第19話 頭が先に音を上げる
その声は、静まり返った広場に、よく通った。
――次の切り替えで、右。
わかってる。俺も同じ結論に辿り着いていた。王子は右足を引く。だから、引いた側は、体重が抜ける。
その一瞬に、右へ回り込む。
簡単な話だ。
簡単な話のはずだった。
◇
問題は、俺の体が、まったく言うことを聞かないことだった。
右足を出そうとして、出なかった。
命令はしている。膝から下が、返事をしない。
あ、これはまずいな、と他人事みたいに思った。
次の瞬間、【剛力】の拳が来て、俺は舞台を三分の一ほど滑った。
仰向けで、空が見えた。
王都の空は、晴れていた。今日は洗濯日和だとマーサおばさんが言っていたのを思い出した。
――ああ、そうか。
これか。
◇
ガルド爺の言葉が、頭の中で再生された。
『お前は必ず、一度は「もう無理だ」と思う。体じゃなく、頭がそう言い出す瞬間が来る』
その通りだった。
体は、まだ動く。腕は上がる。指も曲がる。三十七回立てたんだから、三十八回目も、理屈の上では立てる。
でも、頭が、先に音を上げていた。
頭の中の、やたら冷静な声が言っていた。
――もう十分だろう。
誰も文句は言わない。三十七回だぞ。王都中が見ていた。ピノは自慢するだろうし、マーサおばさんは泣くだろうし、フィナは「よくやりました」と言うだろう。
立たなくても、誰にも責められない。
むしろ、ここでやめれば、綺麗な負けになる。「王子に三十七回立ち向かった下町の少年」。悪くない話だ。瓦版が書く。歌になるかもしれない。
もう、いいだろう。
◇
こういうことか、と俺は思った。
三十七の才能ってのは、こういうものか。
殴られるのが痛いんじゃない。
殴られ続けると、自分の頭が、自分に「やめろ」と言い出す。しかも、やさしい声で。労いの言葉で。
――ずるいな。
俺は、腫れた目で空を見ながら、そう思った。
ずるいけど、うまい。だって俺、今、ちょっと納得しかけた。
◇
『そのときはな、難しいことは考えるな』
爺さんの声が、続きを言った。
『お前がいっつも言ってる、あれだけ言え』
……ああ。
あれか。
難しいことは、考えなくていいのか。
俺は、口の中の血を飲み込んだ。
考えなくていいなら、楽だ。俺は昔から、難しいことを考えるのが一番苦手だった。それだけは、はっきりしている。
だから、俺は。
自分の頭のやさしい声に向かって、たった五文字を、言い返した。
「――もう一回」
◇
肘が、石を掴んだ。
膝が、返事をした。遅れて、うるさく文句を言いながら、それでも返事をした。
斜めに、半歩前へ。
立った。
「さんじゅう、はち!」
ピノの声が、裏返った。
広場が、割れた。
歓声じゃなかった。もっと変な、悲鳴と笑い声と怒鳴り声が混ざったような、名前のつかない音だった。
「立った! 立ったぞ!」
「なんだあいつ、なんなんだあいつ!」
「もう一回だ! もう一回って言ったぞ今!」
「もう一回! もう一回!」
誰かが叫んで、それが広がった。
朝、俺に一枚の賭け札もつけなかった広場が、俺の口癖を叫んでいた。
◇
王子が、立ち尽くしていた。
その顔には、怒りも、侮蔑も、なかった。
あったのは――たぶん、恐怖だった。
「……理解できん」
彼は言った。
「貴様には何もない。剣もない。才能もない。勝ち目もない。名誉も、地位も、後ろ盾も。何一つ持っていない」
王子の手が、震えていた。
三十七枚の才牌を提げた腰の帯が、光を失いかけていた。
「なぜ、立てる」
俺は、息を整えた。
整いはしなかったけど、言葉くらいなら出せた。
「殿下」
「……なんだ」
「何もないから、減らないんですよ」
◇
王子の目が、見開かれた。
「三十七枚あると、減っていくでしょう。使うたびに、魔力も、体力も。……俺、最初からゼロなんです。ゼロは、いくら引いてもゼロなんで」
言いながら、俺は右足を確かめた。
動く。さっきよりは。
「だから、殿下が空になるまで、俺は同じです。ずっと、ゼロのまま立ってます」
王子の唇が、動いた。
言葉は、出てこなかった。
代わりに、帯の才牌が、いっせいに光った。
――来る。
一枚じゃない。三枚でもない。
彼は今、切り替えようとしている。この状況を、力ずくで塗り潰せる何かに。
俺は、腰を落とした。
右へ。
王子の右足が、引かれた。




