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守られたゴキブリ

赤い血が、土へ落ちた。


 ぽたっ。


 俺の身体より大きな一滴だった。


「トーマ!」


 母親の悲鳴が広場を裂く。


 倒れた子どもの額から、二滴目が膨らんだ。


 待て。


 やめろ。


 それ以上、出るな。


 俺は前脚で傷を押さえようとした。


 届かない。


 俺の脚など、血の流れへ浮かぶ細い枝だ。押さえたつもりで、足先まで真っ赤になっただけだった。


 こんなに非力だったのか、この身体は。


「ギッ、ギギッ! リリア! オルド!」


「下がって!」


 リリアが駆け込んでくる。


 人間の足が俺の横へ落ちた。地面が沈み、血の滴が波打つ。


 怖い。


 反射で身体が逃げかけた。


 違う。


 いま逃げるな。


 これは俺を踏む足ではない。助けに来た仲間の足だ。


「トーマ、聞こえますか!」


 リリアが少年を抱き起こす。手のひらから光が溢れ、傷を包んだ。


 白い光。


 温かい。


 なのに、血が止まらない。


「どうして……?」


 リリアの声が揺れた。


「石に白炎がついている!」


 セラが叫ぶ。


 地面に転がった石。その表面へ、細い白い火が糸のように絡んでいた。


 ヴァルガがリリアの前へ出した炎だ。


 石が炎をくぐったせいで、傷へ炉の魔力が入り込んだ。


「清めの炎は穢れを焼く」


 ヴァルガの声がした。


「魔物を庇った報いだ」


 俺の触角が、地面を叩いた。


 一回。


 二回。


 三回。


 土が跳ねる。


 腹の奥から、黒い熱が上がってくる。


 報い?


 子どもが血を流している。


 俺を庇ったせいで。


 それを見て、報いだと?


 飛びかかりたい。


 触角の間へ雷を集め、あの白い杖をへし折りたい。俺の火花では焦げ目しかつかないかもしれない。それでも顔へ飛びつき、二度とそんなことを言えないよう口の中まで噛んでやりたい。


「クロ!」


 ルビーが俺の背中へ体当たりした。


「そっちじゃない!」


 俺の身体が半歩ずれる。


「見るのはヴァルガじゃない! トーマを見て!」


 わかっている。


 いや、わかっていなかった。


 怒りへ逃げようとした。


 殴るほうが簡単だから。


 いま助けるべき相手を見ているより、敵だけを睨むほうが楽だから。


 俺は振り返った。


 トーマの手が、力なく土へ落ちている。


「ギッ!」


 治療だ。


 全部、後だ。


     ◇


「布!」


 オルドが広場へ膝をついた。


「清潔な布を持ってこい! 祭りの飾りは使うな、油がついている!」


 村人たちが一斉に動いた。


「うちに洗った麻布が!」


「乾燥棚の上だ!」


「誰か水を!」


「北井戸は駄目だ、南から汲め!」


 昨日まで直してきたものが、次々と声になる。


 乾燥棚。


 澄んだ南井戸。


 修理した桶。


 俺たちが夜に残した小さな仕事が、いま人間の手を動かしている。


「傷へ白炎の欠片が残っている」


 セラがトーマの額を覗き込んだ。


「治癒光を弾いている。先に抜かなければ塞がらない」


「見えません」


 リリアが唇を噛む。


「光を強めると、傷そのものを焼いてしまいます」


「わしにも見えん」


 オルドが目を細めた。


「石粉ほど小さい。だが一粒でも残せば熱が続く」


 小さい。


 人間には見えない。


 俺はトーマの頬へ駆け上がった。


「クロ、何を――」


「行かせて」


 ルビーがリリアを止めた。


「小さいものを見るなら、クロが一番近い」


 額の傷は、俺には裂けた谷だった。


 髪の一本が太い蔓。流れる血が温かい川。皮膚の震えが、足裏へ直接伝わってくる。


 トーマの鼓動。


 どくん。


 どくん。


 まだある。


 弱いが、ある。


「ギ……」


 大丈夫だ。


 言い切る根拠はない。


 でも言う。


 俺自身へ。


 こいつは生きている。だから助けられる。


 触角を傷の縁へ伸ばした。


 血の匂い。石の粉。土。祭りの油。リリアの光。それとは違う、焼けた金属のような臭いが一か所から立っている。


 右上。


 髪の根元。


 白い点があった。


 砂粒より小さい。


 俺の前脚の爪なら引っかけられる。


「ここだ!」


 俺は足で位置を叩いた。


 二号が毛布の端から声を送る。


「クロが見つけた! 右上、髪の根っこ!」


「動かさないでください」


 リリアが光を細くした。


 俺の影が大きく伸びる。


 白い欠片が見えた。


 だが、光へ反応して傷の奥へ沈み始める。


「逃げるぞ!」


 セラが細い金具を差し込む。


 人間用の先端は大きすぎる。欠片の横へ入らない。


「もっと細いもの!」


「針を!」


「針箱はオルドの家だ!」


 時間がない。


 俺がやる。


 前脚の爪を傷へ入れた。


 熱い!


