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4. 怪しい招待 (4)

巨大な繭のようなものを足で運んでいた怪物は、アルビトと目が合った瞬間、嬉しそうに笑いながら人間の言葉を発した。魔物は言葉を話せない。話せる魔物がいるとすれば、百年に一度世界に姿を現すかどうかという伝説級の存在だけだと、本で読んだことがある。


(死体だ。)


自分の足元近くに転がっているものが、数時間前に一緒に夕食を囲んでいた男の一人の頭部だとその目で確認したアルビトは、激しく鼓動する心臓とは裏腹に指先が冷たくなった。あの怪物の近くに放り出されていた巨大な繭は、もう一人の男の死体だったのだ。


死が目の前で獲物へと近づいてきている。


(逃げなきゃ!)


パンを掴もうとする人間のように手を伸ばす怪物の動きを見た瞬間、彼は悲鳴を上げることすらできず、身を翻して必死に走り出した。静かな廊下に靴音が大きく響き渡り、恐怖をさらに煽る。


(誰か、誰でもいいから!)


助けを求められる相手が誰もいないと悟った途端、アルビトの顔に絶望の色が濃くなった。悪夢でも見ているのだろうか。数時間前まではあれほど人がいた屋敷に、なぜ他の生き物が一つも見当たらないのか。


恐怖に駆られたアルビトは、自分がどこへ向かっているのかも分からないまま、ひたすら走った。階段を下り、廊下を駆け、また方向を変えて上り――それを繰り返した。後ろを振り返ることはできなかった。振り返れば、そのまま死ぬ気がしたからだ。


遠くからゆっくり近づいてくる不気味な音が聞こえなくなることを願いながら走り続けた彼は、やがて行き止まりに突き当たって足を止めた。逃げ場は扉の向こうしかない。幸い鍵は掛かっておらず、扉は簡単に開いた。アルビトは急いで扉を閉め、その場にへたり込んだ。


暗くて見えないが、足元や床についた手から、カサカサとした紙のような感触が伝わる。いや、紙よりも柔らかく、どこか馴染みのある感触だ。しかし今はその正体を確かめている余裕などない。向こう側から聞こえていた音は厚い扉のおかげで聞こえなくなったが、怪物が消えたと安心するにはまだ早かった。


(頼むから来るな。お願いだ。気づかずそのまま通り過ぎてくれ。)


心臓の鼓動が聴覚を支配するほど、アルビトは恐怖に呑まれていた。そのせいで、この部屋に他の人間がいることにも、その人物が自分に近づいていることにも気づかなかった。


「誰?」


心臓の音に代わるように、少し鋭さを含んだ若い女性の声が聞こえた。驚いて顔を上げたアルビトは、それ以上心臓の音を意識できなくなった。薄ぼんやりとだが、まるで蛍のように体から光を放つ怪物が見えたからだ。


先ほど廊下で遭遇したものよりはずっと小さいが、同じように白い光を放っている怪物だった。上半身は人間、下半身は巨大な蜘蛛。それは床にうずくまっていた体をゆっくり起こし、裸同然の人間の女性の上半身を露わにした。


上半身だけ見れば、かなりの美人だと感嘆したかもしれない。しかしアルビトにはそんな悠長な感想を抱く余裕もなく、その場で意識を失ってしまった。


(まさか、こんな理不尽な目に遭って死ぬとは。)


冒険者でもないのに、伝説に出てくるような怪物に遭遇して死んだ。そんな話を他人にすれば、嘘だと笑われるだろうか。意識を失う中でそんなことを考えていたアルビトは、突然ぱっと目を開き、勢いよく起き上がった。


朝だった。明るい光が窓から差し込み、部屋を照らしている朝。故郷の家よりもずっと快適なベッドと柔らかな布団に寝かされていた彼は、昨夜の出来事を鮮明に思い出し、それが夢だったのかと呆然とした。


(死んでないよな? まだ生きてるんだよな?)


