第2章 予兆
季節は既に晩秋を過ぎ冬に入っていた。
曇天の日が続き、人々の心も曇りがちだった。
アスト宰相家はアスト宰相が職を辞したことにより、宰相家を名乗れなくなった。元々持っていた爵位によりアスト公爵家となる。
ソラは爵位をアーノルドに譲り、最愛の妻フウカと共に旅立つ支度をしていた。
名目は、引退後の旅行だったが内実は違った。
公爵邸では、激しい言い争いが続いている。
「父上。父上は既に老齢です。辺境がそれほど心配ならば私が行きます。メアリーも賛成してくれているのです」
「お前たちはまだ学生だ。レオニス皇帝も病に侵されて余命幾許もない。レオン皇太子が皇帝に立てば、必然的にアーサー皇子は皇太子になって、皇太子府を立ち上げなければならない。皇太子府で宰相の役割を果たすことが出来るのはアーノルドお前だけだ」
そうなのだ。アストラル皇国では当然皇帝が政府を司るが、後継者教育の為に皇太子にも皇太子府を立ち上げさせ、皇都の権限を全て与える。
国を司る前に、皇都の長となって、将来に備えるのだ。
そして恐ろしいことにその皇都に住む人口や予算は、他の王国に匹敵するか、むしろ多いほどなのだ。もしもこの試練を乗り越えられなければ、皇太子は次代の皇帝とは認められない。
アーサー皇子が、学院で側近を集め育てるのも、ひとえにそのためなのだが、アーサーはかなり不運だと言える。
過去に学院時代、つまり未成年で皇太子になった皇子はいない。しかも、もしかしたら、今年は辺境の乱が始まるかも知れないのだ。
「父上、辺境の乱が起きるのは100年から200年周期。前回の乱から、いまだ100年しか経っていません。それでも乱が起きるとお考えなのですか?」
若いアーノルドの問いにソラは答えた。長年宰相を務め上げた人物の瞳は厳しかった。
「辺境は凍土で覆われ、その厚い氷が溶けることはない。だが、地熱の影響か、それとも風向きや海流が変化するのか、永遠の冬。雪と氷に閉ざされたその土地の氷が溶ける時がある」
「はい。それは歴史で学んでいます。それが始まる年は暖冬で雪が降らないと。そして暖冬の年は10年から20年続くと言います。確かに今年は冬になっても雪が降っていません。でも遅れているだけかも知れないではありませんか」
「アーノルド。お前は危険を過小評価することで、民を危険にさらしている。辺境の巨人たちが侵攻してきた時、最初に犠牲となった民の数はいくらだった?」
「これまでアストラル皇国は、2度辺境軍の侵攻を受けており、最初の侵攻での民の犠牲者は5千人規模。我等アストラルの軍勢が辺境にたどり着くまでの死者はおよそ2万人」
「その通り。辺境軍はいきなり襲い掛かり、話し合いも調停も受け付けず、当然宣戦布告すらしない。彼らにとって氷が緩み進軍できれば、襲い掛かるのが当たり前なのだ」
「過去に2度も苦汁を嘗めている。私が行くのは、フウカがいるからだ。フウカの結界は誰にも破れない。少なくとも軍が到着するまでの3日ぐらいはフウカも耐えてくれるはずだ」
「父上、母上も身体が弱っておいでです。ご老齢で3日もの間眠らずに結界を維持すれば、お命に関わります」
「だが、今皇国軍を辺境に派遣する余裕はない。皇帝がいつ亡くなるか分からない。亡くなれば新皇帝を立てねばならず、少なからず国が揺らぐ。しかもレオニス皇帝の両翼のひとりである、ブルーノ公爵が亡くなって、今日は葬儀のただ中だ」
「ノアも辛いでしょう。尊敬する祖父が死去したのですから。アーサー皇子も今は身動きが出来ません。だからこそ、レオニス皇帝の片翼であるお父様が皇都に残るべきだと申し上げているのです」
パチパチと暖炉の火花がはぜる音が響く。
お互いに一歩も譲らぬ構えで、無言のにらみ合いが続いた。
カチリ。小さな音がしてフウカとメアリーが入ってきた。 後ろに侍女が付き従い、甘いココアの匂いが立ち込めている。
「こんな事だろうと思ったわ。2人ともお座りになって。ココアを持ってきたの。少し甘いものでも飲めば、よい考えが浮かびますわ」
穏やかだが、フウカの瞳が否を言わせないきらめきを、放っていたので、男たちはしぶしぶ席に着いた。
この場に不似合いな甘い香り。ところが驚いたことにソラは少しほほ笑んで、そのココアを手にした。
ソラがココアを飲み始めたので、アーノルドも飲み始めた。そして少し穏やかな顔で呟いた。
「ココアなんて甘いだけかと思ったけれど、なんだか少し気持ちが落ち着きました。不思議ですね」
「アーノルド。ココアを飲みながら喧嘩する人を、私は見たことが無いわ。つまりは、そういうことではないかしら?」
フウカの言葉にアーノルドは静かに頷いた。
「ねえ、お父様、私だって風龍です。私が3日間結界を維持してはいけない理由を、教えて頂けますか?」
メアリーは、小首を傾げ、愛らしくソラに尋ねた。こんな風におねだりをすれば父は必ず譲歩してくれる、それを知っているのだ。