 白い火が甲殻へ噛みつく。


「ギィッ!」


 離せ、と身体中が叫ぶ。


 呼吸孔へ熱が回る。脚の節が痺れる。


 でも、爪は入った。


 欠片の下へ。


「クロ、抜け!」


 ガーロが叫ぶ。


 まだだ。


 俺が抜けたら、欠片が奥へ落ちる。


 六本脚がある。


 一本が焼けても、まだ五本ある。


 一本で支え、二本で傷の縁へ踏ん張る。残りの脚で身体を引く。


 人間だった頃、こんな身体を格好いいと思ったことは一度もない。


 いまは違う。


 六本あってよかった。


 小さくてよかった。


 この身体でなければ、トーマの傷へ手が届かなかった。


「ギギギギギッ!」


 白い欠片が浮いた。


 ルビーの風が、横から一筋だけ走る。


 ひゅっ。


 欠片が傷から飛び、地面へ落ちた。


「いまです!」


 リリアの治癒光が傷を包む。


 オルドが清潔な布を押し当てる。


 血の流れが弱くなる。


 止まれ。


 頼む。


 止まれ、止まれ、止まってくれ。


 ぽた。


 一滴。


 次が来ない。


「止まった」


 オルドが息を吐いた。


 俺の脚から力が抜けた。


 そのままトーマの鼻へ転がり落ちる。


「ギ……」


 締まらない。


 でも、止まった。


     ◇


「まだ安心するな。頭を打っている」


 オルドが言った。


「冷やし、揺らさず運ぶ。地下の吸熱苔はあるか?」


「ある!」


 ピノが背負い袋を開けた。


 中から緑色の苔束が飛び出す。


 同時に、小さなばね、石炭粉、曲がった銅板も飛び出した。


「何で治療袋から部品が出る!」


「空いてたから入れた!」


「薬と爆発物を一緒にするな!」


「まだ爆発してないよ!」


「その『まだ』を一番聞きたくなかった!」


 まだ、という言葉が怖い。


 ガーロ隊が苔束を選り分ける。土のついた部分を外し、ルビーが南井戸の水で洗う。村人から届いた麻布で薄く包み、オルドがトーマの額へ当てた。


「冷たい……」


 小さな声がした。


 全員が止まった。


 トーマの瞼が、わずかに開く。


「トーマ!」


 母親が泣きながら顔を寄せた。


「お母さん、声、大きい」


「ごめん、ごめんなさい……!」


「石、硬かった」


「当たり前だ!」


 レンが泣き笑いになった。


 二号が床を叩く。


「生きとる! この子、石の感想言えるくらい元気や!」


「まだ寝かせろ」


 オルドの声は厳しい。だが、口元は緩んでいた。


 広場の空気が一気にほどけた。


 誰かが座り込む。誰かが泣く。木こりが隣の男の背中を叩き、叩かれた男がむせる。


 俺はトーマの胸へ伝わる鼓動を、六本脚で聞いた。


 どくん。


 さっきより強い。


 俺を守った子どもが、生きている。


 守られるというのは、こんなに怖いのか。


 自分が傷つくより、ずっと怖い。


 助けられた嬉しさと、俺のせいだという痛みが、腹の中でぐちゃぐちゃになる。


 きれいな言葉にできない。


 ありがとう。


 ごめん。


 もう二度とするな。


 でも、あのとき来てくれて――いや、やっぱり来るな。


 全部、同時だ。


「クロ」


 トーマが指を動かした。


 俺はその爪へ触角を当てた。


「無事?」


 お前が訊くのか。


「ギッ!」


 俺は元気だ。


 お前より元気だ。


 だから寝ろ。


 二号が訳すと、トーマは小さく笑った。


「怒ってる」


 当たり前だ!


