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精霊はパンを運べない

「喋るなあああ!」


 俺の叫びは、床板一枚を挟んだ瞬間、人間にはカサッという音になった。


 たぶん。


 そうであってくれ。


「今、返事した!」


 男の子が床へ頬をつけた。


 まずい。


 大変まずい。


 俺は二号の後脚をつかみ、床下の暗がりへ全力で引きずった。


「撤退! 夜の精霊、緊急撤退!」


「まだパンが!」


「お前が返事したせいだろ!」


「空腹には正直にって、食堂の壁に書いてあります!」


「あれは飯の量を我慢するなって意味だ!」


 六本脚が土を蹴る。


 人間だったころなら、膝を曲げて立ち、走り出すまでに一呼吸は必要だった。


 今の俺は違う。


 頭が逃げろと思ったときには、六本の脚がもう別々の石を踏んでいる。薄い腹を床下の隙間へ滑り込ませ、背中すれすれを光が通り過ぎた。


 便利だ。


 便利なのだが、逃げ方だけが日々うまくなる人生を誇っていいのかは、いまだに迷う。


「どこ? 精霊さん!」


 床板が持ち上がり、朝の光が一本差し込んだ。


「うおおお、太陽まで追ってきた!」


「太陽は最初からおるで!」


 先頭のチュウタが笑う。


 最後尾では、ルビーが弱い風を起こして俺たちの足跡を消した。殺虫薬を吸った身体はまだ本調子ではない。翅を一度動かすたび、赤い背中がわずかに揺れる。


「無理するな!」


「このくらい平気。誰かさんを運んだ昨日より軽いわ」


「俺が運んだんだが!?」


「そうだったかしら」


「助けた側の記憶を消すな!」


 口が悪い。


 なら、大丈夫だ。


 俺たちは石壁の割れ目へ飛び込み、細い連絡穴を三つ曲がった。


 人間の指も、猫の爪も届かない場所だ。


 そこでようやく止まる。


 四匹そろって腹を鳴らした。


 ぐうううううっ。


「……あの子、正しかったな」


「ものすごく、です」


「二号はしばらく返事禁止!」


「歌なら?」


「もっと禁止!」


「独り言なら?」


「聞こえたら同じだ!」


「じゃあ心の中でだけ返事します」


「それは好きにしろ」


「……本物です」


「聞こえてるぞ!」


     ◇


 日が高くなるにつれて、井戸小屋の供え物は増えた。


 パンが二切れ。


 干し魚が一尾。


 豆が七粒。


 木の実が五粒。


 小皿の水。


 そして、なぜか白い花の輪。


「大将、人気者やな」


「俺じゃない。夜の精霊がだ」


「夜の精霊って、俺たちですよね?」


「違うと言い切りたいが、井戸を直したのは俺たちだ」


 石の割れ目から外をのぞく。


 村人たちは井戸の水を汲み、匂いを確かめ、恐る恐る口に含んでいた。


 昨日まで青い顔で空の桶を抱えていた女が、今日は水を見て笑っている。


 男の子は小皿の前へしゃがみ、また床下へ呼びかけた。


「精霊さん、パン食べていいよ!」


 二号の口が開く。


 俺は前脚で塞いだ。


「むぐっ」


「返事禁止」


「むぐむぐ」


「歌も禁止」


 問題は、パンだ。


 人間には手のひらより小さい一切れ。


 俺たちには壁である。


 高さは俺の身体の三倍。横幅は五倍。厚さだけでも二匹分ある。しかも朝露を吸い、表面がやわらかくなっていた。


 うまそうな匂いが触角を殴ってくる。


 殴るという言い方は大げさではない。


 ゴキブリの触角は、人間の鼻よりずっと忙しい。焼けた小麦の甘さ、塩、酵母、木皿についた指の匂いまで、一度に頭へ流れ込む。


 空腹の腹には拷問である。


「夜になったら運ぼう」


 俺が言うと、ルビーが首を傾けた。


「全部?」


「赤風巣に半分。クロニアに半分。干し魚は治療所。豆は畑へ回す」


「花は?」


「二号」


「食べられます?」


「頭につけとけ」


「大将ひどい!」


「待って」


 ルビーが供え物を見つめたまま言った。


「もらって、それで終わり?」


 俺の触角が止まった。


 村人は、誰が井戸を直したか知らない。


 俺たちを虫だとも知らない。


 見えない何かへ、感謝を置いている。


 だから持っていっていい。


 そう考えた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。


 食料は欲しい。


 ものすごく欲しい。


 だが、相手が知らないまま一方的にもらえば、それは交換ではない。


「……盗みと変わらないな」


「向こうはくれる言うてるで?」


 チュウタがパンから目を離さずに言う。


「くれると言ってる。だから、受け取る。受け取ったぶん、俺たちも返す」


「井戸はもう直しました!」


「あれはパンをもらう前にやっただろ」


「ほな、何を返すん?」


 俺は井戸小屋を見回した。


 縄を切ったときに倒れた古い桶。


 取っ手の根元が割れている。


 壁には、柄の折れた熊手が立てかけてある。穀物をふるう網には穴が開き、隅には留め金の外れた木箱が積まれていた。


 人間には大きすぎて、今すぐ直すには面倒なものばかり。


 俺たちには、隙間だらけの遊び場だ。


「夜の精霊、パン代を働いて返すぞ」


「精霊なのに急に暮らしが堅実!」


「名誉だけで腹は膨れない!」


     ◇


 その夜。


 井戸小屋の床下へ、総勢二十四匹が集まった。


 赤風巣から十匹。


 地上隊から七匹。


 第二連絡穴を通ってきたクロニアの黒組が五匹。


 ネズミ族はチュウタを含めて二匹。


「パン二枚を運ぶだけで二十四名?」


 ジロが無表情で聞く。


「修理もある」


「三十名必要です」


「増えた!?」


「パンを軽く見ています」


「食べ物だけに?」


「二号、歌うなよ」


「まだ何も歌ってません!」


 まずはパンを床下へ下ろす。


 チュウタが皿の脚を登り、蜘蛛糸をパンへ巻いた。赤組が反対側へ葉の滑り台を敷く。俺たち黒組は下で受け止める。


「せーの!」


 ぐらり。


 パンが立った。


「おおっ!」


「いける!」


「そのまま倒せ!」


 ばふんっ!


