村長の一晩
「出たぞ」
俺は檻の外から言った。
「……もう一回、入ってくれ」
村長が頭を抱えた。
俺は木の格子の間から中へ戻る。
そして反対側の格子から出た。
「出たぞ」
「見ればわかる!」
村長の家へ、重い叫びが響いた。
教団から渡された捕獲檻は、人間の両腕に載るほど大きい。格子は太く、錠前も頑丈。猫なら閉じ込められるかもしれない。
ゴキブリには玄関が二十個ほどあった。
「ヴァルガは何を捕まえるつもりなんやろな」
二号が格子を行ったり来たりする。
「クロより太い僕でも通れるで」
「教団は俺たちの足跡をあれだけ大きく描いてたからな」
チュウタが言う。
「本当に猫くらいあると思ってるんじゃないか?」
あの祭りの像よりはましだ。
脚の数だけは合っている。
角と牙がない分、まだ良心的だ。
「閉じ込めるなら布を張る必要がある」
セラが檻を調べた。
「ただし目を細かくしすぎると、教団側が生きているか確認できない」
「確認の前に逃げられます」
ジロが言った。
「現状、拘束性能は零です」
「いやあ、なんだか元気が出てきた」
村長が乾いた笑いを漏らした。
「村を焼くと脅されているのに、差し出す檻から本人が何度でも出てくる」
「ギッ」
出ようと思えば三秒だ。
「自慢するな!」
「タイム、計りましょか?」
「計るな!」
今夜の村長は、怒鳴ってばかりである。
無理もない。
朝までに俺を差し出さなければ、村ごと浄化する。
ヴァルガはそう言い残し、操作塔へ戻った。
残った時間は、一晩。
村人四十七世帯の命と、ゴキブリ一匹。
比べるまでもない、と言う者もいる。
比べるな、と言う者もいる。
村長は、その両方の声を聞かなければならなかった。
◇
村の集会所は、会議というより引っ越し前の台所になっていた。
机の上には避難用のパン、毛布、薬、水筒、縄。床では子どもたちが小さな荷袋へ自分の大切なものを詰めている。
人形。
木の笛。
丸い石。
なぜ丸い石を持って逃げる。
俺にはわからない。
でも、その子には大切なのだろう。
俺にとっての干し林檎の欠片みたいなものかもしれない。
大人たちは言い争いながら手を動かしていた。
「教団へ逆らえば、近隣の村まで敵になる!」
「だからクロを渡せっていうのか!」
「一匹と村全体だぞ!」
「その一匹が村全体を助けたんだ!」
「助けたからって、子どもを危険にさらせない!」
「危険にさらしたのは教団だろ!」
「それでも標的は虫だ!」
「標的にされてるのは村人も同じだ!」
声がぶつかる。
その横で、チュウタは保存パンを袋へ詰めていた。
一個。
二個。
三個。
一個、口へ。
「食うな!」
俺は尻尾を引っ張った。
「毒見だ!」
「昨日から同じパンだ!」
「昨日は安全でも今日はわからない!」
「毎日食う言い訳にするな!」
「腹が減ると知恵が回らへんのや」
二号まで加勢する。
「お前も食っただろ!」
「証拠は胃の中です」
周りの村人が振り返った。
それまで俺たちを気にしていなかった者まで、チュウタの頬に詰まったパンを見ている。
「……ネズミも喋るんだな」
「喋るし食べるぞ」
チュウタが胸を張る。
「何でも食べるのか?」
「うまければ」
「なら干し蕪は?」
「味つけ次第」
「去年のが余ってる」
「避難食にしよう!」
言い争いの輪から、一人抜けた。
干し蕪を取りに走る。
小さなことだ。
だが怒鳴るだけだった部屋に、食料を増やす動きが生まれた。
チュウタの食い意地が、思わぬところで役に立った。
本人は気づいていない。
「全員、口は動かしていい!」
村長が机を叩いた。
「ただし手も動かせ! 賛成でも反対でも、避難の準備は止めるな!」
良い命令だ。
迷っていても、守る準備はできる。
◇
「わしは引き渡すべきだと思う」
最初にはっきり言ったのは、麦袋を抱えていた男だった。
「恩はある。認める。だが、村の子どもを四十七軒分、賭けることはできん」
「引き渡せば、本当に村が助かると思うのか」
オルドが訊いた。
「約束した」
「清め薬は安全だとも言っていた。牢には罪人だけだとも言っていた」
男は黙った。
「それでも、他に何ができる」
今度はトーマの母親が立った。
