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夜警を欺け

夜警は、本気だった。


 見張りが六人。


 松明が八本。


 鈴のついた糸が、村道を横切ること十二本。


 そして井戸小屋の周りには、真っ白な小麦粉が撒かれていた。


「足跡を取る気だ」


 床下の穴から顔を出し、俺は白い地面を見た。


 二号は隣で胸を張った。


「任せてください。狐には足跡を消す技があります!」


「お前はゴキブリだ」


「今夜だけ狐です」


「その尻尾を外せ!」


 白い綿毛の尻尾。


 第八十七話で穴へ詰まり、第八十八話で車輪に潰された、あの役立たずである。


 二号は尻尾を振りながら、小麦粉へ一歩踏み出した。


「見ててください。尻尾で、足跡を――」


 ずぼっ。


 二号の右前脚が、小麦粉の下へ沈んだ。


「深い!?」


 左脚で抜こうとする。


 左も沈む。


 中央の二本。


 後ろの二本。


 六本全部が埋まった。


「大将、これ、罠です!」


「見れば分かる!」


「足が抜けません!」


「何で作戦開始前に毎回捕まるんだ!」


 小麦粉の下には、薄い蜜が塗られていた。


 人間なら気づかない深さだ。


 ゴキブリには腹まで届く沼である。


 綿毛の尻尾が蜜を吸い、みるみる膨らんだ。


「尻尾が重いです!」


「捨てろ!」


「相棒なんです!」


「二日しかつけてないだろ!」


 夜警の足音が近づく。


 どすん。


 土が震える。


「粉が乱れてるぞ」


 人間の声。


 俺の触角がぴんと立った。


「チュウタ、下から土を押せ! ルビー、粉を散らせ! ガーロ、俺と二号を引く!」


「大将、尻尾も!」


「余裕があればな!」


「最優先で!」


「命の次だ!」


「二番目ならええやろ!」


 ガーロが笑いながら、二号の後脚へ蜘蛛糸を巻いた。


 チュウタの土魔法が、蜜の下を盛り上げる。


 べりっ。


 二号の前脚が一本抜けた。


 ルビーの風が小麦粉を舞い上げる。


 白い煙幕。


「今だ、引け!」


 俺とガーロが糸へ身体を倒す。


 べり、べり、べりりっ!


 二号が蜜から抜けた。


 勢いのまま、全員で床下穴へ転がり込む。


 直後、巨大な靴が白い煙の中へ降りた。


 ずしんっ!