 倒れた。


 俺の上へ。


 視界が茶色になった。


 背中が沈む。脚が六本ともやわらかな生地へ埋まり、動かない。


「大将がパンの下や!」


「救助!」


「ちょっと待ってください!」


 二号の声が近づいた。


「端っこ、食べれば出られません?」


「救助に見せかけて食うな!」


 ふかふかだ。


 温かくはないが、クロニアの硬焼きとはまるで違う。あれは非常食であり、ときどき建材であり、猫に投げれば武器になる。


 これは本物のパンだ。


 甘い匂いに包まれ、俺の腹が背中より先に降伏しそうになる。


「大将、生きとるか?」


「パンに埋まって死んだら、墓には正直に書いてくれ!」


「『食い意地に敗れる』?」


「圧死だ!」


 チュウタが下から持ち上げ、赤組が糸を引く。


 俺はようやく抜け出した。


 甲殻に、やわらかな白い中身がべったりついている。


 二号がじっと見る。


「一口だけ」


「見るな!」


 第一案、丸ごと運搬。


 失敗。


 第二案、チュウタが前歯で切る。


「任せとき!」


 しゃくっ。


 大きな欠片が落ちた。


 同時に、チュウタの頬が左右へ膨らんだ。


「飲み込むなよ」


「ほひごほひや」


「口に入れたまま反論するな!」


 切れる。


 だが、切るたびに担当者の腹へ消える。


 この方法では、運ぶころにはパンがなくなる。


 第二案、却下。


 第三案。


 蜘蛛糸を二本ねじり、赤土の細かな砂をまぶす。両端を赤組が持ち、左右へ交互に引く。


 ぎこ、ぎこ、ぎこ。


 糸が生地へ沈む。


「パン切り糸だ!」


「名前、そのままですね」


「分かりやすさは正義だ!」


 厚い一切れを、細長い六本へ分けた。


 さらに六本を、運搬穴の幅へ合わせて小分けにする。


 パンの山ができた。


 人間の一切れから、俺たち二十四匹の背丈ほどある山が。


「……これ、食堂何日分や?」


「ジロ」


「通常配給で三日。薄粥へ混ぜれば五日。赤風巣と半分ずつなら、それぞれ二日半です」


 全員の触角が立った。


 パン一切れが、二つの町の二日半。


 身体が小さいというのは、恐ろしい。


 人間の一歩で潰される。


 水滴一つで流される。


 パン一切れで祭りができる。


 不利ばかり数えていたら見落とす。俺たちは、少ないもので大勢が笑える身体でもあるのだ。


「食料班! 六つに分けろ! 三つは赤風巣、三つはクロニア!」


「大将の背中についてる分は?」


 二号が聞く。


「……現場手当だ」


「ずるい!」


「圧死しかけた代金だ!」


「俺も埋まりたいです!」


「危険手当欲しさに埋まるな!」


「危険は覚悟の上です!」


「覚悟する方向が間違ってる!」


     ◇


 運搬は、切れば終わりではなかった。


 パンはやわらかい。


 床の湿気を吸う。


 坂では転がる。


 そして匂いを嗅ぎつけた蟻が来る。


「右通路、蟻六!」


「左の葉そりを先に出せ!」


「坂で止まりません!」


「前を持ち上げろ!」


「持ち上げたら後ろが沈みました!」


「パンのくせに手がかかるな!」


 俺たちは大葉を二枚重ね、縁を蜘蛛糸で立てた。下へ乾いた葦を並べ、ころの代わりにする。


 前をチュウタたちが引く。


 横を黒組が押す。


 後ろから赤組が風を送る。


 ルビーは見張り役だ。


「右、三歩先に石!」


「人間の三歩か!?」


