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勇者とゴキブリ、井戸の夜勤

「その桶、静かに下ろせ!」


「静かにやってる!」


「人間の静かと、ゴキブリの静かは違う!」


「じゃあ先に決めてよ!」


 真夜中の井戸小屋。


 リリアが新しい縄を滑車へかけ、巨大な木桶を持ち上げていた。


 ぎいっ。


 滑車が一度鳴るたび、屋根梁から木屑が落ちる。


 俺の背中へ一粒。


 人間なら気づかない大きさだ。


 俺には小石である。


「痛っ! 今の音で天井が降ってきたぞ!」


「木屑一つでしょう!」


「俺の頭と同じくらいある!」


「大げさ!」


「こっちの世界が大きすぎるんだ!」


 井戸縄を切ってから、半日。


 村人たちは南井戸の濁り水を煮沸し、どうにか一日をしのいだ。


 リリアが北井戸の水を検査し、処理薬と白い粉の混入を村長へ報告した。


 教団は「勇者の勘違い」と言い張っている。


 なら、勘違いではない水を明日の朝までに作る。


 毒を減らし、目に見える結果を置く。


 そのための夜勤だ。


「よし。作戦名を発表します!」


 二号が桶の縁へ立った。


「《夜の精霊、きらきら井戸大改造――》」


「却下!」


「最後まで聞いて!」


「長い!」


「まだ前半です!」


「もっと駄目だ!」


 リリアが桶を止める。


「《井戸の夜勤》でいいんじゃない?」


 二号の触角が垂れた。


「勇者なのに夢がない……」


「井戸修理へ夢を求めないで!」


「じゃあ短縮案。《夜勤・きらきら》」


「半分残った!」


「半分は妥協案です」


「妥協するところ、そこじゃない!」


「二号、諦めろ。今日はリリアが正しい」


「今日は?」


 リリアが聞き返す。


「桶を落とすな!」


「話を逸らした!」


     ◇


 今夜の隊は四匹と一人。


 俺。


 チュウタ。


 二号。


 赤組のシン。


 そしてリリア。


 ルビーは殺虫薬を吸い、地上拠点で休んでいる。


 本人は来ると怒鳴った。


 俺とガーロで濡れ布へ包み、赤風巣の幼体十五匹に押さえてもらった。


 十五対一なら、さすがのルビーも動けない。


「帰ったら絶対に怒られる」


 シンが言う。


「俺一匹に怒りを集める。お前は逃げろ」


「格好つけてるけど、大将が言い出したんでしょう」


「だからだよ!」


 材料は、浄化苔十二枚。


 発酵菌床の小袋。


 蜘蛛糸。


 遮断粘土。


 浄化苔は、クロニアの七番農園で育てたものだ。


 水の毒性魔素を吸い、緑から紫へ色を変える。


 毒を吸いすぎれば黒くなるので、交換時期まで人間にも分かる。


 それを井戸壁の北管出口へ貼る。


「リリアは桶を支える。俺たちは壁へ行く」


「私も下りた方が早くない?」


「井戸の中へ人間一人入ったら、作業場所が全部お前になる!」


「私、そんなに大きくないよ!」


「俺の千倍くらいある!」


「そこまでは――」


「足だけで家だぞ!」


 リリアが自分の靴を見る。


「……身体の大きさって、不便だね」


「お前が言うな! こっちは雨に殴られるんだぞ!」


「でも桶を動かせる」


「俺たちは壁の穴へ入れる」


「なら分担」


 リリアが縄を握る。


「落とさないから、行って」


 怖くないわけではない。


 人間の手一本が、俺たち全員の命綱を握っている。


 少し力を抜けば、桶ごと井戸の底だ。


 昨日までなら、絶対に乗らなかった。


 今も六本脚の三本くらいは乗りたくないと言っている。


 残り三本で桶の縁へ進む。


「信じるぞ」


「うん」


 縄がゆっくり動いた。


     ◇


 井戸の内壁は、濡れた崖だった。


 石の隙間から冷たい水が染み出し、苔がぬるりと光っている。


 桶が下がるにつれ、空気が冷える。


 頭上の月は、小さな銀の丸へ遠ざかった。


「北管、あれや」


 チュウタが鼻を動かす。


 石壁の途中に、人間の指二本ほどの穴がある。


 そこから白い水が細く流れていた。


 俺たちなら並んで入れる。


 リリアには指先すら入らない。


「桶を止めろ!」


 縄が止まる。


 俺は石壁へ飛び移った。


 六本脚を広げる。


 右前脚。


 左前脚。


 中脚を石のざらつきへ。


 後ろ脚で腹を持ち上げる。


 水滴が触角を打つ。


 ばちっ!