 穴の天井から土が落ち、俺たちの背中を叩いた。


「何かいたか?」


「いや。風で粉が動いただけだ」


 夜警は松明をかざし、去っていった。


 俺たちは暗い穴の中で、白い粉まみれの二号を見る。


 背中も脚も真っ白。


 尻尾だけ、蜜で茶色い。


「……白狐になりました」


「黙れ」


「白狐、縁起がいいらしいです」


「今夜だけは縁起より速さが欲しい」


     ◇


 今夜の目的は、夜警との鬼ごっこではない。


 村の南畑を救うことだ。


 昼、オルドが乾燥棚の下へ一枚の葉を置いた。


 葉には畑の絵。


 根元に黒い点。


 空には雨雲。


 説明を聞くと、黒い点は根食い虫だった。


 三日前の豪雨で土の奥から上がり、麦の根を食っている。今夜また雨が降れば、水の逃げ道を塞いだ虫と泥のせいで畑が沼になる。


 朝までに排水溝を通し、根食い虫を畑の外へ出さなければ、麦の半分が駄目になる。


「夜警が増えた日に限って、仕事まで大きいんだよ!」


 俺は地図の上を歩きながら愚痴った。


「明日にしたら?」


 ルビーが言う。


「雨が待ってくれるならな!」


「雨に交渉します?」


 二号が手を挙げる。


「誰がだ!」


「森の精霊」


「天気まで担当範囲に入れるな!」


 薬草小屋の地下には、久しぶりにガーロも来ていた。


 毒傷から白い芯を抜いて以来、歩調は元へ戻っている。片翅は相変わらずだが、地上隊の黒組六匹を連れてきた。


「大将、正面から畑へ行くのは無理だな」


「鈴糸が四本。松明が二つ。小麦粉の道もある」


「地下から掘ればええ」


 チュウタが地図へ前脚を置いた。


「畑までは掘れる。けど、最後は地上へ出なあかん。根食い虫を外へ追い出す場所もいる」


「足跡を偽装しましょう!」


 二号がまた手を挙げる。


「今度はまともな案か?」


「鳥の足跡をつけます」


 二号は細い枝を三本束ねた道具を出した。


 先が三つに分かれ、鳥の爪に見える。


 地面へ押す。


 確かに鳥の足跡だ。


「おお」


「やるじゃない」


 ルビーも感心する。


 二号は得意になり、もう一つ押した。


 三つ目。


 四つ目。


 足跡が一直線に並んだ。


 向きも全部同じ。


「こんな歩き方する鳥がいるか!」


「行進が好きな鳥です!」


「鳥に設定を足すな!」


 俺たちは実際の鶏小屋を観察した。


 鳥はまっすぐ歩かない。


 二歩進み、横を向き、土を蹴り、餌をつつく。


 足跡の深さも毎回違う。


「二号が足跡を押す。ミナとクルは横へ土を散らす。途中で木の実をつついた跡も入れろ」


「鳥役、任せてください!」


「歌うなよ」


「鳥なのに?」


「絶対歌うな!」


 作戦は三段だ。


 一、チュウタたちが畑の手前まで地下道を掘る。


 二、二号が鳥の足跡を偽装し、夜警の目を東へ向ける。


 三、ルビーが風上から苦草の匂いを流し、根食い虫を西の空き地へ誘導する。


 その間に、ガーロ隊と俺が排水溝を開ける。


「全員、見つかっても戦うな。夜警は敵じゃない。村を守りたいだけだ」


「向こうが踏みにきたら?」


 ガーロが聞く。


「死ぬ気で逃げる!」


「分かりやすい!」


「ゴキブリの誇りはどうしたんです?」


 二号が聞く。


「生きて帰ってから語れ!」


     ◇


 チュウタの地下道は、麦畑の中央へ出た。


 出口は麦の根元。


 葉が重なり、夜警からは見えない。


 俺たちは一匹ずつ、湿った土へ這い出した。


 畑は静かだった。


 いや、人間の耳には静かだった。


 六本脚を地面へつけると、土の下から無数の音が来る。


 かり、かり、かり。


 根をかじる音。


 ぬる、ぬる、と柔らかな胴が泥を押す振動。


 一匹ではない。


 何十匹もいる。


「下に三十……いや、もっとだ」


「匂いも強い」


 チュウタが鼻をしかめる。


 麦の根元には、白く太った幼虫が食いついていた。


 俺の身体より短い。


 だが、太さは二倍。


 顎が根へ食い込み、ぎちぎち鳴っている。


「こいつら、全部倒すん?」


「倒さない。畑の外へ出す」


「何で?」


「根食い虫も、食う場所を選べないだけだ。空き地へ餌を置けば、そっちへ行く」


「甘いな、大将」


 ガーロが言った。


 俺は少し身構える。


「虫へじゃない。数の見積もりが甘い」


 ガーロが地面を叩いた。


 土の下から、さらに大きな震えが返る。


「百はいるぞ」


「増えたあああ!」


 俺の触角が天を向いた。


「何で敵は、数えたあとに増えるんだ!」


「敵やない言うたやん」


「今だけ敵だ!」


「敵認定、コロコロ変わりますね」


「相手が増えたら変わるんだよ!」


 ルビーたちが風上へ回った。


 苦草の汁を染み込ませた布を広げる。


 畑の東から西へ、細い風が走る。


 根食い虫が動き始めた。


 一匹。


 二匹。


 土から白い頭を出し、嫌な匂いから逃げる。


 西の空き地には、発酵茸と腐葉土を混ぜた餌が置いてある。


「いける!」


 そう思った瞬間。


 畑の東で鈴が鳴った。


 りん、りりりんっ!


「誰か、糸に触ったぞ!」


 夜警の声。


 二号の鳥足跡班だ。


「予定より早い!」


 俺は麦の隙間から東を見る。


 二号が、鳥の足跡道具を抱えて走っていた。


 後ろでは白い狐尻尾が鈴糸へ絡まり、十二個の鈴をまとめて引きずっている。


 りんりんりんりんりんりんっ!


