勇者は精霊の共犯者
夜の精霊には、翌朝から依頼が殺到した。
折れた箒。
穴の開いた籠。
片方だけ取れた鍋の取っ手。
音の鳴らない鳥除け。
そして、真っ二つになった椅子。
「最後のは無理だ!」
井戸小屋の床下から見上げ、俺は叫んだ。
人間の椅子である。
脚一本だけでも、クロニアの広場に立つ柱より太い。それが座面ごと二つに割れ、供え物のパン一切れと並んでいた。
「パン一枚で直してくれってことですか?」
二号が首を傾ける。
「俺たちの身体なら二日半分だが、作業量は二百日だ!」
「値上げ交渉します?」
「誰がどうやって交渉するんだ!」
「床下から」
「怪談になる!」
「怪談の方が商談より早くまとまりそうです」
「まとまってどうする! 次の依頼は椅子だぞ!」
「怪談で椅子は直りません」
「今それに気づいたのか!」
村人たちは、夜の精霊を便利屋だと思い始めていた。
早い。
信頼が育つより、注文の山が育つほうが早い。
「うれしい悲鳴やな」
チュウタが箒の枝をかじって具合を確かめる。
「悲鳴の部分が大きすぎる!」
「大将、あれ見て」
ルビーの声で、俺たちは井戸小屋の外へ触角を向けた。
村の広場に人が集まっている。
中心にいたのは、リリアだった。
銀色の髪。
腰の聖剣。
昨日までは、毒井戸を浄化した勇者として遠巻きに感謝されていた。
今日は違う。
村人の輪が、逃げ道を塞ぐように狭い。
「勇者様は、夜の精霊をご存じなんでしょう?」
最初に聞いたのは、修理された熊手を持つ農夫だった。
「どうしてそう思うの?」
リリアは笑っている。
だが、右手が腰の後ろへ回っていた。
困ったときの癖だ。
俺は、なぜかそれを知っているような気がした。
「井戸を直した夜、勇者様も小屋にいた」
「瓶の中に光る何かを入れていたと、うちの子が見てます」
「それから道具が直り始めた」
「何か飼ってるんじゃないか?」
飼ってない。
断じて、飼われていない。
俺たちは自分で飯を作り、町を建て、毒井戸を直す立派な――。
「パンはもらいましたけど」
二号が小声で言う。
「今は黙っていような」
「はい」
リリアは村人を順番に見た。
「瓶に入れたのは、殺虫薬で弱った小さな命よ」
ルビーの触角が動く。
「助けたかったから助けた。それだけ」
「では、精霊ではないと?」
「さあ。精霊が何を指すのか、私にも分からないわ」
うまい答えだ。
嘘はついていない。
俺たちが精霊かと聞かれても、俺だって分からない。少なくとも二号が勝手に名乗る夜の精霊は、歌って、パンを盗み食いして、運搬中に坂から転がる。
神秘性は昨日、床下へ置いてきた。
「勇者様は何かを隠してる」
輪の外から声がした。
白い袖の男だ。
胸には、小さな白炎の印。
浄火教団。
教団の男は村人の肩越しに、リリアをまっすぐ見ていた。
「毒井戸が清められた翌朝、害虫の足跡が残っていた。勇者様は、その害虫を瓶へ隠した。違いますか?」
「違わないわ」
リリアは即答した。
「でも、害があるとは限らない」
「害虫に善悪はありません。汚すか、清いかです」
広場の空気が変わる。
昨日、水を飲んで笑った女たちが、互いの顔を見た。
恐怖は消えていない。
毒の正体も分からない。
分からないとき、人は一番簡単な説明へ寄る。
虫が汚した。
勇者が隠した。
燃やせば終わる。
簡単だ。
簡単すぎて、俺たちの命が説明からこぼれ落ちる。