「私たちの三歩!」


「先に言え! 違いが大きすぎる!」


 葉そりが石へ乗り上げた。


 積んだパンが一斉に前へ滑る。


「押さえろおおお!」


 二十四匹が飛びついた。


 俺の六本脚は、前二本でパンを押し、中央二本で葉の縁をつかみ、後ろ二本で土を蹴った。


 こんな姿勢、人間なら一秒で腰を痛める。


 今はできる。


 できてしまう。


「止まった!」


「一個落ちたで!」


「二号、拾え!」


「はい!」


「口で拾うな!」


「前脚がふさがってます!」


「飲み込むなよ!」


「ほひごほひや!」


「さっきも聞いたぞ、その返事!」


 蟻は、干し魚の匂いをつけた空の葉で別の穴へ誘導した。


 湿った場所には、木箱から拾った薄い木片を橋として敷いた。


 急な下り坂では、後ろへ蜘蛛糸を結び、全員で一歩ずつ送った。


 一刻後。


 三台の葉そりが赤風巣への道へ入った。


 もう三台は、第二連絡穴からクロニアへ下りていく。


 伝話板が、十一拍で鳴った。


『パン きた』


 少し間が空く。


『やわらかい』


 さらに間。


『ガーロ ないてる』


「泣いてねえ!」


 遠い地下から、伝話板を通さないほど大きな声が響いた。


 みんなが笑った。


 俺も笑った。


 井戸の毒を止めた夜より、なぜか今のほうが勝った気がした。


 大魔法でもない。


 魔物を倒したわけでもない。


 パンを、みんなの食卓まで運んだ。


 それだけで胸を張れる夜がある。


     ◇


「食べたぶんは働くぞ!」


 修理班が井戸小屋へ戻った。


 最初は割れた桶だ。


 人間の目には一本の細い亀裂。


 俺たちには、身体ごと入れる谷である。


 黒組のミナとクルが亀裂の内側へ潜る。外側ではチュウタが木粉と樹脂を練り、赤組が風で水分を飛ばした。


「内側、糸を通せ!」


「来た!」


「引くぞ!」


 蜘蛛糸が亀裂を左右から縫う。


 その上へ樹脂を押し込み、木粉をまぶし、もう一度乾かす。


 人間の大きな指では届かない割れ目の奥まで、俺たちは入れる。


「桶、完了!」


 次は熊手。


 折れた柄の両側へ、細い枝を四本添える。湿らせた菌布を何重にも巻き、乾くと縮む性質で締め上げた。


「見た目、ちょっと太ない?」


「握りやすくなったと思え!」


「精霊、言い訳が雑ですね」


「精霊じゃない!」


 穀物網の穴は、赤組の細い脚が活躍した。


 縦糸を押さえ、横糸を通す。


 二号が一定の拍を刻み、全員の引く力を合わせる。


「いち、に、引く! いち、に、引く!」


「歌うなと言ったが、これは許す!」


「では二番です!」


「二番はない!」


「パンはふわふわ、糸はぴんぴん!」


「作るな!」


「大将ぺちゃんこ、みんなで救助!」


「その歌詞だけ今すぐ捨てろ!」


 留め金の外れた木箱は、落ちていた釘を再利用した。


 もちろん釘一本が、俺たちには丸太より太い。


 チュウタが土台を作り、赤組が糸で釘を立てる。俺は先端へ弱い雷を流し、古い金属だけを一瞬膨らませた。


「今だ、押せ!」


「うおおおお!」


 二十四匹が釘へ体当たりした。


 ごんっ。


 釘が穴へ入る。


 反動で二十四匹が転がる。


「入った!」


「腰が抜けた!」


「ゴキブリに腰ってどこだ!?」


「気持ちの腰です!」


「なら立て!」


 夜明け前。


 桶、熊手、穀物網、木箱。


