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精霊の仮面が剥がれる

「精霊の正体は――害虫だ」


 ヴァルガが板を掲げた瞬間、俺たちの頭上で椅子が倒れた。


 ガタンッ!


 床板が跳ねる。


 隙間が閉じる。


「ギャッ、触角!」


 俺の右触角が挟まった。


「動くな!」


 ガーロが床板を背で持ち上げる。チュウタが俺の腹をくわえ、思い切り後ろへ引いた。


 ずるっ。


 抜けた。


「折れてない?」


 ルビーが触角の先を確かめる。


 痛い。


 ものすごく痛い。


 だが、動く。


 広場へ姿を見せてもいないのに、もうこれである。


 人間の騒ぎは、床下にいるだけでも命懸けだ。


「ほらな!」


 頭上から男の声が落ちてきた。


「床の下に何かいる!」


「松明を持ってこい!」


「待て、乾いた床へ火を近づけるな!」


「でも虫が!」


「虫より火事のほうが怖い!」


「昨日、火事だと思って水を全部使ったばかりだぞ!」


 村人たちが違う意味で言い争い始めた。


 昨夜の煙作戦が、こんなところで火を止めた。


 失敗と騒ぎも、保存しておけば役に立つらしい。


 二号に礼を言うのは、また今度にする。調子に乗るから。


「逃げ道、東!」


 チュウタが床下の暗がりを指した。


「いまなら全員、畑の排水溝まで戻れる」


「戻る?」


 二号が訊く。


「逃げるって言え。格好つけるところじゃない」


「作戦的移動」


「逃げる!」


「一時的な勇気の貯金」


「逃げる!」


「明日への希望を残す撤退」


「言い換えるほど怪しい!」


 俺は二匹を止めた。


 上の声を聞く。


「そんなはずない。精霊様は井戸を直してくれた!」


「でも、あの足跡を見ろ。虫だぞ」


「虫なら助けてもらったことが消えるのか?」


「消えない! 消えないけど……家の中には入ってほしくない」


「うちもだ。畑は助かった。でも何十匹もいるなら怖い」


「毒を入れたのは虫じゃなく、教団の薬だっただろ!」


「それも、この青い布が本物なら、だ」


「本物かどうかは、もう自分で試したろうが!」


 声が割れている。


 誰も同じではない。


 助けられた事実を信じる者。


 姿を想像して震える者。


 教団へ怒る者。


 どちらも疑う者。


 当然だ。


 村人は一つの生き物ではない。一人ずつ違う。


 俺たちがそうであるように。


「村の者よ、思い出せ!」


 ヴァルガの声が響く。


「井戸が濁り始めたのは、黒い足跡が現れた後だ。病人が増えたのも、異形が村へ近づいてからだ!」


「嘘です!」


 リリアが即座に遮った。


「井戸の異変が先でした。わたしは北管の詰まりと薬を確認しています」


「勇者よ。お前はその目で、精霊を見たのか」


 広場が静かになった。


 リリアは答えられる。


 嘘をつくこともできる。


 見ていない、と。


 それで俺たちは、もう少しだけ隠れていられる。


「見ました」


 リリアは迷わなかった。


「黒いゴキブリです」


 ざわめきが爆発した。


 うわああっ、と誰かが声を上げる。椅子を引く音。子どもを抱き上げる足音。桶が転がり、水が床板の隙間から降ってきた。


「冷たっ!」


 二号が飛び退く。


「でも、先に言うことあるやろ勇者さん! もうちょい、こう、優しい紹介!」


 本人には聞こえない。


「ただの害虫ではありません」


 リリアは続けた。


「言葉を理解し、考え、仲間を助け、皆さんの井戸と畑を守った人たちです」


「人ではない!」


 ヴァルガが言う。


「では何と呼べばいいのですか」


「魔物だ」


「魔物なら、助けた事実がなくなるのですか?」


 さっき村人が口にしたのと同じ問いだ。


 ヴァルガは答えなかった。


 答えの代わりに、白い杖で床を叩く。


 かつん。


