2 間違われてアトラス島
「はっ」
無限に続くかのごとき浮遊感は突然掻き消えた。と、同時に重力がいきなり戻ってきて俺は全身が地面にのめり込んでしまうのではないかという恐怖で覚醒する。
思わず飲み込んだ息を吐き出す間もなく立ち上がると目眩で視界がぐらついた。
「どこだここ?」
視界がとにかく暗い。かろうじて右側から赤っぽい光源が差しているがそれでも空間全体を照らすには到底足りていなかった。
「うゔ、頭がくらくらする」
意識は先程までよりよほどはっきりしてきたが今度は五感の調子が悪かった。視界はくらくらするし立っているだけでよろける、匂いも全く感じられないがふらついて壁に手をついた感覚からしてまともな室内ではなさそうだった。デコボコすぎる。
ようやくはっきりしてきた視界に映ったのは全てが石造りの広くも狭くもない空間だった。窓が一つもなく粗い断面の石材の壁に一つだけ松明が差してある。それがこの部屋唯一の光源だった。
「ここが異世界、なんか思って他のちがっ、ゔ」
俺の想像の中の異世界転生は街中に転生させられるか、はたまた赤ん坊として生まれ変わるかの二択だった。が、なんかよくわからん暗い部屋に送られるとは。
困惑していると不意に左腕に鋭い痛みを感じた。
「なんだこれ!?」
腕をまくって確認するとそこには大きなバツ印の傷がついていた。一本は太く長く、もう一本は細く短い二本の引っ掻き傷が真っ赤な血を流しながら俺の左腕に存在していた。
「というかこの服は?俺の着ていたロングコートは?」
異変はそれだけではなかった。着ている服が変わっている。
俺はついさっきまで冬の外を歩くのに適した格好をしていたはず。厚手の長袖長ズボンの上にコートまで羽織っていたのだ。
しかし、今目に映る自分の体は見たこのないゆったりとした白い衣装を身に纏っている。衣装、そう衣装である。服ではなく衣装と呼びたくなるような不思議な見た目の服だった。着ていると言うより纏っていると言った方が合うような、一番近いイメージだと古代ギリシャの哲学者が着ていた服に似ている。だがそれよりはもう少し体にフィットしていてズボンらしきものも履いていた。とにかく見たことのない服装で、使われている生地は滑らかで銀色の光沢があり伸縮性にも優れている。あまり親しみがないのでわからないが絹だったりするのだろうか?
それからよくよく見てみるとである。
「俺の腕、こんなに細かったけ?」
俺は大学二年生、歳は二十である。だがしかし視界に映る腕は一般的成人男性の体系だった俺の腕にしては少しばかり細い気がする。まるで第二次成長期をまだぬけきっていない少年のような腕だ。
もしやと思い鏡になる物を探すがこの空間には松明以外の物はない。足元に女神が出現させたものによく似ている魔法陣らしきものが赤黒い線で描かれていたが今は気に止めていられなかった。
思わず頭に手をやり髪をくしゃりとさせたとき、俺は自分の推測が当たっていたことを知った。
「やっぱりこの体俺のじゃねぇ!」
だって俺は染めてもいない生まれたままの黒髪だったのに、指に絡まるこの深い青色の髪はなんだ!
紺色て……。コスプレか?いや、ここが異世界ならこの髪色は普通なのか?
