第20話 半歩の右
王子の右足が、引かれた。
時間が、伸びた気がした。
たぶん気のせいだ。俺に時間を伸ばす才能はない。ただ、三十八回転がって、三十八回立った体が、その一瞬だけを見るために、余計なものを全部捨てただけだ。
前髪は払われなかった。剣も下げられなかった。所作は、今回もまた違う所作だった。
でも、右足は、引かれた。
――今。
◇
俺は、走らなかった。
走れないからだ。腿が裂けている。全力で踏み込んだら、たぶんそこで足が壊れる。
だから、転んだ。
右へ。
立ち上がる時の「斜めに半歩前」を、そのまま横に倒しただけの動き。ガルド爺に一晩で叩き込まれた、たった二つの技のうちの片方。
石畳の上を、肩から滑る。
王子の視界の、右外へ。
◇
【威圧】の圧が、俺のいた場所を潰した。
空振りだ。
王子の顔が、初めて――本当に初めて、こちらを「探した」。
探すということは、見えていないということだ。
三十七の才能の中に、【千里眼】がある。それがついていれば、俺の位置なんて一瞬でわかる。
でも今、彼は【威圧】を出したばかりだ。
枠は、埋まっている。
◇
俺は、王子の右斜め後ろで、体を起こした。
右腕は上がらない。だから、左だ。
左の拳を握って――握ろうとして、指がちゃんと閉じないことに気づいた。どこかで折れているらしい。
ええい。
俺は、拳を捨てた。
代わりに、掌を開いて、突き出した。
ガルド爺の技だ。押した相手が、勝手に転ぶ、あれ。あの技を俺が使えるとは思っていない。一晩で身につくなら、俺の剣は千回飛んでいない。
でも、押すだけなら、できる。
俺は、王子の右肩を、押した。
◇
――王子が、転んだ。
◇
広場が、無音になった。
誰も声を出さなかった。ピノも、マーサおばさんも、ドズさんも、フィナも。
白い決闘装束が、石畳に膝と手をついていた。
三十七枚の才牌の帯が、地面に垂れて、音を立てた。
ただの、押しだ。
殴ってもいない。技でもない。腰の入っていない、片手の、それも折れた指の、頼りない一押し。
でも、才能に守られていない十七歳は、それで転んだ。
当たり前だ。
人間は、押されたら、転ぶ。
◇
どよめきが、遅れて、津波みたいに来た。
「押した! 押しやがった!」
「王子様が転んだぞ!」
「見たか今の! 見たか!?」
「ロイ! ロイ! ロイ!」
自分の名前が広場に響くのを、俺は初めて聞いた。
十五年、この街で、俺の名前が呼ばれる時はだいたい「またお前か」とセットだった。
変な感じだった。
変な感じだったので、俺は、ちょっと笑ってしまった。
笑ったら脇腹に激痛が走って、その場でうずくまった。
◇
「――ロイさん! 続けて!」
柵の向こうで、フィナが叫んでいた。
「切り替えは一回じゃありません! 王子様、消耗してます! 次も、その次も、必ず継ぎ目が来ます!」
わかってる。
でも、動けない。
うずくまったまま、俺は、王子が立ち上がるのを見た。
◇
王子は、ゆっくりと立った。
俺みたいに斜めじゃない。律儀に、真上に。
その顔を見て、俺は、背筋が寒くなった。
怒ってはいなかった。
彼は、自分の掌を見ていた。石畳の砂がついた掌を、初めて見る他人の手みたいに、じっと。
「……余は」
彼は、掠れた声で言った。
「転んだのは、いつ以来だろうな」
◇
答える者は、いなかった。
王子は掌の砂を払わずに、そのまま俺を見た。
「六つの時に、最初の才牌を授かった。【心身剛健】だ。以来、余は、風邪も引かず、転びもせず、擦り傷ひとつ負わずに育った」
彼の声は、静かだった。
「余は第三王子だ。上に二人いる。王位は回ってこない。血筋では価値が量れん。ゆえに――余は、才能を集めた」
帯が、じゃらりと鳴った。
「一枚、また一枚。三十七枚。王国史上、最多だ。余は『三十七の王子』と呼ばれる。名前ではなく、枚数で呼ばれる」
王子は、笑った。
その笑い方が、なんだか、俺の知っている笑い方に似ていた。
朝、皿を割って、マーサおばさんに謝りながら、自分で自分を笑うときの、あの笑い方に。
「貴様は、名前で呼ばれているな。今」
「……はい」
「そうか」
王子は、帯に手をかけた。
残っている才牌のうち、一枚だけを、指で選んだ。
「では、こうしよう」
選んだのは、【剣聖】だった。
「切り替えねば、継ぎ目は生まれん。……これ一枚で、貴様を潰す」