 広場の四隅から、白い炎が上がった。


 感情導管が唸る。


 うううううん。


 村人たちの恐怖が、また地面へ流れ始めた。


「まずい」


 セラが床下へ潜り込んできた。


「このまま姿を想像させ続ければ、実物より大きな恐怖になる。ヴァルガはそれを狙っている」


「じゃあ、もっと怖くない姿に変装しよ!」


 二号が干し草を俺の背へ載せた。


「何をする」


「精霊の仮面。触角へ花をつけて、脚を二本ずつまとめて、四本脚に見せる」


「歩けないだろ!」


「かわいさは我慢からや」


「我慢した先に何があるんだ!」


 却下。


 俺は干し草を振り落とした。


「なら白い粉をかぶる?」


 ピノが言う。


「白ければ清らかに見えるかも」


「さっきの煙で二号が白くなってたけど、臭かったぞ」


「白い臭い精霊」


「一番嫌や!」


「じゃあ、いっそ堂々と黒いままで――」


「それが一番怖いって言われてるんやろ!」


 隠すほど、想像は大きくなる。


 仮面をかぶれば、仮面の下を勝手に恐れられる。


 俺は自分の身体を見た。


 黒い殻。


 六本脚。


 細長い触角。


 油の傷。欠けた翅。土の汚れ。


 人間だった頃の俺なら、見た瞬間に新聞紙を探したかもしれない。


 スリッパでもよかった。とにかく武器になりそうな物を。


 嫌だ。


 怖い。


 近づいてほしくない。


 そう思う気持ちを、いまの俺は責めきれない。


 でも、この身体で井戸へ入った。


 この脚で毒水の管を走った。


 この触角で病の匂いを見つけた。


 仲間を数え、名前を覚え、一緒に飯を食った。


 俺は人間ではない。


 精霊でもない。


 ゴキブリだ。


 それを隠したまま、助けたところだけ信じてくれとは言えない。


「ギッ」


 俺は東の逃げ道ではなく、広場へ通じる隙間を指した。


「駄目だ」


 ガーロが即座に前へ出た。


「大将一匹で行かせない」


「一匹でないと、群れを見て余計に怖がる」


「それでもだ」


 触角と触角がぶつかる。


「俺たちを一匹ずつ見ろと言ったのは、大将だ。なら俺たちにも、一匹ずつ決めさせろ」


 ガーロは退かない。


「俺はここにいる。出ない。だが、逃げもしない。何か落ちてきたら床下から支える」


「僕は声を届ける」


 二号が言う。


「ルビーは風で石を見る。チュウタは退路。ピノは……爆発させない」


「最後だけ役割じゃない!」


「大事な役割や」


「否定できないのが悔しい」


 ピノが小さくうなだれた。


 みんな、出るとは言わない。


 俺の選択を奪わず、俺を一匹にもしない。


 俺は触角を一度ずつ合わせた。


 ガーロ。


 二号。


 ルビー。


 チュウタ。


 ピノ。


 匂いを覚える。


 ここにいる、と確認する。


「行ってこい、大将」


「格好つけすぎて転ぶなよ」


 チュウタ。


 最後の一言が余計だ。


 でも、その軽口のおかげで、脚の震えが少しだけ収まった。


     ◇


 床板の隙間から、光が差している。


 俺は頭を出した。


 広場が、あまりにも広い。


 人間の靴が何十足も並んでいる。土の粒は石。祭りの布は空を覆う壁。虫の像は、見上げても頭が見えない。


 そして視線。


 一人が気づいた。


「いた」


 声が広がる。


「あそこだ!」


「黒い……」


「本当にゴキブリだ」


 脚が止まりそうになる。


 逃げろ。


 身体の奥から命令が出る。


 明るい場所へ出るな。大勢の前を走るな。見つかったら終わりだ。


 わかっている。


 全部、わかっている。


 それでも前脚を出す。


 一歩。


 中脚。


 後ろ脚。


 六本もあると、怖いときには面倒だ。一歩進むだけで六回も勇気が要る。


 いや、二本ずつ動かすから三回か。


 どちらでもいい。


 とにかく多い!