「あいつ、昨日の薬と同じ匂いがする」
ルビーの声が低くなる。
「殺虫薬を撒いた連中か」
「たぶん」
リリアが教団の男へ一歩近づいた。
「井戸を汚したのが虫だという証拠は?」
「足跡があります」
「井戸を直したのも、その足跡の持ち主かもしれない」
「虫が人を助けると?」
「助けたのかもしれない」
リリアの声は揺れない。
俺たちの正体を知らない。
俺が誰かも知らない。
それでも、可能性を捨てなかった。
胸の奥が熱くなる。
同時に、腹が立った。
彼女だけが前に立っていることに。
「大将」
ルビーが俺を見る。
「分かってる」
俺たちは見つかれないように村を助けてきた。
正体を隠すのは、生き残るためだ。
だが、そのせいでリリア一人が嘘つきにされるなら、隠れ方を変える。
「証拠を出すぞ」
「姿を見せるん?」
「姿じゃない。井戸の下で見つけた、あれだ」
北管の底。
三段浄化苔を取りつけたとき、俺たちは白い粉に埋まった古代部品を見つけていた。
大きすぎて、あとで運ぶと印だけつけて残したものだ。
表面には浄化設備の紋章。
裏には、先生が読める古代文字。
毒の正体を、人間へ見せられる。
「チュウタ、連絡穴から応援を呼べ。二号、広場の声を伝話板へ送れ。ルビーは見張り」
「大将は?」
「北管へ潜る」
三匹の触角が、ぴたりと俺へ向いた。
「一匹で?」
「……一匹で行くと言ったら怒るんだろ」
「よう分かっとるやん」
「全員で行くぞ!」
◇
北管は、朝の水を流し始めていた。
ごおおおおおっ!
人間には細い水音。
俺たちには、天井まで震える濁流だ。
昨日つけた三段浄化苔が、流れの端で緑に光っている。
そのさらに奥。
白い泥へ半分埋まった金属部品があった。
輪の形をした古代の部品。
直径は俺の身体の八倍。
厚さは二倍。
「これを広場まで?」
二号の声が裏返る。
「言い出した俺も、少し後悔してる」
「少しなん?」
「かなりだ!」
チュウタが輪の下へ前歯を差し込む。
「せーの!」
持ち上がらない。
俺と二号も押す。
ルビーが風を送る。
輪は泥の中で、ぬるりと一度動いた。
そして戻った。
泥が跳ねる。
俺の顔へ。
「……証拠って、もう少し軽くならないのか?」
「証拠に聞いてください」
第一案、四匹で押す。
失敗。
第二案、輪へ糸をつけ、地上から引く。
輪は動いた。
代わりに糸が切れ、全員が後ろへ転がった。
「痛い!」
「水が来るで!」
濁流が管を満たす。
俺たちは輪の穴へ飛び込んだ。
水が外側を通り、金属の輪ごと俺たちを押した。
ごろっ。
「動いた!」
ごろごろごろごろっ!
「動きすぎだあああ!」
輪が管の中を転がる。
俺たちは穴の内側で、脚を突っ張った。
右へ回る。
天井が床になる。
もう一度回る。
床が天井になる。
「これ、運搬ちゃう! 乗り物や!」
「止めろ!」
「どうやって!?」
「二号、歌え!」
「何を!?」
「止まりそうな歌!」
「むちゃぶりです!」
輪の先に、昨日つけた二段目の苔が見えた。
ぶつかれば浄化装置が壊れる。
俺は六本脚を輪の内側へ張りつけ、触角で流れの強い側を探した。
右が強い。
なら、左へ重さを寄せる。
「全員、左!」
「こっち!?」
「二号、それは右!」
「回りすぎて分かりません!」
チュウタが二号の尻尾を引く。
ルビーが左へ風を叩きつける。
四匹分の重さが偏り、輪が傾いた。
ごんっ!