目は泣き腫らしている。だが声は震えていなかった。
「私はクロを渡したくありません」
広場で投石を止めようとした者たちが頷く。
「息子を助けてもらったからか?」
「それもあります。でも、それだけじゃない」
母親は寝室の方を見た。
トーマはオルドの治療を受け、そこで眠っている。
「あの子はクロを守ろうとした。私は止めたかった。正直、いまでも止めたかったと思っています。息子のほうが大事です。当然でしょう」
言葉が一度詰まる。
「でも、息子が目を覚ましたとき、最初にクロの無事を訊いたんです。その相手を、眠っている間に売る母親にはなりたくない」
今度は誰もすぐに返せなかった。
「俺は戦う」
レンが言った。
「牢へ入れられた人たちもいる。武器を持てる者で塔へ――」
「駄目だ」
リリアが遮った。
「正面から戦えば、皆さんを守りながら教団兵を倒すことはできます。でも炉が地下で動けば、村そのものが危険です」
「勇者様でも止められないのか」
「設備の場所がわかりません。地面ごと斬ることはできますが、その下に誰がいるかも、何の管が通っているかもわからない」
リリアは強い。
だからこそ、斬らない判断もできる。
俺にはそれが頼もしかった。
「炉への入口は操作塔の中だ」
セラが青い帳面を広げた。
「外から攻めれば、ヴァルガは恐怖導管を開く。村人が逃げ惑うほど炉心が育つ」
「中からなら?」
村長が訊く。
「保守弁を外せる。炉心へ恐怖が入る前に、廃水路へ逃がせる」
「誰が入れる」
全員の目が俺へ向いた。
おい。
さっきまで渡すか守るかで揉めていたのに、狭い管と聞いた瞬間だけ意見が一致したぞ。
「黒い技師殿しかいない」
セラが言った。
「やっぱり俺か!」
ルビーが訳す前に、俺は前脚を上げた。
入る。
ただし、一匹では行かない。
「もちろんだ」
ガーロが即答した。
「大将を檻に入れ、俺たちは檻の下へ入る」
「二重底を作るんやな!」
二号が跳ねた。
「作戦名は《売られた大将、実は底にぎっしり仲間入り》!」
「全部言ってる!」
教団に聞かれたら一発で終わる。
「じゃあ《黒い贈り物》」
「悪くない」
ガーロが頷くな。
「頷いてるやん!」
「一瞬だけだ」
「待ってくれ」
村長が手を上げた。
「それは、クロを差し出すふりをするということか」
そうだ。
檻なら堂々と操作塔へ入れる。
俺が注目を集める間、村人は裏から避難。リリアは村と塔の間に立つ。セラは安全な場所から管の順番を指示する。
そして檻の二重底へ、少数の仲間が隠れる。
「少数とは何匹ですか」
ジロが訊く。
「二十」
俺が答える。
「多い」
「十」
「まだ多い」
「八」
「重量と匂いで発見される確率が高いです」
「じゃあ何匹ならいい!」
「四匹」
「少なすぎる!」
「多いと言ったり少ないと言ったり、どっちなんだ!」
「両方だ!」
「大将」
ガーロの声が低くなる。
「俺たちは数ではなく役目で選べと言ったはずだ」
またやった。
心配になると、仲間を多く連れて行きたくなる。多ければ守れる気がする。
でも、狭い二重底へ詰め込めば、見つかったときに全員逃げられない。
俺は一匹ずつ見た。
弁を回すガーロ。
細管へ入れる二号。
風で臭いを散らすルビー。
構造を読むピノ。
チュウタは地下から退路を掘る。
誰か一匹が欠けても、今夜の作戦は成立しない。
それでいい。
「五匹で行く」
「クロを入れて五匹です」
ジロが訂正した。
少ない。
怖い。
でも、任せる。
◇
檻の改造が始まった。
格子には村の薄布を張る。内側から破れるよう、糸の結び目を俺たちの高さへ揃える。底板の下には五匹が伏せられる隙間を作り、外からは乾いた藁に見せる。
人間の目には、ただの古い檻に見えなければならない。
俺たちの目には、命がかかった精密機械だった。
最初の布は厚すぎた。
「出られん!」
俺は布の内側で前脚を振った。
柔らかい。
柔らかいのに、爪が沈むだけで裂けない。押せば身体ごと戻される。人間なら薄布。俺には弾力のある壁だ。
「大将、三秒で出られるんじゃなかったのか」
ガーロが外から言う。
「布を張る前の話だ!」
「教団へ着く前に窒息する確率、十二パーセント」
