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見られた小さな背中

「見られた」


 俺は言った。


「見られましたね」


 二号が答えた。


「完全に見られた」


「目、合っとったな」


 チュウタが干し果実をかじりながら言う。


「二度も確認するな!」


 畑から戻って、一刻。


 薬草小屋の床下。


 俺は同じ場所をぐるぐる歩いていた。


 右へ七歩。


 壁で曲がる。


 左へ七歩。


 また曲がる。


 六本脚だから、人間のころより歩数だけは稼げる。だから何だ。悩みは一ミリも減らない。


 床板の木目が、もう三周分は覚えてしまった。


 四本目の脚が引っかかる場所も、五周目には避けられるようになっていた。


 器用になっている場合か。


「黒い虫、って言った」


「黒いですね」


「虫やな」


「事実を並べるな! 今は何一つ助からない!」


 若い夜警の顔が、頭から離れない。


 レン。


 オルドに聞いた名前だ。


 驚いていた。


 怖がってもいた。


 手を上げた。


 潰そうとしたのか。


 毛布へ触れようとしただけなのか。


 分からない。


 分からないから、勝手に一番悪い想像が育つ。


 朝になれば、村中へ言う。


 精霊の正体は黒い虫だ。


 井戸の下にいる。


 畑の穴へ逃げた。


 油を流せ。


 火を入れろ。


 殺虫薬を――。


 腹側の呼吸孔が、まだ何もない空気を急いで吸った。


 頭では落ち着けと言っているのに、この身体は恐怖へ正直だ。


 情けない。


 少し前まで、深部の魔物にも吠え返せた気でいたのに、人間の一言でこの様だ。


 いや、吠え返せてすらいなかった気もする。


「戻るぞ」


 俺は立ち止まった。


「どこへ?」


 ルビーが聞く。


「クロニア。地上隊も赤風巣も、今すぐ村から離す」


「村は?」


「井戸は直した。薬も止めた。畑も――」


「乾燥棚の依頼、まだあります」


 二号が言う。


「命のほうが先だ!」


 声が大きくなった。


 床板から土が落ちる。


 二号の触角が少し下がった。


 しまった。


 違う。


 二号を怒鳴りたいわけではない。


 怖いのだ。


 また殺虫薬の霧が来ることが。


 仲間が倒れることが。


 俺の判断が遅くて、誰かが帰れなくなることが。


「悪い」


 俺は声を落とした。


「怒ってない。いや、今のは怒ってた。でも二号へじゃない。自分に……それも違うな。とにかく、怖くて声がでかくなった」


「大将でも怖いんですね」


「怖いに決まってるだろ! 人間の靴なんて、あれ一個で俺たち全員の墓石になるぞ!」


「墓石にしては底が汚いです」


「そこじゃない!」


「じゃあ、綺麗な墓石なら平気です?」


「墓石の話そのものをやめろ!」


 みんなが少し笑った。


 張っていた空気が緩む。


 ガーロが地図の端へ前脚を置いた。


「撤退はいつでもできる。だが、レンが何を話すか見てからでも遅くない。見張りは俺が出す」


「俺も行く」


「大将はここにいろ」


「見られたのは俺だ!」


「だからだ。顔を知られたやつが偵察に出るな」


「顔って、俺たちの違いを人間が見分けられるのか?」


「濡れて泥だらけで、柱の上から格好悪く降りたやつだ」


「特徴を増やすな!」


「大将、留守番の仕事もあります」


「何だ」


「同じ場所を歩くのをやめて、パンを数えてください」


「暇つぶしの提案をするな!」


「暇そうやったから」


 ガーロ、ルビー、ミナが地上へ出た。


 俺は待つ。


 待つしかない。


 これが一番苦手だ。


 自分で走れば、脚の速さだけは信じられる。暗い穴へ潜れば、触角で危険を探せる。


 仲間へ任せると、何もできない時間が生まれる。


 でも、その何もできない時間まで受け取るのが、任せるということなのだろう。


「大将、また同じ場所を歩いてます」


 二号が言う。


「歩いてないと考えがまとまらないんだよ!」


「さっきから、同じ答えしか出てません」


「うるさい!」


「大将、七十二周目です」


 ジロが伝話板越しに言った。


「地下から数えるな!」


     ◇


 夜が明けた。


 村長は、井戸前へ夜警を集めた。


 俺たちは乾燥棚の柱内部から見ている。


 結局、待てなかった。


 俺だけではない。


 二号もチュウタもついてきた。


 ガーロは「知ってた」と言った。


「報告しろ」


 村長が一人ずつ顔を見る。


「東の鈴が鳴りました。白い毛のようなものが転がっていました」


 最初の夜警が答えた。


「狐の毛か?」


「たぶん」


 二号が、柱の中で胸を張る。


「狐として認められました」


「尻尾だけな」


「本体もいつか!」


「ゴキブリをやめる気か!」


「狐、寒がりらしいです。冬支度、楽になります!」


「情報の出どころが不安だ!」


 二人目。