「体もなんだか元より小さい。目線が低い。鏡が見たい」
俺は自分の姿を確認したくて鏡、ないしはその代わりになる物を探しにこの空間を出ることにした。
出入口は一つ、両開きの石扉には木の板の閂で内側から施錠がされていた。
まさか外に脅威となる存在でもいはしないかと恐る恐る扉に耳を当ててみる。しかし石扉が分厚いせいなのか何の音も拾うことはできない。
「いやだなぁ、ここはどこなんだよ。てかこれ血文字じゃないよな?」
思わず今いる部屋を振り返えれば、床一面の魔法陣が目に映る。そうでは無かれと思うのに見れば見れるほど赤黒い線は血にしか見えなくなってきた。もしそうなら相当な血の量だ。
そんなことを考えながら魔法陣を見つめていたその時、いきなり俺の脳に存在しないはずの記憶が駆け巡った。
奇妙な感覚だった。それは明らかに俺自身、犬飼夏彦の記憶ではなかった。おそらくこの体の元の持ち主の記憶なのだろう。俺という自意識が知らない記憶を脳が勝手に上映してくる。まるでドラマでも観賞する感覚で俺はその記憶を思い出した。
まず初めに思い出したのは深い絶望と怒りだった。この体の持ち主、おそらくまだ少年であろう彼は子供ながらに死ぬ覚悟を固めていた。煮えたぎる憎悪と悔しさを抱えながら「畜生、畜生」と繰り返しつぶやき、泣きながら自分の腕に傷をつけていく。
なんと刃物を使うわけでもなく自分の爪で腕の皮膚を引き裂いていた。その光景は痛みを度外視できたとしても人間技ではないように思えたが少年の指は自分の肌をそれほど労せずに引き裂いた。
そして大きな十字の傷を作り終えると滴る血を使って自分の指で床に魔法陣を描き始める。直径三メートルはありそうな円の中にびっしりと記号やら文字やらを描いていき、出血が止まってきたら再度傷を裂いて血を出して描き続けた。それはあまりに痛ましく、なぜ少年が出血多量で倒れないのか不思議な光景だった。
そしてようやく魔法陣を書き終えた少年は虚ろな目でその円の中心に膝をつく。
そして天井を見上げカッと見開いた目に狂気の光を宿して叫んだ。
「イア、イア、ムノムクァ、フタグン!イア、イア、ムノムクァ、フタグン!!」
「天にまします我らが神よ!このリュラ・ガラズィオスの願いを聞き届け給え!我が怨嗟を晴らし、我が毒念を満たさせ給え!憎き我が兄ネロリィ・ガラズィオスとその参謀ブーマン・ケンエンに残酷な死を!そして我に正当なる地位をもたらし給え!その代償に私はこの身とこの魂を捧げん!永劫の苦痛を受ける入れる覚悟が私にはある!私のすべてを賭けて願う!いざ、この身に神の僕たる悪魔を降し給えーーー!!」
少年が叫ぶや否や足元の魔法陣が赤い光を放つ、それは俺が女神の前で目にした光と同じ輝きであった。やはり少年が描いた魔法陣と女神の出した魔法陣は同じものらしい。
二人は同じ魔法陣を使い、そして俺は今少年の体に降ろされた。ということはである……
「いや誰が悪魔だよっっ!」
信じたくはなかったがこの体の主、たしかリュラ・ガラズィオスといったか。このリュラ少年は記憶の中で叫んでいた。『悪魔を降し給え』と。それはもう一生懸命に叫んでいた。
「なら失敗だよ!俺は悪魔じゃないからな!!」
怒りのあまりに叫んだそのとき、不意に背後でバンッと大きな音がした。
俺は驚きのあまり跳ね上る。
「な、なに?」
振り返ってもあるのは相変わらず閂のされた石扉だけ。音がしたのはその外からだろう。つまり誰かが外側から扉を叩いたのである。それも相当の強さで。
バゴンッッ
また叩かれた。それも今度は一度目よりも更に強い。見るからに分厚い石の扉が跳ね、硬そうな木の閂がみしりときしんだ。
誰かがこの部屋に無理やり入ろうとしている。それもかなり乱暴なやり方で。
ドゴンッッッ
三度目の衝撃が扉に加わり、ついに木の閂が半ばで折れた。しかし完全に折れてはおらずまだきしみながら耐えている。俺は身の危険を感じて松明を壁から外して構えた。
「中に人がいます、やめてください!」
反応はない。扉は相変わらず外から押され続けている。ミシミシと悲鳴を上げる閂は今にもバキリと折れていしまいそうだ。
と、だんだんと広がっていく隙間から三本の指が差し込まれた。更に反対の扉にもう三本。更にその上に三本、その反対に三本、更にその上に……。
扉をこじ開けようとする手はどんどんと増えていく。そしてその指のどれもが妙に緑がかっていて節くれだち、人間の物とは思えない。
バキンッッッ!
「ひっ」
ついに閂が音を立てて折れた。まだかろうじて引っかかってはいるがもはや鍵の役目を果たしていないのは明らかだった。
嫌にゆっくりと扉が開いていく。そしてそれは某ホラー映画よろしく扉の隙間から顔を出し、にやけた笑みを俺に向けてきた。