「ちょっとだけ、安心もしてる」


 二号が正直に付け加えた。


「言うな!」


「はい、喋るな。眠れ」


 オルドがトーマの目へ布をかけた。


「おじいちゃん、真っ暗」


「眠るんだから同じだ」


「クロが見えない」


「起きればいる」


「ほんと?」


 オルドが俺を見た。


 逃げる予定はない。


 ただ、あまり長く人間の家へいると、本能的に台所の隙間を調べたくなる可能性がある。


 それは誤解を招く。


 ものすごく招く。


 せっかく築いた信用が、戸棚の裏で全部崩れる未来が見える。


「ギ」


「いるそうだ」


「じゃあ寝る」


 子どもは本当に目を閉じた。


 早い。


 大人があれだけ揉めた信用を、こいつは一言で預けてくる。


 重い。


 五センチの背中には、かなり重い。


「治療成功!」


 二号が小声で宣言した。


「功労者はクロの爪、ルビーの風、勇者の光、オルド爺さんの布、地下の苔、あと僕の名通訳!」


「お前の通訳、途中から言葉を足してたよな」


 チュウタが睨む。


「心を訳したんや」


「都合よく?」


「美しく」


「一番信用できないやつだ!」


「待て」


 ジロが吸熱苔の残量を数えた。


「功労者一覧に、南井戸の水を運んだ村人八名と、布を乾かした棚を直した二十三匹が含まれていません」


「もう村ごと表彰しろ!」


「表彰式、長なるなあ」


「石粉を見つけたのはクロだ!」


 ガーロが譲らない。


「欠片を飛ばしたのはルビーだ」


「治癒したのはリリアさん」


 ピノが言う。


「俺は?」


 チュウタが自分を指した。


「薬袋を運んだ」


「大事だろ!」


「袋の中で部品と苔が混ざっていました」


「それはピノだ!」


「空いてたから!」


「私は何も」


 セラが遠慮がちに言う。


「石粉の位置、最初に匂いで絞ったのはお前や!」


 二号が指を差した。


「絞ったのは俺の触角だ」


「その触角に情報をくれたのがセラや!」


 全員が小声で言い争い始めた。


 トーマの母親が、涙を拭きながら笑った。


「全員でいいじゃないですか」


 簡単にまとめられた。


 そうだ。


 全員で助けた。


 誰か一人の奇跡ではない。俺が欠片を見つけても、ルビーの風がなければ抜けなかった。リリアの光がなければ血は止まらず、オルドの判断がなければ頭を冷やせず、村の布がなければ傷を包めなかった。


 昨日直した井戸と棚まで、治療へ参加している。


 仲間が増えるというのは、名前を並べることではない。


 できることが、こんなふうにつながっていくことだ。


 誰も一人で勝った顔をしていない。


 それが、何よりありがたかった。


「じゃあ表彰品は、全員でパン一枚」


 二号が言った。


「少ない!」


「人間用の一枚やで?」


 チュウタの目が輝いた。


「十分だ!」


 現金な相棒である。


 だが、その現金さのおかげで、重かった空気が少しだけ軽くなった。


     ◇


 石を投げた男は、広場の端で膝をついていた。


 誰も近づかない。


 男の手には、まだ白炎の火傷が残っている。二つ目の石を拾ったとき、ヴァルガの炎が腕へ移っていたのだ。


「俺は……子どもを狙ってない」


 声が震えている。


「あの女をどかそうとしただけだ。虫を、村から……俺は……」


 言葉が続かない。


 レンが怒鳴ろうとした。


 俺は前へ出た。


「クロ、近づくな」


 ガーロが止める。


 怖い。


 あの腕が動けば、今度こそ潰される。


 俺の本能は、さっきより激しく逃げろと叫んでいる。


 それでも近づいた。


 男を許すためではない。


 許せるかどうかなんて、いま決められない。


 俺の腹はまだ煮えている。トーマの血がついた前脚を見るたび、噛みつきたいほど腹が立つ。


 でも、男の腕にも白い火がある。


 放っておけば、また傷が広がる。


「ギッ」


 俺は男の火傷を指した。


「何だよ」


「治療しろって」


 ルビーが訳す。


「俺を?」


「ギ」


「どうしてだ。俺はお前を殺そうとした」


「だからって、火傷が治るわけじゃない」


 ルビーは俺の触角を読み、少し言葉を足した。


「治して。それから、自分がしたことをちゃんと見て、トーマと家族へ謝って。逃げずに」


 男の顔が歪んだ。


「殴らないのか」


「クロの脚で殴っても、たぶんそっちが気づかないよ」


「殴りたいのは殴りたい」


 正直に言った。


「知ってる」


 それもある。


 悔しい。


 こんなときまで身体の大きさが足りない。


「でもね」


 ルビーの声が低くなる。


「もう一度石を拾ったら、私が上空から落とす」


「どこへ」


「井戸の外側」


「外側でも死ぬだろ!」


「じゃあ拾わないで」


 男は何度も頷いた。


 リリアが火傷へ光を当てる。


 俺はそれを見届けてから、トーマのもとへ戻った。


 責めないことと、なかったことにするのは違う。


 治す。


 謝らせる。


 次を止める。


 それでいい。


     ◇


「感動的だ」


 ヴァルガが言った。


 白い炎の前で、拍手を二度だけする。


 ぱち。


 ぱち。


 その音だけが、やけに大きく響いた。


 広場の温度が下がった。


「害虫が人を治し、人が害虫を庇う。病に浮かされた村らしい光景だ」


「黙れ!」


 レンが前へ出る。


 村長が腕で止めた。


「司祭殿」


 村長の声は低かった。


「話があるなら、わしが聞く」


 ヴァルガは村長を見た。


「明朝まで待つ」


「何をだ」


「その黒い害虫を、檻へ入れて差し出せ」


 ざわめきが止まる。


「拒めば?」


「この村は炉の穢れに呑まれたと判断する」


 ヴァルガの杖の先で、白い炎が大きくなった。


「村ごと浄化する」

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