「畑の近くに鳥の足跡がありました」


「夜に鳥が?」


「行進する鳥です」


 俺たちは全員、二号を見た。


「まさかホンマに信じてもらえるとは思わへんかった」


 チュウタが一番驚いていた。


「設定、採用されました!」


「喜ぶな。怪しまれてるんだ」


 俺の触角の先が、勝手に揺れていた。


 次の名前を、心のどこかでもう知っていた。


 三人目。


 レンの番だ。


 若い顔には、眠れていない影がある。


 肩へ、昨夜の毛布を掛けていた。


 俺の六本脚が、木の内側へ食い込む。


「南畑で、何か見たか?」


 村長が聞いた。


 レンの口が開く。


 止まる。


 毛布の端を握る。


「……雨でした」


「雨?」


「途中で眠ってしまいました。すみません。目が覚めたときには、毛布が掛かっていました」


「誰が掛けた?」


「分かりません」


 嘘だ。


 俺を見た。


 目が合った。


 黒い虫と口にした。


 それを言わない。


「精霊だ!」


 トーマが夜警の輪の外から叫んだ。


「レン兄ちゃんが風邪ひかないようにしたんだ!」


「精霊が毛布を?」


 村人たちがざわめく。


 村長はレンの顔を長く見た。


「本当に、何も見ていないのか」


「見ていません」


 今度は、迷わなかった。


 俺の触角から力が抜けた。


 助かった。


 いや、まだだ。


 なぜ隠した。


 あとで一人で捕まえるためかもしれない。教団へ知らせれば報酬が出るのかもしれない。


 信じたい気持ちと、逃げろという感覚がぶつかる。


「大将、柱に穴が開きます」


 二号が俺の脚元を指した。


 同じ場所をずっと掻いていた。


「……緊張してるんだよ」


「木がかわいそうです」


「木より俺を心配しろ!」


     ◇


 夜警の報告が終わると、村人たちは南畑へ向かった。


 そこで、二つ目の騒ぎが起きた。


「水が引いてる!」


「排水溝が通ってるぞ!」


「麦の根も残ってる!」


 泥に沈んでいた畝が、朝日を受けている。


 雨水は新しく開いた溝から西へ流れた。


 根食い虫は、空き地に置いた餌の下へ集まっている。麦をかじらず、発酵茸へ夢中だ。


「精霊が畑まで直した!」


「昨夜の鈴は、このためだったのか?」


「鳥の足跡は?」


「精霊の使いじゃないか」


「行進する鳥が!?」


 二号の作った無茶な設定が、さらに育った。


 レンは畑へしゃがんだ。


 排水溝の縁を触る。


 そこに残った、蜘蛛糸の切れ端を見つけた。


 毛布の端にも、同じ糸が結ばれている。


 レンは二つを見比べた。


 昨夜見た俺の姿。


 勝手に動いた毛布。


 朝までに直った畑。


 全部がつながったはずだ。


 男の顔が、少し青くなった。


「気づいた」


 ルビーが小声で言う。


「逃げる準備をするぞ」


 俺は言った。


 レンは立ち上がった。


 こちらを見た。


 乾燥棚の柱。


 中にいると分かっているわけではない。


 それでも目が合ったような気がした。


 彼は何も言わず、家へ戻った。


     ◇


 昼すぎ。


 レンは一人で南畑へ来た。


 肩には袋を下げている。


 夜警はいない。


 村長もいない。


 オルドにも知らせていないらしい。


 俺たちは地下道から、その足音を追った。


 レンは昨夜の柵へしゃがんだ。


 袋から、干し林檎を一枚出す。


 次に、粗塩をひとつまみ。


 小さな木片の上へ並べた。


 人間には一口分。


 俺たちには宴会だ。


「供え物?」


 二号がささやく。


「違う」


 木片には、炭で絵が描かれていた。


 六本脚。


 長い触角。


 黒い背中。


 どう見てもゴキブリだ。


 その隣に、毛布の絵。


 文字は短い。


『ありがとう』


 俺の身体が止まった。


 夜の精霊へ、ではない。


 森の精霊へ、でもない。


 黒い虫へ。


 俺たちが本当は何者かを見たうえで、置いている。


 レンは周りを確認し、柵へ背を向けて座った。


「昨日、見た」


 小さく言う。


「黒くて、脚が多くて……正直、ぞっとした」


「ぞっとしたんかい!」


 二号が小声で突っ込む。


 俺は口を塞いだ。


「潰したほうがいいって、最初は思った。虫が畑にいたら、作物を食うと思ったから」


 胸の奥へ、冷たいものが落ちる。


 やっぱり。


 分かっていた。


 人間から見れば当然だ。


 俺だって人間だったころ、家にゴキブリが出たら――。


 そこから先を考えたくなくて、触角を伏せた。


「でも、手を上げたら逃げた」


 レンは毛布の糸を指でなぞる。


「俺を襲わなかった。畑も食わなかった。逆だ。助けてくれた」


 しばらく黙る。


「まだ怖い。近くに出たら、たぶん声も出る。でも、だからって、助けてくれた相手を売るのは違う」


 綺麗な言葉ではない。


 怖くないとも、好きだとも言わない。


