技師セラの取引
「黒い技師殿。取引をしないか」
そう言ったセラは、俺の目の前へ石を置いた。
どすん。
「ギャッ!」
前脚一本分、近い!
人間にとっては小石でも、俺にとっては机である。交渉開始と同時に机を投げつけるやつがあるか。
「すまない。小ささに慣れていない」
「この大将、態度だけは人間二人分くらいあるからな」
チュウタが余計な説明をした。
「態度で人間と戦えるなら苦労しない!」
「ギギッ!」
「褒めてる」
絶対に嘘だ。
嘘をつくときのチュウタは、尻尾の先が右に一回だけ跳ねる。
いま跳ねた。
森の外れ。倒木の陰。
救出された六人はオルドの家へ向かい、ここには俺たちとリリア、レン、それからセラが残っていた。夜明けまではまだ時間がある。だが、村の向こうでは教団の男たちが怒鳴り、倉庫の品を別の場所へ運び始めている。
遠くの喧騒が、地面を伝って腹の下まで届く。
のんびり話している暇はない。
俺は痛む背中を伸ばし、油と煙の匂いを振り払った。
まだ今夜は終わっていない。
セラは地面へ小石を六つ並べた。
「これが北井戸。これが村の回収管。ここが操作塔。そして地下にあるのが主炉だ」
石と石の間を細い枝で結ぶ。
「止められるのか?」
レンが身を乗り出した。
「止められる。ただし、私一人では設備まで辿り着けない」
セラは俺を見た。
「人間が通れない保守管が三本ある。その中の弁を順番に閉じる必要がある。お前たちなら入れる」
「三本、俺らだけで?」
チュウタが身を乗り出す。
「一本ずつ、な。手分けすりゃ怖くない」
根拠のない自信だが、今はありがたい。
なるほど。
俺たちの仕事だ。
狭い。暗い。汚い。人間が入れない。
最近、この条件を聞くと少し嬉しくなる自分がいる。
嫌だ。
嬉しくない。
俺はもっと日当たりのいい、甘い果物が置いてある仕事もしてみたい。
一度でいいから、依頼書に「日向で果物番、危険度ゼロ」と書かれた仕事を受けてみたい。
来ないだろうな、そんな依頼。
しかし触角は、枝で描かれた管の形を熱心に追っていた。
「条件は?」
リリアが訊く。
セラの指が止まった。
「母と弟を守ってほしい」
声の調子が、初めて崩れた。
「二人は操作塔の裏にある宿舎へ置かれている。表向きは保護だ。実際は、私が設備の保守を拒まないための人質だ」
「そんな……」
レンが拳を握る。
「私が牢から消えたと分かれば、夜明け前に別の塔へ移される。炉を止める前に、二人を村の外へ逃がしてほしい」
助ける。
そう言いかけて、俺は口を閉じた。
簡単に言うな。
レン一人を助けに行って、六人になったばかりだ。今度は操作塔の裏。見張りの数も、入口も、母親と弟が歩けるかもわからない。
助けたい、と、助けられる、は別だ。
さっきレンへ怒ったばかりなのに、俺が同じことをしてどうする。
「ギギ。ギッ、ギギギ」
俺は石を二つ追加した。
宿舎の入口。
見張り。
退路。
「場所と人数が知りたいって」
ルビーが訳す。
「入口は東と地下。見張りは普段二人だが、今夜は増えているかもしれない。母は歩ける。弟は足が悪い」
「かもしれない、では足りない」
ジロが暗がりから出てきた。
いつからいた。
「最悪を六人と仮定します。弟を人間が運ぶなら、救出側に最低二人。地下路を使うなら、横幅と段差が不明です」
「誰だ、このネズミは」
「作戦の穴へ数字を詰める係」
チュウタが答えた。
「あと、冷たいことを言う係」
「あなたが温かすぎて計算が腐るので、ちょうどよいかと」
「今の聞いたか、クロ!」
聞いた。
「大将は反応が遅い。〇・八秒」
「数えるな!」
交渉中だから後にしろ。
「信用できないのか」
セラが俺へ訊いた。
その声には、少しだけ棘があった。
当然だろう。
お前はついさっき牢から出てきた。浄化炉を作った一族だと名乗り、俺たちに管へ入れと言っている。しかも教団の服を着ていた匂いがする。
……待て。
俺の触角が、セラの袖へ向いた。
発酵煙と土と汗に隠れていた匂い。
青月草の薬。
古い紙。
操作塔の油。
覚えのある配合だ。頭の奥で記憶が引っかかる。
知っている。
三十日前、俺たちが塔へ忍び込んだ夜。ヴァルガへ北井戸の接続をやめるよう訴えていた若い神官だ。
「ギッ!」
「何?」
「クロ、この人を知ってるって」
ルビーが言うと、セラの顔が固まった。
「どこで見た」
俺は塔の形を描き、窓を指し、ヴァルガの物まねをした。