管の左壁へ倒れ、止まる。
苔の手前、触角一本分。
「止まった……」
「俺、もう丸い物きらいです」
「二号もさっきまで丸まってたで」
「今日から四角くなります」
「どうやってだ」
水が弱くなる間を待ち、輪の下へ小石を差し込む。
今度は転がすのではなく、少し動かしては石を前へ送った。
一歩。
一歩。
人間なら拾って終わる距離を、四匹で汗だくになって進む。
だが、途中から管の壁が震え始めた。
十一拍。
応援の合図だ。
排水穴の先から、赤い触角が現れた。
ルビーの仲間が六匹。
その後ろから、黒組が五匹。
さらにチュウタの仲間二匹が、細い木の棒を担いでくる。
「お待たせ!」
「証拠運搬隊、到着!」
「何で棒を?」
「昨日のパン運びで、丸いものは転がすと危ないって習ったからや」
「学びが早い!」
「パン運びで人生の教訓、もう三つ目です」
「三つも学ぶほど失敗してるってことだぞ、それ!」
「学びの多さは失敗の多さと比例します」
「胸を張って言うな!」
金属輪の穴へ棒を通す。
左右へ葉のそりを置く。
糸を三方向へ伸ばす。
前が引く。
横が倒れないよう支える。
後ろが小石を送る。
二号の拍に合わせ、十五匹の脚が動いた。
「いち、に、押す!」
輪が進む。
「いち、に、引く!」
また進む。
「いち、に、パン!」
「歌詞を混ぜるな!」
「元気が出ます!」
「腹が減る!」
笑い声が管の中を響いた。
広場ではリリアが一人で疑いを受けている。
だから急ぐ。
だが、暗い顔で運ぶ必要はない。
誰かを助けるときまで苦しそうにしたら、助けられる側が悪いことをしたみたいになる。
重いなら、重いと愚痴る。
失敗したら、転がった自分を笑う。
それでも脚は止めない。
俺たちは仲間なのだから。
◇
「害虫をかばう勇者を、信じろというのですか?」
広場では、教団の男の声が大きくなっていた。
「井戸の毒が消えた。それが事実よ」
リリアが答える。
「勇者様が浄化したのでしょう」
「私は桶を持っていただけ」
「では、誰が?」
「小さな――」
リリアが言葉を止めた。
俺たちの姿を勝手に明かさないために。
その一瞬を、教団の男は見逃さなかった。
「やはり隠している!」
「待て!」
農夫が叫んだ。
「井戸から、何か出てくるぞ!」
排水溝の格子が、ゆっくり持ち上がった。
下には俺たち十五匹がいる。
力を合わせ、金属輪を格子へ押しつけている。
「もう一度!」
二号が拍を刻む。
「いち、に、押す!」
格子が開く。
朝日が落ちた。
まぶしい。
背中が焼ける。
それでも輪を押す。
金属部品が、広場の石畳へ転がり出た。
ごろんっ!
村人が悲鳴を上げて下がる。
俺たちは輪の影へ潜り、格子の下へ戻った。
見つかったか。
分からない。
今は証拠だ。
「この紋章……」
リリアが金属輪へ駆け寄る。
表の土を手で払った。
白い炎を輪で囲んだ印。
教団の男の胸と同じ印だ。
「浄火教団の聖印だ!」
誰かが叫ぶ。
「違う!」
教団の男が一歩下がった。
「これは古代の浄化紋です。教団は、その使命を受け継いだだけで――」
「裏に文字があるわ」
リリアが輪を起こした。
裏側には、白い泥が詰まっている。
その上へ、俺たちが貼りつけた薄い菌布。
先生が伝話板越しに読み、ピコたちが写した古代文字の対照表だ。
文字の横には絵もある。
北の塔。
地下の白い管。
毒を吸う輪。
詰まったときは外して洗う印。
そして、詰まったまま動かせば水へ毒が戻る警告。
「これは、井戸の下にあった浄化装置の部品」
リリアが声を張る。
「毒を作った物ではない。毒を吸うはずの物よ。でも、白い粉で詰まっていた。誰かが手入れをやめたまま、上から無理に動かしていたの」
「読めるのですか?」