「痛っ!」


「大将、雨より小さいで」


「井戸の中でまで空から殴られるとは思わなかった!」


 二号とシンも壁へ渡る。


 チュウタだけは桶へ残った。


「俺も行く」


「壁、走れる?」


「走れへん」


「では桶の監督!」


「格好悪い役名つけるな!」


「重量安定責任者」


 ジロならそう言うと俺が答える。


 チュウタの胸が少し張った。


「それならええ」


「名前だけで納得した!」


 北管穴へ入る。


 白い水が腹の下を流れる。


 濡れ布と粘土で呼吸孔を守っていても、処理薬の匂いが刺さる。


「設置場所、三か所!」


 入口。


 曲がり角。


 井戸へ落ちる直前。


 三重に浄化苔を置けば、毒も白い粉も段階的に減らせる。


 一枚目を石壁へ押しつける。


 ぺたっ。


 手を離す。


 べろん。


 苔が俺の顔へ貼りついた。


「失敗!」


 二号が楽しそうに言う。


「見れば分かる!」


 水流が強く、遮断粘土だけでは貼りつかない。


 二枚目。


 蜘蛛糸で四隅を留める。


 水を受けた瞬間、中央が膨らんだ。


 ばふっ!


 苔が風船のように裏返り、二号とシンを包む。


「暗い!」


「誰の脚です!?」


「俺の触角を踏むな!」


「全部、同じ色で分かりません!」


「匂いで分かれ!」


「薬臭くて分かりません!」


 俺は苔を引き剥がした。


 三匹が白い水へ転がる。


「二回目、失敗!」


 二号がまた言う。


「喜ぶな!」


「三回目で成功する流れです!」


「勝手に物語を決めるな!」


 だが三回目を考える。


 水を正面から受けるから剥がれる。


 なら流れに逆らわず、斜めへ置く。


 人間の屋根瓦と同じだ。


 上端だけを糸で留め、下端は自由にする。


 苔を二枚重ね、間へ発酵菌床を薄く挟む。


「二号、上端! シンは水を右へ!」


「了解!」


 風が水筋を一瞬だけ曲げる。


 俺は六本脚で粘土栓を押し込む。


 前脚二本で苔。


 中脚二本で蜘蛛糸。


 後ろ脚二本で身体を固定。


「今の俺、六本全部働いてるぞ!」


「自慢は後!」


「今まで半分休んでたんですか!」


「違う! 同じ仕事を分担してた!」


「分担って便利な言葉ですね」


「便利じゃない、事実だ!」


「事実って言い張る時ほど怪しいです」


「疑うな、今は信じろ!」


 水筋を戻す。


 苔の上から下へ、白い水が流れた。


 緑が紫へ変わる。


 でも剥がれない。


「成功!」


「三回目!」


 二号が触角を上げる。


「本当に三回目になった!」


     ◇


 一段目。


 二段目。


 三段目。


 管の奥へ進むほど、俺の腹へ伝わる振動が強くなる。


 操作塔の炉心が、十一拍ごとに水を引いている。


 五拍。


 六拍。


 吸い込み。


「伏せろ!」


 ごおっ!


 水が管の奥へ逆流する。


 薄い身体を石へ貼りつける。


 人間なら通れない隙間。


 ゴキブリなら耐えられる高さ。


 でも流れまで小さくなるわけではない。


 翅が持ち上がり、身体が後ろへ引かれる。


「薄い身体、便利だけど水には弱すぎる!」


「文句は十一拍後に!」


 シンが風で俺の翅を押さえる。


 最後の苔を設置する。


 毒水が三枚を通る。


 白。


 薄紫。


 最後には、透明に近い色へ変わった。


「できた!」


 井戸の底から、チュウタの声が上がる。


「大将、急げ! 上に何か来た!」


 何か。


 その言い方で、だいたい嫌なものだと分かる。


 俺たちは管から飛び出し、桶へ戻った。


 頭上。


 月を隠す二つの光。


 猫の目だった。


「またお前かあああ!」


 鈴のついた巨大猫が、井戸の縁からこちらを覗いている。


 前脚が縄へ伸びた。


 ちょい。


 桶が大きく揺れる。


「リリア、猫!」


「見えてる!」


「追い払え!」


「縄を両手で持ってるの!」


「片手で!」


「あなたたち四匹と桶の重さがある!」


「勇者だろ!」


「勇者を便利な持ち手だと思わないで!」


 猫がもう一度、縄を叩く。


 ばしんっ!


 滑車が跳ねた。


 縄が手の中を滑る。


 桶が落ちる。


「うわあああ!」


 井戸壁が上へ流れる。


 水面が迫る。


 リリアが縄を片腕へ巻きつけ、聖剣を床へ突き立てた。


「止まってえええ!」


 ぎちいいいいっ!


 縄が張る。


 井戸小屋の梁が軋む。


 木桶は水面の直前で止まった。


 衝撃で俺たち四匹が宙へ飛ぶ。


「壁!」


 俺と二号とシンは井戸壁へ着地する。


 チュウタだけが水面へ落ちる。


「俺、壁走れへえええん!」


 俺は蜘蛛糸を投げた。


 チュウタの尻尾へ巻きつく。


 ずぼんっ!