自分の体を見下ろせば両手は無事で、顔や手足を触ってみても欠けた部分はない。しかし安心するより先に、光が差し込む窓の向きが自分の部屋と違うことに気づいた。そして自分に向けられた視線を感じ、背筋に寒気が走る。


「気がつきましたか?」


ゆっくり声のした方へ顔を向けると、見知らぬ女性と目が合った。メイドではない。軽い寝間着姿に、誰かを思わせる長い金髪。その瞳は、彼が丹精込めて育てた赤い薔薇のように鮮やかな赤色で、ぞっとするような興奮を押し殺しているようにも見えた。


年齢は同じくらいだろうか。顔をまともに見たことがなく、一瞬誰だか分からなかったが、やがてアルビトは彼女がカシオの娘であり、昨日庭で目撃した狂った女だと気づいた。


(花をむしって食べていたあの女!)


後ろ姿しか見ていなかったが、昨日ちらりと見た金髪も寝間着姿も同じだ。しかし今は花びらを口に詰め込む狂人には見えない。むしろ気になるのは昨夜の出来事だった。


「一晩中冷や汗をかいていたので心配していたんです。まだどこか具合が悪いですか?」

「あ、えっと……大丈夫……だと思います。それより、なぜ僕はここに?」


少し落ち着くと、アルビトは怪物を見たこと以外にも、今の状況そのものが大問題だと気づいて青ざめた。まだ家主から正式に紹介もされていない娘の部屋で一晩過ごしてしまったのだ。何もなかったとはいえ、そんな言い訳が通用するだろうか。


だがその心配をよそに、部屋の主である令嬢は、彼が昨夜見たものが夢ではなく現実だったことを指摘し、新たな衝撃を与えた。


「昨日、蜘蛛の魔物に追われていたでしょう? まさか忘れたんですか?」


あれは夢ではなかったのか。驚いた表情で問い返すと、金髪の女性は小さくうなずいた。廊下で見た怪物は見間違いでなければ上半身が男性のように見えた。しかしこの部屋で見たものは至近距離だったため、女性特有の柔らかな胸を確認している。


同じ存在ではなく別個体だとしたら、それはそれで恐ろしい話だ。蜘蛛の魔物自体は珍しくないが、あれほど巨大で、しかも人間の上半身を持つものは、アラクネと呼ばれる伝説上の魔物しかいない。


「よりにもよって私の部屋に逃げ込んだから助かったんですよ。本当に運が良かったですね。昨夜は珍しく私も空腹が満たされていて、腹いせに襲う気にならなかったので」

「それはどういう意味です? 昨日見たあの巨大な蜘蛛が本当に……いや、待ってください。つまり――」


ほんの一瞬だったが、その恐怖を思い出した途端、目の前の穏やかな光景と結びつかず、アルビトは頭を押さえて言葉を切った。真実は気になる。しかし知りたくないという恐怖の方が大きい。真実を聞けば、もう後戻りできなくなる気がした。


「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。今はここにいませんから。それより、あなたに聞きたいことがあるんです」

「何も見なかったことにしますから、どうか帰してください」

「そういうことじゃありません。混乱しているなら少し落ち着く時間をあげますから、まずは気持ちを鎮めてください」


魔物を見たこと自体よりも驚きの方が大きかったが、彼は間違いなく死者の血の匂いを嗅いだ。怪我人ではない。本物の死体を見たのだ。人の頭が胴体から切り離されているのを見た。そんな出来事を経験して、どうして平静でいられるだろう。


(まさか、この家で魔物を飼っているのか? 金持ちの貴族や王族がそんな趣味を持っているって話を聞いたことはあるけど。)


彼は生まれてから一度も人が死ぬ場面を見たことがない。死亡したという話を聞いたことはあっても、死体を見たり事故を目撃したりしたことはなかったし、魔物の襲撃の話を聞いても、領地の周辺で死者が出たという話までは耳にしたことがなかった。


無礼な借金取りが勝手に押しかけて屋敷の物を壊したときでさえ、ここまで怯えはしなかった。何から話せばいいのか分からず落ち着かない様子で周囲を窺っていたアルビトは、ふと床へ視線を落とし、あたり一面に散らばる花びらを目にした。

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