恐怖を煽る祭り
「その場から動くな!」
セラが叫んだ。
俺は薬草小屋の天井で、六本脚をぴたりと止めた。
動くなと言われて素直に止まれるのは、たぶん今日が初めてだ。
下では銀色の針が、がたがたがたがたっ、と箱の端まで振り切れている。
「すごい数値だ……!」
「何が起きたんですか?」
リリアが箱を覗き込む。
「恐怖だ。この計器は、近くにいる生き物の恐怖を拾っている」
「でも、誰も怖がってなんか――」
そのとき、俺の後ろ脚が滑った。
薬草の乾燥紐から、ぽろっ。
「ギャッ」
落ちる。
真下にはリリア。
俺は翅を開いたが、昨日の油がまだ残っていた。左右がうまく揃わない。
くるくる回りながら、銀色の髪へ落下する。
「きゃああああああっ!」
計器の針が、ばちん、と端へぶつかった。
折れた。
「……勇者様の恐怖だったな」
セラが言った。
「ち、違います。急に降ってきたから驚いただけで、クロさんが怖いわけではありません!」
リリアの頭の上で、俺は逆さになっていた。
説得力がない。
髪の匂いは薬草と鉄の匂いがした。剣を握る人の匂いだ。
いま考えることではない。
「針一本分、怖かったんやな」
二号が言う。
「違います!」
「二本目、持ってこよか?」
「違いますってば!」
俺は髪から這い出し、机へ飛び移った。
なるほど。
恐怖は本当に集められる。
そして勇者一人で、計器を壊せるほど集まる。
これは喜んでいいのか。
よくない。
父親としては少し傷つくが、いまはクロ隊長である。戦力として考えよう。
いや、やっぱり傷つく。
「祭りでは、これを村中から集める」
セラが折れた針を拾った。
「広場の下に感情導管が埋まっている。虫の像を焼き、病の話をし、見世物を出す。集まった恐怖は北井戸の回収管を通って炉心へ送られる」
「そんな祭り、止めればいい」
レンが言った。
「止めるだけでは駄目だ」
オルドが薬草を刻みながら答えた。
「村人は昨夜、教団の倉から薬と麦を見た。疑い始めてはいる。だが祭りを壊せば、教団は精霊に惑わされた者が儀式を邪魔したと言うだろう」
「じゃあ、どうすれば」
「自分で見てもらう」
リリアが言った。
俺と同じ答えだった。
少し嬉しい。
「言葉で説き伏せるんやなくて?」
二号が首をかしげる。
「言葉は疑われる。だが、自分の手で確かめたことは疑いにくい」
「井戸の水。清め薬。牢の帳面。隠さず、増やさず、村の皆さんが確かめられる形で出します」
「真実だけで祭りをひっくり返すんやな」
二号が胸を張った。
「作戦名は《嘘つきだけが勝手に転ぶ祭り》!」
長い。
「じゃあ《真実祭り》」
普通すぎる。
「《薬が赤くなったらあかん祭り》」
説明そのものだ。
「じゃあ、全部混ぜて《嘘つきが赤くなって転んで真実になる祭り》!」
「一番長くなった!」
「名前を決めている間に、本物の祭りが始まるぞ」
ジロが窓を指した。
村の広場では、白い布が柱から柱へ張られている。中央には、人間の背丈の三倍もある黒い虫の像。
脚が八本ある。
ゴキブリではない。
蜘蛛にも見えない。
虫をよく知らない人間が、嫌いなものを全部混ぜた像だ。
「あれ、俺たちのつもりか?」
「角まであるよ」
ルビーが呆れた。
「黒ければ何でも同じだと思ってるんじゃない?」
失礼な。
俺たちは一匹ずつ、匂いも歩幅も触角の傷も違う。あんな腹の太い八本脚と一緒にされてたまるか。
しかも脚が八本もある。数えるのが面倒そうだ。俺たちは六本で十分やっている。
恐怖より先に、造形への文句が湧いた。
それでいい。
怖がるだけでは相手の燃料になる。
腹が立つなら、手を動かせる。
◇
オルドが作った試験液は、見た目だけなら青い果汁だった。
きれいである。
そして、ものすごく苦い。
「ギャアアッ!」
俺は机の上を転がった。
「飲むなと言っただろう」
オルドが淡々と言う。
「先に言え!」
「先に言った」
「クロ、試験液を見た瞬間に舐めたよ」
ルビーまで冷たい。
青いから甘いと思ったのだ。
何が悪い。
全部、俺が悪い。
次からは色より先に匂いを嗅ぐと心に誓った。三回目の誓いだ。