「尻尾を外せと言っただろおおお!」


「今、外れません!」


「毎回それだ!」


 夜警の松明が二号を追う。


 このままでは畑へ入ってくる。


「ガーロ、排水溝を頼む!」


「大将は?」


「二号を拾う!」


「一匹で行くな!」


「俺も行くで!」


 チュウタが並ぶ。


 俺は反論しなかった。


 今の俺は、一匹で格好よく助けるより、二匹で確実に戻るほうを選べる。


「よし、相棒。鈴を黙らせるぞ!」


「どうする?」


「糸ごと土へ引きずり込む!」


「それ、ワシが一番働くやつやん!」


「得意なやつへ任せる!」


「言い方だけ格好ええ!」


 二号の進路へ回る。


 チュウタが地面へ前脚を突き立てた。


 土が割れる。


 細い溝が二号の足元まで走った。


「飛び込め!」


「尻尾が!」


「捨てろ!」


「相棒が!」


「俺たちと尻尾、どっちが相棒だ!」


 二号が一瞬だけ迷った。


「尻尾!」


「そこは俺たちだろ!」


 チュウタが尻尾の根元をかじる。


 ぶちんっ。


 二号が溝へ落ちた。


 俺も続く。


 切れた尻尾は鈴糸へ残り、夜風に吹かれて東へ転がった。


 鈴が遠ざかる。


「あっちだ!」


 夜警の松明が、尻尾を追って畑から離れた。


 失敗の衣装が、最後は立派な囮になった。


「俺の尻尾……」


 二号が土の中でうなだれる。


「お前には最初から生えてない!」


     ◇


 夜警が東へ動いた間に、ガーロ隊が排水溝の詰まりへ着いた。


 泥。


 腐った藁。


 根食い虫の抜け殻。


 人間の腕ほどある塊が、溝の出口を塞いでいる。


「押すぞ!」


 ガーロたちが蜘蛛糸を巻く。


 チュウタが下から土を崩す。


 俺と二号は、塊の奥へ入った。


 腐った藁の隙間。


 背中がこすれる。


 腹へ泥がつく。


 呼吸孔へ湿った空気が入り、身体が重い。


 でも、人間の指が届かない中心まで、俺たちなら潜れる。


「奥に枝が一本! これが全部を引っかけてる!」


「切れる?」


 二号が聞く。


「太い!」


「じゃあ歌います?」


「枝が嫌がって抜ける歌なら頼む!」


「あります!」


「あるのかよ!」


 二号が低い振動を出した。


 歌というより、腹へ響く唸りだ。


 ぶうううん。


 枝の周りの泥だけが震える。


 固まっていた土が、少しずつ崩れた。


「いける! ガーロ、引け!」


 外で十匹が糸を引く。


 チュウタが根元を持ち上げる。


 俺は枝と藁の間へ六本脚を突っ張り、最後の泥を掻き出した。


 ぬるっ。


 枝が抜ける。


 次の瞬間。


 向こう側に溜まっていた水が、黒い壁になって押し寄せた。


「水だあああ!」


 どばああああっ!


