
◇
夕日が、舞台の真ん中で、二人の影を長く伸ばしていた。
才能三十七枚の王子と、才牌一枚の無才。
どちらも、いま、手ぶらだった。
審判の神官が、震える声で言った。
「――両者、続行の意思を確認します」
「ある」と王子が言った。
「あります」と俺が言った。
広場が、割れた。