 身体は水へ入ったが、頭は残った。


「冷たっ!」


「重量安定責任者、安定しろ!」


「役名で泳げるか!」


 猫が井戸小屋へ入る。


 リリアは片手で縄、片手で聖剣。


 剣を振れば、古い井戸小屋まで斬れる。


「何か投げて!」


「何を!」


 俺は装備袋を探る。


 浄化苔。


 濡れ布。


 遮断粘土。


 硬焼き。


 地上と地下の共同魔法陣で、新兵器として採用された保存食。


「まさか、本当に使う日が来るとは……!」


「何でもいいから早く!」


「ガーロ、許せ!」


 硬焼きを蜘蛛糸へ結ぶ。


 二号とシンが引き絞る。


「新兵器、発射!」


 ばしゅっ!


 硬焼きが猫の鼻先を横切る。


 甘い茸味噌の匂い。


 猫の目が動く。


 前脚が硬焼きを叩き落とした。


 かりっ。


 噛む。


 猫の顔が止まった。


 ごりっ。


 もう一度噛む。


 歯が勝てない。


「効いてる!」


「食べ物として効いてへん!」


「武器なら正解だ!」


 猫は硬焼きをくわえ、外へ走った。


 遠くで、何度も噛む音がする。


「ガーロの保存食が、初めて役立った……」


「今まで食料として役立ってたやろ!」


「食べられればな!」


「不評だった食料が猫を撃退した……」


「不評と兵器は紙一重なんだな」


「その紙一重、ガーロに聞かせたら泣くで」


「泣かせるな! むしろ誇らせろ!」


     ◇


 チュウタを引き上げる。


 桶を戻す。


 浄化苔の色を確かめる。


 全部、紫で止まっている。


 黒くはない。


 まだ毒を吸える。


 リリアが新しい桶で水を一杯汲んだ。


 透明。


 白い粒は見えない。


 俺は葉皿へ一滴もらい、触角を近づける。


「処理薬の匂い、十分の一以下」


 二号も飲まずに嗅ぐ。


「苦い匂い、ほとんどないです」


 チュウタが小魚の鱗を入れる。


 白く濁っていた鱗が、少しずつ青へ戻った。


「成功だ」


 井戸そのものが直ったわけではない。


 塔から毒は流れ続けている。


 苔も交換が必要だ。


 それでも明日の水は、今日より安全だ。


 一晩で世界全部は変えられない。


 一滴なら変えられる。


 その一滴が、誰かの熱を下げる。


「帰るぞ。朝になる前に」


「待って」


 リリアが小さな木札を井戸小屋へ立てた。


『苔が黒くなったら、この井戸を使わないこと』


 絵も添える。


 緑の苔。


 紫の苔。


 黒い苔。


「これなら子どもにも分かる」


「昨日の小石より?」


「小石は持ち帰られるから」


「まだ根に持ってる!」


「俺たち四匹の一刻だぞ!」


 リリアが笑った。


「その子、きれいだから持って帰ったんでしょう。贈り物だと思ったんだよ」


「毒の警告を、贈り物に……」


「悪い誤解ばかりじゃないってこと」


 そうかもしれない。


 まだ納得はしない。


 半分だけにしておく。


     ◇


 翌朝。


 俺たちは床下から、村人たちの反応を見ていた。


 リリアが井戸水を検査する。


 村長が自分で匂いを嗅ぐ。


 熱病の子へは、煮沸した水を少しずつ飲ませた。


「昨日より、澄んでる」


「勇者様が直したのか?」


 リリアは首を横へ振った。


「私は桶を持っていただけ。小さな職人たちが、夜通し働いたの」


 村人たちが周囲を見る。


 床には、乾いた泥の上を走った小さな足跡。


 井戸壁には、交換しやすいよう並べた紫の苔。


 昨日の男の子が、白い小石を三つ持ってきた。


 三角に並べる。


 中央へ、パンを一欠片置いた。


「夜の精霊さんへ」


 別の女が小皿の水を置く。


 老婆は、猫へやった魚の代わりだと言って干し魚を置いた。


 供え物が一つ、二つと増える。


「俺たち、精霊になったのか?」


 二号の触角が震える。


「名乗っていいですか!?」


「駄目だ!」


「《夜の精霊カサカサ二号》!」


「もう名乗ってる!」


「大将、パン!」


 チュウタの目は供え物へ釘づけだ。


 人間の一欠片。


 クロニアなら、食堂全員へ配れる量だ。


「今取ったら見つかる!」


「夜まで待つん?」


「待つ!」


「パン、乾くで」


「保存食よりは柔らかい!」


「比べる相手が悪い!」


 床下で、四匹の腹が同時に鳴った。


 ごろろろろっ。


 男の子が床へ耳を近づける。


「精霊さん、お腹すいてるの?」


 俺たちは息を止めた。


 二号だけが、小声で答えた。


「ものすごく」


「喋るなあああ!」

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