「メアリー。もしも侵攻がすぐに起きるならば、お前にお願いしたよ。けれど時期は誰にも分からない。明日かも知れないし、1年後かも知れない。その間、無為に辺境に居座る事ができるのは、我等隠居ぐらいだ。皆、忙しいのだからね」
ソラが穏やかに言ったので、アーノルドは納得した。アーノルドは、ソラが黙って旅支度をしたので、怒ったのだ。危険な事は自分が受け持ちたかったから。こんな風に説明して貰っていたら、意地を張らなかったのに。
「アーノルド。メアリー。アスト公爵とその夫人として、ブルーノ・フォン・フィクトス公爵の葬儀に参列しなさい。私達は旅に出たと。それだけで、あの聡いノアには通じる筈よ。何かあれば緊急の玉を割るから、駆け付けてくれるわね」
「はい、母上。丁度良かった。ダンテ・フォン・ノクス辺境伯長子が、家の前でお待ちしています。ダンテは家に戻るので、ぜひ辺境までご一緒したいとの事です。辺境伯家では、既に父上と母上の部屋も用意しているとの事です」
ソラとフウカは、お互いの顔を見合わせてほほ笑んだ。素晴らしい婿が来たものだ。もしかしたら親子3人で辺境に向かって、そこで儚くなっていたかもしれなかったのに。今はメアリーを安心してこの男に託すことが出来るのだ。
ソラとフウカが外に出ると、辺境らしい頑丈な馬車が待っていた。
「アスト閣下。令夫人。お待ちいたしておりました。私はアーノルドの友人のダンテと申します。父と母がお出でを楽しみにいたしております。道中何かありましたら、ご遠慮なく私にお申しつけください」
「ありがとう。ダンテ。アーノルドの友なら、息子みたいなものだ。そう格式張らず。いつも通りに接してくれ」
ソラの言葉にダンテは肩の力を抜いた。
「助かる。俺は辺境育ちで堅苦しいのが苦手なのだ。だがアーノルドの両親は俺の親も同じ。必ず守るから安心してくれ」
「頼もしいね。ありがとう」
そう言いながらソラとフウカは顔を見合わせて笑った。
この子供は世界の落人で魔法士でもあるソラと、鉄壁の結界を誇る風龍であるフウカを守ると言った。
それが可愛らしくもあり、そしてありがたくもあった。
アーサー皇子はよい側近を得ているようだ。アストラル皇国の未来はきっと明るい。
「ダンテ。父上と母上を頼むぞ」
「ダンテさま。お父様とお母様をよろしくお願いします」
そう言ってメアリーが頭を下げた。
その姿を眩しそうにダンテは眺めている。
アーノルドは、そんな2人を黙って見つめていた。
かつて、メアリーの目はいつもダンテを追っていた。
それを知りながら、アーノルドは、いつかメアリーの横に立つべく黙って努力を重ねた。
アーノルドは思い出した。兄上は言ったのだ。
「アーノルド。どういうつもりなのだ。この国にいれば、お前は王弟として、この国一番の筆頭魔導士として、尊敬を一心に集め何不自由なく暮らせる。どうして風龍などを娶りたいのだ。風龍は龍族からもの者にされていると言うのに」
「兄上。風龍を娶りたい訳ではありません。愛しい人を、メアリーを娶りたいだけです。そのためには王位継承権も王子の地位もいりません。どうか兄上、望みを叶えて下さい」
兄上の説得に1年かかった。兄上はアーノルドを大切にしてくれていたから。けれど言い争いが続いたおかげで、周囲は兄と弟の仲がこじれたと思ってくれたのは幸いだった。
最後に兄上は言った。
「好きにするがいい。だが国を出てもお前は俺の弟だし、お前が娘を得たら、それは私の姪だ。それだけを覚えておきなさい。何を忘れてもそれだけ覚えてくれるだけでよい」
そう言って兄上は、信託財産を下さった。一生涯困ることの無いように。
アーノルドが断ると兄上は言った。
「それは、お前ではなく将来の姪に与えるのだ。財産があれば娶りたいと思う男が現れるかも知れぬからな」
それでアーノルドは泣いてしまった。泣きじゃくるなんて思わなかったけれど。兄上は風龍であるメアリーが風龍の娘しか産めない事を知って、風龍の定めを、少しでも軽くしてくれようとしたのだ。
馬車のゴロゴロという音と、馬の駆ける音でアーノルドは我に返った。
ダンテと父上や母上は、もう出発してしまったらしい。
ぼんやりと過去を思い出していたせいで、お見送りがおろそかになったが、誰もそれには気がつかなかったのだろう。
メアリーが不思議そうにこちらを見て言った。いつまでも馬車を見送っていたと思ったらしい。館に戻らなければならない。
「さあ、あなた。私達も着替えて支度をしなければ、ブルーノ様の葬儀に遅れてしまいますわ」
アーノルドが口の中で何かを呟いた。聞こえなかったのでメアリーは「えっ?」と聞き返した。
「あなた。って言った」
「メアリー。今、私をあなたって呼んだよな」
そう指摘されてメアリーは真っ赤になった。
「もう!あなたなんて知りません!」
そう言って駆けていったメアリーの後ろ姿を、嬉しそうにアーノルドは眺めた。
「待ってよ、メアリー」
アーノルドはすぐにメアリーに追いついて、2人は仲良く館に入っていった。