胸を張る。
眉間へしわを寄せる。
腕を組み、低い声を出す。
「ギギギ。ギーッ」
二号が腹を抱えた。
「似てる! 『区別している間に病が広がる』の顔や!」
「笑うな。俺は真剣だ!」
俺の言葉はルビーにしか伝わらない。
悔しい。
セラだけは笑わなかった。
「塔にいたのか。あの夜、記録室へ入ったのはお前たちだったのか」
「ギ」
「複写紙が一枚足りなかった。鼠が齧ったと思われていたぞ」
「鼠って言ったやつを連れてこい!」
チュウタが怒った。
いま気にするところはそこではない。
「私は神官ではない」
セラは大きすぎた法衣の袖を引き裂いた。
布の裂ける音が、静かな倒木の陰に大きく響いた。
下から、細い銀輪が出てくる。歯車と水滴を組み合わせた印が刻まれていた。
「炉守技師の家は、代々一人を教団へ差し出す。表向きは神官。実際は、古い設備が壊れたときだけ呼び出される道具だ」
道具。
その言い方が腹に引っかかった。
仲間の名も好物も覚えている俺たちからすれば、ひどく寂しい呼び方だ。
「私は記録を見るために従った。処理薬で人が倒れている証拠を集め、止めるつもりだった。だが青い帳面を持ち出そうとして捕まった」
「なら最初から勇者様へ話せばよかっただろ」
レンが言った。
「話した。三人に」
セラの声が乾いた。
「一人は教団へ知らせた。一人は怖がって逃げた。一人は、証拠が足りないと言った。だから今度は証拠を取ろうとした」
「それで捕まった、と」
「ああ。笑いたければ笑え。ひどく間抜けな技師だ」
笑えない。
俺たちだって、警告文字を何度も消され、罠にかかり、煙玉で自分たちまで燻された。うまくいったことより、失敗のほうが多い。
尻尾を挟まれ、蜜に沈み、鍵に挟まれ、それでも毎回どうにか帰ってきただけだ。
間抜けだから信用できないなら、俺は一生誰とも組めない。
「ギギッ」
俺はセラが置いた小石へ登った。
大きい。
ちょっと格好をつけて机へ乗るつもりが、崖登りになった。
前脚を引っかける。中脚で踏ん張る。後ろ脚が滑る。
「ギ、ギギ……!」
「何をしている?」
「大将らしく高いところから話したいらしい」
ガーロ。
説明するな。
「手伝おうか?」
二号が下から石を積み始める。
「踏み台はいらん! 自力で登る!」
意地である。
意地だけで登れるほど石は甘くなかった。
俺はどうにか石の上へ這い上がった。油の傷が背中に引きつり、触角の先まで痛みが走る。
それでも胸を張る。
「ギッ。ギギギ、ギッ」
「信用は、まだしないって」
ルビーが訳した。
セラの目が細くなる。
「でも、助ける。信用するために、互いに隠し事を減らす。できることと、できないことを全部話せって」
「矛盾しているな」
「クロはいつもそう。疑うけど見捨てない。怖いけど前へ出る。格好つけるけど石に登るだけで息切れしてる」
「最後はいらない!」
また伝わらない。
俺は石の上で前脚を振り回した。
セラの口元が、ほんの少し緩んだ。
初めて見る表情だった。
◇
取引には、四つの約束を置いた。
一つ。
俺たちはセラの母と弟を村の外へ逃がす。ただし、誰か一匹を犠牲にする作戦は使わない。
「それは絶対だ」
ガーロが念を押した。
二つ。
セラは炉と管の情報を全部出す。危険を小さく言わない。わからないことは、わからないと言う。
「分からないことまで言えと?」
セラが眉をひそめる。
「分からないのに分かった顔をされるほうが怖い」
三つ。
教団の者でも、武器を捨てた人間は傷つけない。
「甘いんじゃないか」
レンが小さく言った。
「甘いさ。だが、殺した数だけ強くなる話にはしたくない」
四つ。
どちらかが約束を破ったと思ったら、その場で言う。後から勝手に消えない。
石の上から見下ろす俺と、地面に片膝をつくセラ。
目線の高さは違っても、言葉の重さは同じにしたかった。
「子どもの約束みたいだな」
セラが言った。
「子どもの約束を守れない大人が多すぎるんよ」
二号が答えた。
たまに、こいつは急にまともなことを言う。
次の瞬間には台無しにするのも、いつものことだが。
「では印を」
セラは銀輪を外して差し出した。
俺の身体より大きい。
重い。
受け取れない。
「ギ……」
「持てないのか」
言うな。
「私が預かる」
リリアが輪を受け取った。
「クロさんたちの側からは?」
印などない。
