第34話 蝕まれる大陸の大熊
1941年7月5日 東京
「なに?ウラジオストクを!?」
杉内は思わず受話器を落としそうになった。
「ええ、ウラジオストクです。護国の騎士作戦は上手くいきました。加えて、モンゴル軍と協力関係にある部隊はチタの占領を完了しています。」
「そうか、それでその件は石原大臣も知っているのか?」
「ええ、もちろんです。石原大臣は本土にいる統制派の陸軍を使って古屯から北樺太を占領し、オハ油田含む北樺太油田ならびに全土を占領する作戦です。」
杉内は冷静に片倉の話を聞いていた。
「そうか、ありがとう。樺太占領後は、石原大臣や参謀本部と協議のうえ、カムチャッカの占領。極東での優位を保てる程度の戦力を置きつつ、一部は関東軍と合流のうえ、シベリア鉄道を使ってモスクワを目指すことになりそうだな。」
「首相、引き続き油断なく遂行します。では失礼します。」
そこで電話は切れた。
7月5日 ソ連領アルハンゲリスク
「しかし、オネガでの撤退兵士、妙なことばかり口走っていたな。」
スタハノフ中尉は、なけなしのウォッカを一口飲みながら、オネガから撤退した兵士について語っていた。
「ええ、奇妙ですよ。というより震えが止まらない者もいれば、生気さえ失っている兵士も...」
セドフ下士官が言いかけたとき、セドフはとあることを思い出し、背筋につららを差し込まれたような冷たい恐怖を感じた。
「シモ・ヘイヘだ...」
「あ、ああ、あいつか...や、奴がいるというのか!?」
「セベロドビンスクで一個小隊が殲滅されただけでなく、二個中隊がバラバラになったという情報が入ってきています!」
「ば、ばかな!や、奴が来ていると...いや、あり得るな。」
「しかも、フィンランド軍はドイツや日本、さらにイタリアからのレンドリースがあると噂も...」
スタハノフは震えていた。セドフは今にも毛布に隠れそうな勢いだった。
そのとき、近くを通った小隊長が、糸が切れたように倒れ込んだ。
「しょ、小隊長!」
スタハノフが叫び、セドフが駆け寄ったその時、セドフは左腕に激痛を感じた。
見ると左腕から血がどくどく流れていた。
セドフは得体のしれない恐怖と出血から目の前が真っ暗になり、倒れ込んだ。
同日 ソ連領バクー油田
「くそっ!どうなってやがる!日本の連中が!」
ソ連兵がPPsh-41を撃っているが、好転する様子を全く感じることはなかった。
「撤退情報は漏れてないはずなのに...しかも撤退時の油田破壊工作の時間すらなかった!」
そもそもバクーに駐留していたソ連兵は対独戦線に召集されており、皇道派からなるイラン駐留の日本軍の対処は優先度が低くなってしまっていた。
だがスターリンのその読みは甘かった。
ソ連 首都 モスクワ クレムリン
スターリンは震えた手でウォッカのグラスを持ち、ウォッカを飲み干した。
大きい四角いテーブルにはソ連邦全土の地図が広げられていた。
ただし、赤く塗られた部分はソ連の実効支配地域であるのに対し、白く塗られた部分はすでにドイツや日本などに占領されていることを表していた。
ジューコフが重苦しく開口した。
「同志スターリン...イラン方面の日本軍はバクーを抑えたあと、アストラハンを制圧してスターリングラードに到着するでしょう。」
スターリンは怒りの感情さえ湧かなかった。ドイツだけなら、あるいは日本や満州国が無ければ、まだなんとかなる見込みはあった。しかし...
「ジューコフ、極東から運んでこれた兵士は一体いくつだ...」
ジューコフは恐怖を押し殺しながら
「50師団もありません。我が国は兵士は畑から取れるなんて言われますが、ドニプロ川流域、特にヘルソル、ザポリージャ、ドニプロペトロウシク、ハリコフを占領されれば、兵士を食わす余裕すらなくなるでしょう...」
そのとき、スターリンはグラスを床に叩きつけて
「ジューコフ!さっさと西部戦線の兵士をウクライナ方面へ回せ!ニコピーリ鉱山と穀倉地帯の奪還を最優先にしろ!バクーとベラルーシ方面は二の次だ!」
あまりの迫力と怒気を孕んだ声にジューコフは少しの反論もできず、ただ命令を受け取るしかなかった。
ジューコフはスターリンの執務室を後にし、歩きながら思案していた。
西部戦線、つまりベラルーシやバルト方面が手薄になればそこにフィンランド軍が不意を突いてくる。しかも、バクーを手放せば、ソ連が得意とする大量戦車はただの鉄の塊となり、航空機すら動かせなくなると...。
北方、アルハンゲリスク
「シモヘイヘは何人いるんだ!」
「不明です!昨日はプドシュにいたという情報が!」
「ばかな、一日での移動は不可能だぞ!」
別の兵士がおずおずと「一昨日はムルマンスクに...」
「致し方ない...ホルモゴルイまで撤退のうえ、アルハンゲリスク奪還作戦だ。」
その時、1人の伝令兵が駆け寄ってくる。
「た、大変です!貴官の部隊に配置転換命令が出されました。」
大隊を率いていた少尉は驚いた顔で伝令兵に詰め寄った。
「少尉殿の部隊ですが...ドニプロです...」
少尉は思わず耳を疑った。ここから離れれば、アルハンゲリスクどころか、帝政の時代から支配していた地域が、フィンランドから奪い支配した土地を再び明け渡すことを意味していた。
少尉は伝令兵の胸倉を掴みかけたが、手を下して、うつむいた。
そして俯き、脱力したままこうつぶやいた。
「部隊の全兵士よ...ドニプロへ...」