ジロが冷静に告げる。
「その数字、いま言う必要あるか!」
「早く開けろ!」
二号が外から布へ切れ目を入れた。
びりっ。
俺は勢い余って檻の外へ転がり、村長の指へぶつかった。
「今度は出たな」
「出されたんだ!」
二枚目は薄い麻布に替え、内側へ短い切れ目を三つ入れた。外からは重なって見えず、俺たちが押せば花びらのように開く。
「これなら二秒です」
ジロが計る。
一秒縮んだ。
偉いのは俺ではなく布である。
だが、褒められるのは俺の役目だと思っておく。
作ったのは、石を投げた男だった。
「俺にやらせてくれ」
男はトーマの家族へまだ近づけない。謝罪も、トーマが目を覚ましてからすると決めている。
「これで許してもらえるとは思ってない」
細い釘を打つ。
こん。
こん。
さっき石が当たった音を思い出し、俺の脚が硬くなる。
男も気づいた。
槌を置く。
「……怖いか」
「ギ」
怖い。
「俺も、自分が怖い」
俺は何も答えなかった。
励ます役ではない。
代わりに、底板へ入って動いた。
右。
左。
釘の先が一本、内側へ出ている。
「ギッ」
「そこか」
男が釘を抜き、短いものへ替えた。
行動で直す。
いまはそれでいい。
「次は裏切り芝居の練習や!」
二号が机へ登った。
「村長さん、悪い顔して『害虫を捕らえました』!」
村長が眉を寄せる。
「わしは役者ではない」
「今夜だけ役者です!」
「害虫を……捕らえた」
「暗い! もっと勝ち誇って!」
「害虫を捕らえました!」
「明るすぎる! 祝い事みたいや!」
「難しいな!」
「わしらの村は救われるのでしょうな、司祭様、へっへっへ」
「そんな笑い方したことないぞ!」
「せやから怪しまれへん」
「怪しまれる!」
「もう一回だけ!」
「もうやらん!」
村長は一晩で、村の命、俺の命、演技力まで試されている。
気の毒になってきた。
◇
夜明け前。
避難荷物が各家へ配られた。
子どもと病人は南の林へ。歩ける者は二組に分かれ、教団から見えない井戸裏を通る。乾燥棚の修理で余った風板を担架へ変え、井戸桶は水運びに使う。
誰も完全には納得していない。
それでも役目を持った。
麦袋の男は食料係。
トーマの母は病人の名簿。
レンは最後尾。
石を投げた男は檻と退路の釘を全部確かめる。
昨日まで敵か味方かも分からなかった人々が、いま同じ役目の輪の中にいる。
「村長」
オルドが訊いた。
「決めたのか」
村長は窓の外を見た。
空が白み始めている。
「決めた」
それだけだった。
俺は急かさなかった。
一晩ずっと待った。
人間たちが俺を渡すと言っても、逃げられた。格子は広いし、地下の道もある。
でも待った。
助けたから従えとは言いたくなかった。
信じたから守れとも言いたくなかった。
俺が選んだように、村長にも選んでほしかった。
窓の外で、鳥が一声だけ鳴いた。
いつもと同じ朝のはずなのに、今日だけは違って聞こえた。
村長が檻の扉を開く。
「入ってくれるか、クロ」
「ギ」
俺は中へ入った。
薄布が閉じられ、錠前がかかる。
ガチャン。
出ようと思えば出られる。
なのに音を聞いた瞬間、腹が冷えた。
人間に捕まった。
本能が暴れる。
格子を噛め。布を破れ。暗い隙間へ逃げろ。
俺は六本脚を床へつけた。
下から、四つの違う振動が返ってくる。
ガーロ。
二号。
ルビー。
ピノ。
一匹ではない。
「行こう」
村長が檻を持ち上げた。
地面が遠ざかる。
村人たちが道の両側へ並んでいる。
俺を見る者。
見られない者。
頭を下げる者。
拳を握る者。
村長は教団の兵へ向かって歩いた。
「約束どおりだ」
声は低く、硬い。
二号の練習より、ずっと本物らしかった。
いや、本物なのかもしれない。
村長は本当に、俺を教団へ渡している。
戻れる保証はない。
「害虫を捕らえた」
村長が檻を差し出した。
教団兵の手が伸びる。
その直前、村長の指先が格子の中へ入った。
俺は触角で、一度だけ触れた。
どくん。
指が震えている。
俺の脚も震えている。
「……頼んだぞ」
教団兵が檻を受け取った。
村長の指が離れる。
村人たちの前で、俺は本当に引き渡された。