「この液は、殺虫薬に使われた油花へ触れると赤くなる」
オルドは三つの透明な杯を並べた。
一つ目に、南井戸の水。
二つ目に、北井戸の水。
三つ目に、教団の清め薬。
青い液を一滴ずつ落とす。
南井戸は青いまま。
北井戸は紫。
清め薬は、血のような赤へ変わった。
「誰がやっても同じか?」
レンが訊く。
「同じだ。順番を変えても、器を替えてもな」
「だったら村の人にやってもらおう」
そうだ。
俺たちが見せるだけでは、仕掛けだと言われる。
村人自身が水を汲み、自分の杯で混ぜればいい。
「試験液は何杯分ありますか」
リリアが訊く。
「十二」
「村の家は四十七軒です」
「足りないな」
オルドの手が止まる。
「四倍近く足りません」
ジロが即座に数字を出した。
「正確な数字、ありがたいけど今は心が痛い」
レンがため息をつく。
材料は青月草の花、灰苔の汁、酸っぱい木の実。青月草は高価で、もう少ししかない。
「一杯を薄める?」
レンが言う。
「色が弱くなる」
「大きな桶で混ぜる?」
「教団が桶ごと倒せば終わりだ」
二号が翅を上げた。
「空から降らせる?」
「村人全員の服が赤くなるわ」
ルビーが即座に止めた。
「赤くなった村人で村長を脅すのはどうだ」
「新しい犯罪になる!」
それはそれで見てみたいが、祭りの目的が変わってしまう。
俺は試験液の匂いを嗅いだ。
青月草の成分は強い。杯いっぱい要るわけではない。必要なのは、水と薬が触れた場所の色だけだ。
線でいい。
紙の上へ、細い線を引けばいい。
俺は前脚を液へつけ、木片の上を歩いた。
ぺた。ぺた。ぺた。
六本の青い足跡が並ぶ。
「何してるの、クロ」
「……試験紙だ」
言葉は伝わらなかったが、セラが先に気づいた。
「布へ染み込ませるのか」
そうだ。
細い布なら、一杯から何十本も作れる。水へ端を浸すだけで色が変わる。
「ゴキブリの足跡つき試験布!」
二号が叫ぶ。
「商品名みたいやな。《クロ印・毒見ひも》!」
俺の名前を勝手につけるな。
「でも、覚えやすい」
レンが笑った。
笑うな。
「量産したら商売になりますよ、大将」
「商売の前に祭りだ!」
俺たちはオルドの古い包帯を細く裂いた。人間には細紐。俺たちには長い布の道である。
ガーロ隊が端から端まで液を運ぶ。ルビーの風で薄く伸ばす。ピノが乾燥箱を持ってくる。
「弱風だぞ」
「わかってる!」
ピノが古代板を押した。
ぶおおおおおっ!
強風だった。
青い布四十七本が、一斉に窓から飛び出した。
「あああああっ!」
ガーロ隊が追う。
チュウタが跳ぶ。
俺も走る。
布は草むら、屋根、木の枝、リリアの顔へ次々と貼りついた。
「前が見えません!」
勇者が両手を振る。
「止まって! 踏む! 俺たちを踏む!」
二号だけが笑いながら風を逆向きにした。
ひゅるるるる。
散った布が空中で一つの渦になり、薬草小屋の壁へ戻ってくる。
四十六本。
「一本足りない」
ジロが言った。
全員で探す。
最後の一本は、チュウタの尻尾へ巻きついていた。
「最初から持ってた!」
「知らなかったんだよ!」
量産成功。
心臓には悪い。
恐怖計があれば、もう一本折れていた。
今度は俺ではなく、チュウタの恐怖でだろうが。
◇
祭りが始まった。
鐘が三度鳴り、村人たちが広場へ集まる。
白い服の神官が、黒い虫の像へ油を塗った。
「病は暗がりから来る!」
「穢れは小さき脚で忍び寄る!」
「清めの炎を恐れるな!」
言葉だけは立派だ。
俺たちの実物を見たこともないくせに。
声が上がるたび、地面の下で細い管が震えた。
俺たちは広場の床下にいた。
六本脚を土へ広げる。
人間の足音。胸の鼓動。息を呑む振動。子どもが親の服を掴む小さな揺れ。
恐怖は匂いだけではない。
地面へ落ちてくる。
大勢の身体から、雨のように。
そのたび、感情導管が低く唸る。
うううううん。
腹の下を、冷たい振動が北へ流れていく。
「気持ち悪い」
ルビーが触角を伏せた。
わかる。
俺たちへ向けられた恐怖が、一本の流れになっている。
これだけの数の人間が、同時に同じ方向を怖がっている。