 それが、うれしかった。


 俺たちの姿を見たまま、嫌なところも感じたまま、それでも行動を見て選んでくれた。


「林檎は俺の昼飯。塩は母さんに怒られるから、少しだけだ」


「もっと欲しかったです」


 二号が言う。


「黙って感動させろ!」


 俺の声が少し漏れた。


 レンの肩が跳ねる。


 振り向きかけ、途中で止まった。


 こちらを見ないまま、立ち上がる。


「また畑を助けてくれとは言わない。俺も働く。でも、困ったときは……その、できる範囲で頼む」


 足早に去っていく。


 最後は走っていた。


「怖いんやな」


 チュウタが言う。


「ああ」


「でも、くれたで」


「ああ」


 俺はそれしか言えなかった。


     ◇


「罠の匂いは?」


 ガーロが木片の周りを調べる。


「蜜なし。殺虫薬なし。人間の足音も遠い」


「糸もないわ」


 ルビーが風を流す。


「いただきます!」


 二号が林檎へ飛びついた。


「待て!」


 俺とチュウタが同時に後脚をつかむ。


「何でです!?」


「最初の一口はレンへ礼を言ってからだ!」


「もういません!」


「気持ちの問題だ!」


「大将、前もそれ言うてへんかった?」


「今日は気持ちが大事なんだ!」


 俺たちは木片の前へ並んだ。


 黒組。


 赤組。


 ネズミ組。


 総勢十七匹。


 人間一人分の干し林檎を、細い蜘蛛糸で切る。


 一口ずつ。


 塩は一粒が俺の頭ほどある。


「どうやって使う?」


 二号が舐めようとする。


「そのまま舐めたら三日水を飲むことになるぞ!」


 小さく削る。


 削った粉を林檎へほんの少しつけた。


 甘い。


 酸っぱい。


 最後に塩気が来る。


「うまっ!」


 全員の触角が同時に上がった。


「塩があると、甘さが増える!」


「クロニアへ持ち帰ったら、茸焼きにも使えるで!」


「赤風巣の樹液煮にも合うわ」


「先生にも持って帰ったら喜びます?」


「先生、味は分からないだろ」


「匂いだけでも喜びます、あの人」


「骨に鼻がついてる想像はやめろ!」


「一粒で町二つが騒げるぞ!」


 笑いが止まらない。


 人間のひとつまみ。


 それだけで、新しい料理が何十個も浮かぶ。


 俺たちは小さい。


 小さいから簡単に殺される。


 小さいから、一人の昼飯を十七匹で分けても余る。


 嫌だった身体の大きさが、今は少しだけ誇らしい。


「大将、誇らしい顔してます」


 二号に言われて、俺は慌てて触角を伏せた。


「誇らしくない、味を確かめてるだけだ」


「味、もう三回確かめてません?」


「四回目だ、細かいことを言うな!」


「これ、町への初交易品にしよう」


 俺が言う。


「交易?」


「仕事をして、相手が俺たちの正体を知ったうえで、品物をくれた。供え物じゃない。報酬だ」


「じゃあ、値上げ交渉もできます?」


 二号が聞く。


「いきなり欲を出すな!」


「塩二つまみ!」


「母親に怒られると言ってただろ!」


「じゃあ交渉相手、母さんにします?」


「レンより怖い相手を探すな!」


     ◇


 半分を食べ、半分をクロニアと赤風巣へ分けることにした。


 木片を葉そりへ載せる。


 粗塩は乾いた実の殻へ入れる。


「クロニア組と赤風巣組、どっちが多めがいいです?」


「均等にしろ」


「均等、揉めるやつです」


「揉めさせるな、割る係のお前が公平にやれ!」


「重責です!」


「重責って言うわりに、もう味見してるだろ!」


「味見と分配は別腹です!」


「腹いくつあるんだ!」


「持ち上げるぞ」


 チュウタが殻の下へ前脚を入れた。


 そのとき。


 俺の触角へ、かすかな魔力振動が触れた。


 とくん。


 心臓のような、一度だけの震え。


「止まれ」


 全員の動きが止まる。


「どうした?」


 ガーロが聞く。


「木片の下。何かある」


 俺たちは林檎と塩を別の葉へ移した。


 木片を裏返す。


 薄い金属札が貼りついていた。


 俺の前脚ほどの大きさ。


 白い炎を閉じた輪が刻まれている。


 浄火教団の印。


 札の中央から、細い光の糸が村の北へ伸びていた。


「監視札だ」


 ガーロの声が低くなる。


「駄菓子のおまけみたいな顔して、とんでもないものが……」


 二号の声も、いつもより小さかった。


「レンがつけたの?」


 ルビーが聞く。


 俺は答えられなかった。


 レンは俺たちを見た。


 村長へ嘘をついた。


 贈り物を置いた。


 その下に、教団の札がある。


 善意のふりをした罠か。


 本人も知らない追跡か。


 どちらもあり得る。


 二号が、食べかけの林檎をそっと置いた。


 さっきまで甘かった匂いの奥に、白い火の冷たい魔力が混じっていた。

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