 四つの修理が終わった。


 俺たちは道具の周りを歩き、目立つ糸くずを拾った。樹脂の匂いが強い場所には乾いた薬草をこすりつける。足跡はルビーの弱い風で消した。


「全部消すの?」


 ルビーが聞いた。


「いや」


 俺は桶の取っ手へ、蜘蛛糸をひと結びだけ残した。


「直した誰かがいる。それだけは伝わったほうがいい」


「見つけてほしい?」


「見つかりたくはない」


「面倒ね」


「ゴキブリ心は複雑なんだ」


 怖がられたくない。


 潰されたくない。


 だが、役に立ったことまで消したくない。


 嫌われ者の意地だ。


 朝の鐘が鳴る前に、俺たちは床下へ戻った。


 運搬中につぶれたパンを、小さな輪になって分ける。


 ルビーは一口だけ食べ、目を丸くした。


「やわらかい」


「地下からも同じ感想が来た」


「硬焼きと全然違う!」


 二号が頬を膨らませる。


「硬焼きは食事であり、盾であり、武器だからな」


「パンは?」


「食事だ」


「食事だけでいいんですか!?」


「本来はそれでいいんだよ!」


 笑いながら食べた。


 人間の食卓からこぼれたものではない。


 感謝として置かれ、俺たちが働いて受け取ったパンだ。


 一欠片なのに、いつもの硬焼きより腹の奥まで温かかった。


     ◇


 翌朝。


 最初に井戸小屋へ来た女が、直った桶を見て声を上げた。


 農夫は熊手を握り、何度も柄を振った。


「前より持ちやすいぞ」


 穀物網を持った老婆は、穴の消えた場所へ顔を寄せた。


「こんな細かい編み方、誰がやったんだい?」


 男の子だけは得意そうに胸を張った。


「夜の精霊だよ! ぼく、声を聞いたもん!」


「腹をすかせた精霊か?」


 農夫たちが笑う。


 床下で二号も笑いかけ、俺に口を塞がれた。


 村人たちは、またパンを一切れ置いた。


 今度は、修理してほしい壊れた柄を隣へ添えて。


「注文が来たぞ」


 チュウタが嬉しそうに言う。


「交換成立だ」


 俺の触角が立った。


 食料を恵んでもらうだけではない。


 俺たちの小ささと六本脚が、人間の暮らしに値段を持った。


 それは、巨大なパンよりずっと大きな戦利品だった。


 村人が去ったあと、一人だけ井戸小屋に残った老人がいた。


 灰色の髪を後ろで束ね、腰には薬草の袋をいくつも下げている。


 老人は直った桶をなぞった。


 蜘蛛糸の結び目を見る。


 床へ膝をつき、ルビーが消しきれなかった小さな足跡を見た。


「精霊、ねえ」


 低い声だった。


 疑っている。


 だが、司祭ヴァルガのような嫌な匂いはしない。


 老人は懐から浅い木皿を出した。


 猫用より小さい。


 鳥用よりも浅い。


 そこへ新しい水を注ぎ、壁際の暗がりへ置いた。


 罠もない。


 粘着薬の匂いもない。


 ただ、水だけだ。


「この修理をした者へ。井戸の中央は、人の靴が多い」


 老人は床下へ聞かせるように言った。


「飲むなら、ここで飲め。わしはオルド。薬草師だ」


 俺たちは暗がりで顔を見合わせた。


 二号の口が開く。


 俺とチュウタとルビーが、三方向から同時に塞いだ。


「むぐぐぐっ!」


 まだ返事はできない。


 それでも、水皿に映った朝の光が、昨日より少し近く見えた。

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