初めて知る種類の重さだった。
姿を見せていないのに、身体が勝手に縮む。暗い穴の奥へ逃げろと本能が騒ぐ。
怖がられることには慣れたつもりだった。
嘘だ。
慣れるわけがない。
誰かが息を呑むだけで、次に靴が落ちてくる気がする。棒が振られる気がする。仲間まで同じ目で見られる気がする。
「クロ」
ガーロの触角が、俺の触角へ触れた。
「返事をしろ」
「ギ」
「聞こえん」
「ギッ!」
「よし。いるな」
ガーロは前を向いたままだった。
俺も一匹ではない。
土の中には、匂いの違う仲間が四十七匹いる。人間には同じ黒い影に見えても、俺には全部わかる。
二号の右触角は少し上がる。ピノは緊張すると三歩目が速い。ガーロは傷のある翅を床へ擦る。ルビーは風を起こす前、必ず一度だけ腹を浮かせる。チュウタは無言のとき、尻尾の先だけが小さく揺れている。
一匹ずつ違う。
恐怖のための像ではない。
生きて、腹を減らして、失敗して、笑う仲間だ。
「配れ」
俺の合図で、四十七匹が動いた。
足音一つ立てず、影から影へ。
床板の隙間から、青い毒見ひもを一軒に一本ずつ押し出す。
村人の靴の横。
水桶の下。
子どもの椅子の脚元。
「何だ、これ?」
最初に拾ったのはレンだった。
もちろん役目を知っている。
「オルドさん、これは?」
わざと大声で訊く。
「薬を調べる布だ。自分の水へ浸してみろ」
レンが南井戸の水へ端を入れる。
青いまま。
次に北井戸。
紫。
最後に、神官が配っていた清め薬。
赤。
村人がざわめいた。
「私にもやらせて」
「うちの杯を持ってくる!」
「井戸から自分で汲めば、細工できないぞ」
「俺の家の水も試してくれ!」
次々と布が水へ入る。
青。
紫。
赤。
誰がやっても同じだった。
「これは精霊の悪戯だ!」
神官が叫ぶ。
「なら、なぜ薬だけ赤くなる?」
村長が問い返した。
「魔物の術だ!」
「俺が自分の杯で混ぜたんだぞ」
「布が呪われている!」
「じゃあ、そっちの白い布で試せ!」
村人が祭りの飾り布を裂いた。
オルドが皆の前で試験液を塗る。
清め薬へ浸す。
赤。
また赤だ。
恐怖導管の唸りが弱くなった。
ううん……。
怖がる声が、疑う声へ変わっていく。
リリアが青い帳面を掲げた。
「牢に入れられていた方々の名と、拘束した理由です。昨夜救出した皆さんが、ここにいます」
レンたちが前へ出る。
教団の薬で娘が倒れたと訴えた母親。
寄付を払えなかった木こり。
農具を隠したと疑われた老人。
村人が知っている顔だ。
嘘ではない。
見ればわかる。
「祭りを壊すつもりか!」
「いいえ」
リリアは黒い虫の像を見上げた。
「本当に清めるべきものが何か、皆さんと確かめたいだけです」
誰かが拍手した。
一人。
二人。
まだ小さい。
けれど恐怖ではない音が、広場の床へ落ちてくる。
俺の腹へ、温かい振動が届いた。
やった。
まだ勝ってはいない。
それでも、炉へ流れる恐怖は確実に減った。
俺は床下で六本脚を上げた。
頭をぶつけた。
「ギャッ!」
「静かに喜べへんの?」
二号が呆れた。
無理だ。
嬉しいと脚が全部動く。
これだけは、人間だったころから変わらない癖かもしれない。
◇
ごうん。
祭りの鐘が、もう一度鳴った。
今度は誰も縄を引いていない。
拍手が止まる。
白い火が、虫の像の足元から立ち上った。
炎の向こうを、一人の男が歩いてくる。
灰色の髪。
胸には白炎の紋章。
司祭ヴァルガ。
教団の男たちが道を開ける。
その足取りには、焦りが一つもなかった。
ヴァルガは試験布も、帳面も、救出された人々も見た。
怒鳴らない。
慌てない。
ただ黒い像の前へ立ち、白い布を取り払った。
そこには、乾燥棚に残っていた小さな足跡を何十倍にも写した板があった。
六本脚。
細長い触角。
俺たちの跡だ。
「村の者たちよ」
ヴァルガの声が広場へ響く。
「お前たちが夜の精霊と呼び、食料を与え、家へ招こうとしたもの。その正体を教えよう」
俺の触角が固まった。
ヴァルガは板を掲げた。
「精霊の正体は――害虫だ」