 詰まりが一気に崩れた。


 藁、泥、抜け殻が噴き出す。


 俺と二号は水にさらわれた。


 身体が回る。


 上下が消える。


 触角が水へ押し倒される。


 呼吸孔へ泥水が触れる。


 怖い。


 ほんの一瞬なのに、頭の中で叫びが膨らんだ。


 人間なら足首ほどの流れだ。


 俺には川だ。


「大将!」


 ガーロの蜘蛛糸が前脚へ絡んだ。


 引かれる。


 俺は空いた脚で二号の触角をつかんだ。


「痛い痛い!」


「我慢しろ!」


「触角は大事です!」


「知ってる! 俺にもある!」


 ガーロ隊が俺たちを岸へ引き上げた。


 背中から泥水が落ちる。


 六本脚が震えて、すぐには立てない。


 ガーロが俺の前へ立った。


「大将。次から中へ入る組にも、最初から糸をつける」


「……その通りだ」


「怒らんの?」


「俺が間違えた。怒る相手がいない」


 二号が横で泥を吐く。


「尻尾があれば浮けたかも」


「まだ言うか!」


 水は排水溝を走り、畑の外へ抜けた。


 根食い虫も苦草の風を避け、餌のある空き地へ移動していく。


 麦の根元から余分な水が引く。


 成功だ。


「大将、これで今夜の仕事は終わりですね!」


 二号が泥だらけの触角を振る。


「まだ夜警が村中にいるんだぞ」


「明日でいいと思います!」


「思うのは自由だ!」


 だが、まだ終わっていなかった。


     ◇


 ぽつっ。


 雨の最初の一滴が、畑へ落ちた。


 俺たちには水袋ほどある滴だ。


 土へぶつかり、泥を跳ね上げる。


「撤収!」


 全隊が地下道へ向かった。


 その途中。


 麦畑の端で、一人の夜警が眠っていた。


 若い男だ。


 昼は畑の泥を掻き、夜は精霊を探すため見張りに立ったらしい。


 木の柵へ背を預け、腕を組んでいる。


 松明は消えかけていた。


 足元には、落ちた薄い毛布。


 雨粒が男の肩へ当たる。


「大将、急ぐで」


 チュウタが言う。


 分かっている。


 雨は強くなる。


 俺たちは水滴一つで流される。


 夜警へ近づけば、目を覚まして踏まれるかもしれない。


 助ける必要はない。


 毛布が落ちただけだ。


 人間なら、少し濡れるだけだ。


 俺は地下道へ一歩進んだ。


 男の身体が震えた。


 寒いのだ。


 昼も夜も働いて、座ったまま眠るほど疲れて、それでも村を守ろうとしている。


 俺たちを捕まえる側だ。


 でも、敵ではない。


「……毛布を掛ける」


「大将」


 ガーロの声が低くなる。


「危険なのは分かってる。畑は終わった。ここで解散してもいい。俺だけ――」


「それ言うたら怒るって、まだ覚えてへんの?」


 チュウタが俺の横へ並んだ。


 ルビーも翅の水を払う。


「毛布なら、風で端を上げられる」


 ガーロは蜘蛛糸を出した。


「俺たちが引く」


 二号も泥だらけの触角を立てる。


「歌は小さくします」


「お前ら……」


 胸が詰まる。


 格好よく一匹で行くつもりだった。


 まただ。


 俺は守ると言いながら、仲間を置いて勝手に危険へ行こうとする。


「悪い。一緒に頼む」


「最初からそう言え」


 ガーロが俺の背中を叩いた。


     ◇


 毛布は重かった。


 雨を吸い始めている。


 端だけでも、俺たち十匹分より重い。


 ルビーたちが下へ風を入れる。


 布が少し浮く。


 チュウタが端を持ち上げる。


 ガーロ隊が蜘蛛糸を引く。


 黒組が毛布の折れ目へ入り、引っかかりを外す。


「一、二、引け!」


 二号の小さな拍。


 ずるっ。


 毛布が男の足へ乗った。


「もう一度!」


 ずる、ずるっ。


 膝。


 腰。


 胸。


 毛布の端が、男の肩へ届かない。


「あと少し!」


 雨が強くなる。


 ばた、ばた、と大粒が毛布を叩く。


 俺たちの背中にも当たる。


 一滴ごとに脚が滑る。


「柱へ糸を回せ!」


 ガーロが叫ぶ。


 俺は柵を登った。


 濡れた木が滑る。


 六本脚の爪を細かな傷へかけ、一歩ずつ上がる。


 人間の肩の高さ。


 落ちれば、雨水の溝まで流される。


 怖い。


 でも、壁を走れるこの身体なら行ける。


 俺は柱の上を回り、蜘蛛糸を結んだ。


「滑車にする! 下から引け!」


 糸が柱を曲がる。


 みんなの力が上向きへ変わる。


「いくぞ!」


 ガーロ隊が引く。


 チュウタが押す。


 ルビーの風が布を持ち上げる。


 二号の拍が全員の脚を合わせる。


「一、二、三!」


 ばさっ!


 毛布が男の肩へ掛かった。


 若者の震えが止まる。


 その瞬間。


 男の目が開いた。


 俺は柱の上にいた。


 隠れる場所はない。


 松明の赤い光が、濡れた俺の甲殻へ映る。


 男と目が合った。


「……黒い、虫?」


 喉が凍った。


 逃げろ。


 頭では分かっている。


 六本脚が動かない。


 人間の目。


 見つかった。


 嫌悪で顔が歪む前に逃げたい。


 ありがとうなんて要らない。ただ、潰そうとしないでくれ。


 若者の手が上がる。


「クロ!」


 ルビーの風が俺の背中を叩いた。


 身体が柱から浮く。


 俺は我に返り、濡れた木を駆け下りた。


「撤収!」


 仲間が地下道へ飛び込む。


 最後に俺も穴へ滑り込む。


 男の指が、穴の手前へ触れた。


 追ってこない。


 ただ、俺の小さな背中を見ていた。


 背後で、若者が毛布を握る音がした。


「お前が……掛けたのか?」


 答えられなかった。


 土の暗がりへ逃げながら、俺の触角はいつまでも、その声の震えを追っていた。

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