教団の男が聞く。
「絵なら誰でも読めるわ」
リリアが菌布の図を指した。
村人が集まる。
文字を知らない者も、三つの絵を見比べる。
きれいな輪。
白く詰まった輪。
黒い水を吐く井戸。
農夫が、実物の輪へ指を入れた。
内側から白い泥がぼろりと落ちる。
「井戸に浮いてたのと同じだ」
「北の操作塔から来た粉よ」
リリアが言う。
「虫の足跡が井戸を汚したんじゃない。足跡の持ち主が、詰まりを外して水を通したの」
広場が静かになった。
教団の男の顔から色が消える。
「そんな物を、誰が運んだ!」
男は排水溝へ駆け寄った。
格子をのぞく。
俺たちは、もう三つ先の横穴へ逃げていた。
二号だけが輪の陰に残り、落ちたパンくずを拾っていた。
「二号!」
「もったいなくて!」
「命ともったいない、どっちが重い!」
「命です! でも二番目にパンくずが重いんです!」
「順位、近すぎるだろ!」
俺とチュウタで両側からつかみ、引きずる。
教団の男の指が格子へ入った。
指先が、二号の後脚すれすれをかすめる。
「うひゃあああ!」
「静かに逃げろ!」
「無理です!」
俺たちは排水溝を走った。
人間の声が遠ざかる。
「何かいたぞ!」
「何を見た?」
「黒い、小さな――」
そこで、リリアの声が重なった。
「あなたの言う害虫が、これを運べると思う?」
教団の男が黙る。
俺も走りながら黙った。
運んだ。
十五匹で、愚痴を言いながら、しっかり運んだ。
「リリアさん、うまいですね」
二号が笑う。
「完全に共犯やな」
チュウタも笑う。
共犯。
悪い響きのはずなのに、今は少しうれしかった。
リリアは俺たちの名を知らない。
俺たちも、彼女の全部を知らない。
それでも互いに隠し、互いに助けた。
仲間になる前の、不思議な共犯だった。
◇
昼すぎ、教団の男は村を出た。
古代部品を調べるという名目で持ち去ろうとしたが、農夫たちが許さなかった。
「これは村の井戸から出た物だ」
「原因が分かるまで、ここに置く」
昨日まで教団の言葉へうなずいていた人々が、自分の目で見た証拠を囲んでいる。
戦って勝ったわけではない。
誰も斬っていない。
それでも、教団の男は一人で村道を戻っていった。
「勝ったな」
床下で俺が言う。
「椅子は残ってますけど」
二号が言う。
「今だけ忘れさせろ!」
リリアは広場に残り、古代部品の泥を落としていた。
誰も見ていない瞬間、排水溝のそばへ小さなパンくずを置く。
「ありがとう」
俺たちに聞こえる大きさだった。
二号が返事をしようとする。
今日は誰も口を塞がなかった。
だが、二号は自分で口を閉じた。
代わりに床板を、一度だけ軽く叩く。
こつん。
リリアがこちらを見る。
笑った。
俺の胸が、また理由もなく温かくなった。
◇
夕方。
薬草師オルドの水皿の横に、折りたたんだ紙が置かれていた。
罠はない。
教団の匂いもない。
紙の上には、小さな石が一つ。
風で飛ばないためだ。
「手紙やな」
チュウタが言う。
「読める?」
ルビーが聞く。
「人間の文字は、まだ全部は無理だ」
俺は紙の端へ触れた。
大きい。
俺たち四匹が乗れるほど大きな手紙だ。
だが、最初の一行だけは読めた。
これまで何度も見た呼びかけだったからだ。
『夜の精霊へ』
その下に、短い文が三行。
最後には薬草の絵と、小さな子どもの顔が描かれている。
オルドは少し離れた石へ腰かけ、こちらを見ずに言った。
「返事は要らん。読める者に見せればいい」
老人は立ち上がった。
「ただ、急いでくれ。孫の熱が、今朝から下がらん」
俺たちの笑いが止まった。
手紙から、苦い薬草の匂いがした。
その奥に、昨日の殺虫薬とよく似た、白い油の匂いが混じっていた。