俺たちは互いの匂いと返事で仲間を見分ける。紙も署名も、ゴキブリには大きすぎる。
俺は自分の触角を一本、セラの指へ当てた。
指先の温度。細かい震え。石粉で荒れた皮膚。
怖がっている。
俺も怖い。
人間の指は、少し力が入れば俺の触角を折れる。だがセラは動かなかった。
「これが印か」
「ギ」
「軽いな」
「命を懸けるには十分重いよ」
ガーロが言った。
その通りだ。
俺たちは文字より先に、触れた相手の震えを覚える。
書類より確かな約束が、ここには六本と二本、ちゃんと揃っていた。
◇
母と弟の救出は、俺たちが宿舎へ忍び込む前に終わった。
リリアが正面から訪ねたからである。
「この宿舎に、炉の汚染を受けた方がいる可能性があります。全員、治療のため移動してください」
「そんな命令は聞いていない」
見張りが槍を横にした。
「では、ここで全員を診ます」
「入るな!」
「病人を閉じ込めているのですか?」
「違う!」
「なら出してください」
「それもできん!」
「では、閉じ込めているのですね?」
「違うと言っている!」
見張りは、自分で掘った言葉の穴へ落ちた。
見事な自滅だった。土魔法もいらない。
俺とチュウタは宿舎の床下で待っていた。
土を通じ、会話の振動が腹へ届く。
「勇者って、剣がなくても強いんだな」
「あいつを敵に回したくない」
「もう何度か怒らせてるだろ、クロ」
思い出させるな。
数えたら両手両脚じゃ足りない気がする。
やがて、宿舎の扉が開いた。
セラの母は自分で歩いて出てきた。弟は細い杖をつき、片足を引きずっている。
「姉さんは?」
「安全です」
リリアが答えた。
「会える?」
「必ず」
強い言葉だ。
軽い約束ではない。リリアは本当に必ず会わせるつもりで言っている。
見張りの一人が腕を伸ばした。
「その二人は動かすな!」
俺の六本脚が地面を蹴る。
床板の隙間から飛び出し、槍の柄へ駆け上がった。ざらついた木。汗の匂い。驚いて跳ねる筋肉の振動。
「うわっ、虫!」
槍が揺れる。
落ちる前に、俺は手の甲へ移った。
見張りが反射的に手を振る。
槍が横へ逸れた。
「いま!」
チュウタが土を盛り上げる。見張り二人の足元だけが、ぼこん、と柔らかく沈んだ。
「なっ――」
膝まで土へはまる。
倒れない。怪我もしない。ただ、すぐには追えない。
チュウタの土仕事は、いつも痛くない意地悪だ。
「失礼します」
リリアはセラの弟を軽々と抱え、母の手を引いて歩き出した。
軽々と、という言葉が、また少し怖い。
「待て!」
「治療が終わったら、ご本人たちが帰るか決めます」
リリアは振り返らない。
俺は見張りの腕から飛び降り、その靴の前へ着地した。
人間の目が俺を捉える。
ぞくりとした。
脚が逃げろと騒ぐ。触角は左右の穴を探し、腹は土へ伏せたがる。
それでも、ほんの一拍だけ動かなかった。
俺はここにいる。
怖いまま、仲間を守るために立っている。
「あの黒い虫……」
「ギッ」
じゃあな。またな、とは言わない。二度と会いたくない。
今度こそ俺は走った。
「格好つけてないで急げ!」
チュウタが床下から叫ぶ。
わかっている!
◇
オルドの薬草小屋で、セラは母と弟を抱きしめた。
声を上げて泣くかと思った。
セラは泣かなかった。
母の肩を二度叩き、弟の足を確かめ、戸口と窓と裏口を見た。逃げ道を数えてから、ようやく息を吐いた。
「ありがとう」
短い。
けれど、石を置いたときよりずっと震えていた。
「ええ言葉や」
二号が小さく鼻をすすった。
「泣くところじゃない!」
「泣いてません、鼻が疲れてるだけです!」
「礼なら終わってからだ」
俺の言葉を、ルビーが伝える。
「そうだったな。取引はまだ半分だ」
セラは青い帳面を開いた。
中には囚人の名だけでなく、浄化祭の日程、薬の配布量、村人の恐怖値という妙な数字が記されていた。
「恐怖値?」
リリアの眉が寄る。
「祭りで集めるものだ」
セラは指で数字を追った。
「虫を見せる。病の話をする。白い炎を焚く。人が怖がるほど、この値が上がる」
俺の触角が、勝手に持ち上がった。
まさか。
祭りで見た村人の悲鳴も、俺たちへの恐怖も。
「信者を増やすためか?」
レンが訊く。
「違う」
セラは帳面の最後に描かれた、白い卵の印を指した。
「アバドンの炉心は、魔力だけでは目覚めない」
灯りの炎が揺れた。
「生き物の恐怖を燃料にしている」