 こんなときだけ、人間の二本脚が羨ましい。


 俺は広場の端まで歩いた。


「これが、お前たちの精霊だ」


 ヴァルガが杖を向ける。


「病を運び、暗がりで増え、食料を汚す害虫だ」


「この子には名前がある」


 オルドが前へ出た。


「クロだ」


「名をつければ獣が人になるのか」


「ならん。だが、殺す前に呼びかけることはできる」


 オルドは俺の横へ水の小皿を置いた。


 いつも使っている、罠のない皿。


「来てくれてありがとう、クロ」


 広場の奥からレンも出てきた。


「俺はこの子たちに牢から助けられた」


「俺もだ」


 木こりが手を上げた。


「でも、怖くないのか?」


 誰かが訊く。


「怖い!」


 木こりは即答した。


 俺は危うく転びそうになった。


「近くで見ると、もっと怖い! 脚が多いし、急に走るし!」


 そこまで言うか。


「でも、怖いのと、恩を忘れるのは別だろ!」


 木こりの妻が腕を引いた。


「うちへ入れるのは嫌だからね!」


「俺だって嫌だ!」


 ではどこで会えばいいんだ。


 村人の何人かが笑った。


 小さな笑いだった。


 感情導管の唸りが、わずかに弱くなる。


「笑い事じゃない!」


 麦袋を抱えた男が前へ出た。


「一匹見えたってことは、床下には百匹いるかもしれないんだぞ。倉の麦を食われたら、冬を越せない!」


「食べられてない」


 乾燥棚を使っている老婆が言い返した。


「袋の穴は、今朝ぜんぶ塞がってた。あたしの縫い目より細かくね」


「それは食う前に囲っただけかもしれない!」


「だったら昨夜のうちに食えたでしょうよ。麦袋一つなんて、あの子らには山ほどあるんだから」


 老婆の勢いに、床下で俺たちも思わず頷いた。


 誰も見ていないのに。


 男は黙った。


 別の農夫が進み出る。


「俺の畑は、根食い虫が消えた。でも、黒い虫が代わりに住みつくのは困る」


「住みついてへんわ!」


 二号が床下で叫んだ。


 人間には、かすかな床鳴りにしか聞こえない。


「こっちにも立派な町があるっちゅうねん! 食堂も風呂も劇場もあるんやぞ!」


 なぜ最後に劇場を自慢した。


 しかも、お前の独演会しかしていない。


「ギギッ」


「いま関係あるやろ! 文化的なゴキブリやって伝えんと!」


「入場料、いらんのか」


 ルビーまで乗ってきた。


「今それを聞くな!」


 伝わっていない。


 だが、俺の震えていた脚から少し力が抜けた。


 仲間がいつもの調子で文句を言っている。それだけで、ここが処刑場ではなく話し合いの場へ戻る。


「追い出すだけなら、いいんじゃないか」


 若い母親が言った。


「殺さない。でも村にも入れない。畑仕事をしてくれたら、外へ食べ物を置く」


「勝手すぎるだろ」


 レンが眉を寄せる。


「怖いのよ!」


 母親の声が裏返った。


「助けてもらったのはわかってる。薬を止めてくれたのも。でも、夜に枕元を走っていたらって考えたら……ごめんなさい、すぐには無理」


 俺は前脚を上げた。


「なんだ?」


 レンがしゃがむ。


「ギ、ギギッ」


「無理なら、無理でいいって。いま決めなくていい。食べ物も、仕事の代金なら受け取る。でも勝手に家へは入らないって」


 母親は俺を見た。


 身体が強張っている。


 それでも、逃げずに聞いた。


「……本当に?」


「ギ」


 頷いたつもりで頭を下げる。


 触角まで地面について、土がついた。


 格好悪い。


 だが母親は、ほんの少し肩を下ろした。


「だったら、畑の端なら。そこから始めたい」


 好きにならなくていい。


 いますぐ近づかなくてもいい。


 一度で全部変わるほうが、おかしいのだ。


 怖いと言いながら石を置く者がいる。嫌だと言いながら、次に会う場所を考える者がいる。


 それは拒絶だけではない。


 昨日まで存在すら知らなかった俺たちのために、心の中へ小さな場所を空けようとしている。


「クロ!」


 幼い声がした。


 オルドの孫、トーマだ。


 熱で倒れていた子どもが、母親の手を振りほどいて前へ来る。


「おじいちゃんから聞いた。薬を見つけたの、クロなんでしょ」


 俺は前脚を上げた。


 トーマがしゃがむ。


 大きな顔が近づいてきた。


 正直、少し怖い。


 だが、トーマの目には嫌悪より好奇心があった。


「ほんとに黒い」


 当たり前だ。


「つやつやしてる」


 褒めているのか?


「触っていい?」


「トーマ!」


 母親が叫ぶ。


 俺も迷った。


 人間の子どもの指は、力加減を知らないかもしれない。甲殻を押される。脚を掴まれる。触角を引かれる。


 怖い。


 でも、俺から近づいた。


 トーマの指先へ、触角をそっと当てる。


「くすぐったい!」


 子どもが笑った。


 広場の空気が、少しだけ緩んだ。


 そのとき。


「騙されるな!」


 人混みの後ろで男が叫んだ。


 腕が振られる。


 石が飛んだ。


 俺の触角が風を捉える。


 右。


 高い。


 速い。


「クロ!」


 ルビーの声が床下から届いた。


 俺はトーマの指を離し、横へ跳んだ。


 石は土へ落ちた。


 ごつっ。


 俺がいた場所に、小さな穴が開く。


 当たっていたら、甲殻ごと潰れていた。


「やめろ!」


 レンが男の腕を掴む。


「子どもの前だぞ!」


「虫を庇うのか!」


「助けてくれた相手だ!」


 別の女が石を拾った。


 投げるのか。


 違った。


 彼女は石を地面へ置き、男の前へ立った。


「私はまだ怖い。でも、話も聞かずに殺すのは違う」


「どけ!」


 男がもう一つ、石を掴む。


 リリアが動く。


 ヴァルガの白炎が、その足元へ走った。


 ぼうっ!


 一瞬だけ、リリアの視界が遮られる。


 男の腕が振られた。


 今度の石は、俺ではなく俺を庇った女へ向かった。


「危ない!」


 トーマが飛び出した。


 駄目だ。


 来るな。


 俺の六本脚が土を蹴る。


 間に合え。


 間に合え、間に合え、間に合え!


 ひゅっ。


 石が俺の頭上を越えた。


 ごっ。


 鈍い音がした。


 トーマの小さな身体が、俺の目の前へ倒れた。


 額から、赤い血が土へ落ちた。

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