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殺虫薬の霧

殺虫薬の霧が、俺の触角へ触れた。


 ぞわっ。


 頭で危険だと考えるより先に、六本脚が勝手に走り出す。


「待て、俺の脚! 仲間を置いていくな!」


 前脚は右へ。


 中脚は床下へ。


 後ろ脚はとにかく遠くへ。


 全員が別の逃げ道を選び、俺の身体がその場で一回転した。


 べしゃっ!


「何してるんですか、大将!」


 二号が俺を引き起こす。


「本能と隊長判断が喧嘩した!」


「どっちが勝ったんです?」


「転んだから両方負けた!」


「引き分けって珍しいですね」


「珍しいことを今数えてる場合か!」


「記録係の性です!」


「性より命を優先しろ!」


 灰緑色の粉が井戸小屋の床へ降る。


 甘い。


 油っぽい。


 その奥に、舌の根をしびれさせる苦い匂い。


 目では一色の霧でも、俺の触角には三つの層で飛び込んでくる。


「油花、石灰、それと眠り茨!」


「全部あかんやつや!」


 チュウタが鼻を前脚で押さえる。


「油花は身体へ貼りつく! 石灰は呼吸孔を焼く! 眠り茨は動きを止める!」


「大将、説明してる間に全部来てます!」


「分かってる!」


 人間には、床へ薄く撒いた駆除薬だ。


 俺たちには、三種類の毒を混ぜた大嵐である。


 こんなものを食事の近くへ撒くな!


 井戸を守るどころか、周りごと毒にしてどうする!


「床下路へ戻る!」


 俺たちは割れ目へ走った。


 白い法衣の男が、革袋の残りを割れ目へ流し込む。


 ぱさあっ!


「先回りされた!」


 帰り道へ灰緑の滝が落ちる。


 床下へ逃げれば、狭い穴の中で全量を浴びる。


「上や!」


 チュウタが叫んだ。


「天井の梁まで行く!」


「お前、壁を走れないだろ!」


「そこを今から考えるんや!」


「俺の悪いところを覚えるな!」


     ◇


 霧は床から上へ積もっていく。


 人間の足首にも届かない高さ。


 俺たちの頭上はもう灰緑だ。


 残っているのは、井戸の石壁と屋根梁へ続く縦の道だけ。


「黒組は壁!」


 俺と二号が石壁へ爪をかける。


「赤組は飛ぶ!」


 ルビーが翅を開く。


「ネズミ組は?」


 チュウタが聞く。


「……気合い!」


「それ、役割ちゃう!」


 蜘蛛糸をチュウタの腹へ巻く。


 俺と二号で引き上げる。


 五センチの俺二匹に、若いネズミ一匹。


 重い。


「チュウタ、最近太ったか!?」


「筋肉や!」


「茸味噌の匂いがする筋肉なんてあるか!」


「昨日二杯食べただけや!」


「二杯の重みが俺の中脚へ全部来てる!」


 石の継ぎ目を一つ上る。


 二つ。


 チュウタの尻尾が霧へ触れた。


「熱っ!」


 石灰が湿った毛へ貼りつき、白い煙を出す。


「尻尾を上げろ!」


「上げてる!」


「もっと!」


「これ以上は背中につく!」


「なら二号、尻尾を持て!」


「俺、前で糸を引いてます!」


「脚六本あるだろ!」


「大将が一番、六本を使いこなせてないでしょう!」


「今それを言うな!」


 俺は前脚で石をつかみ、中脚で糸を引き、後ろ脚の一本でチュウタの尻尾を持ち上げた。


 残りの後ろ脚が滑る。


「うわっ!」


 三匹まとめて半歩落ちた。


 霧が腹を撫でる。


 ぴりっ。


 呼吸孔の一つが焼けた。


 息をするたび、腹の横へ細い針が刺さる。


 ゴキブリに肺はない。


 口で息を止めることもできない。


 腹に並ぶ穴から、毒の空気が勝手に入ってくる。


「息を止めたいのに、止め方がないって何だよ……!」


 前脚で呼吸孔を塞ごうとする。


 一つ押さえれば、別の穴が動く。


「身体の仕組み、今だけ人間へ戻せ!」


「戻ったら壁から落ちます!」


「じゃあゴキブリのままでいい!」


「評価が早い!」


 濡れ布を腹へ巻く。


 昨日まで雨へ文句を言っていたのに、今は湿り気が命を守る。


 この身体は、好きになったと思えば次の日に嫌いになる。


 嫌いだと叫べば、すぐ助けられる。


 感情が忙しすぎる!


「ルビー、先に梁へ!」


 俺は上を見た。


 返事がない。


「ルビー?」


 赤い影は、まだ床近くにいた。


 翅を広げ、風を下向きへ送り続けている。


 霧が俺たちへ追いつかないよう、一匹で押し返していた。


「何してる! 上がれ!」


「チュウタを先に!」


「お前も来い!」


「私が風を止めたら、全員飲まれる!」


 ルビーの声がかすれる。


 翅の付け根へ、油花の粉が貼りついていた。


 飛べる者が、飛ばずに残っている。


 まただ。


 仲間はどうして、格好いいことを黙ってやる!


「二号、チュウタを任せる!」


「大将!」


「昨日、勝手にいなくならないって約束した! だから今から言う! 俺はルビーを連れて戻る!」


「説明が短い!」


「長く喋ったら毒を吸う!」


「それはそう!」


 俺は壁を下へ走った。


 本能は上へ逃げろと叫んでいる。


 六本脚が何度も反対を向こうとする。


「言うことを聞け! 俺の身体だろ!」


 一歩ずつ、逃げたい脚を前へ出す。


 霧の中へ飛び込んだ。


     ◇


 匂いが濃い。


 右の触角は油花で重くなり、左しか動かない。


 片方の世界が消えたように距離感が歪む。


 床の振動だけを頼りに進む。


 ルビーの翅。


 弱くなる風。


 その横へ、別の足音が近づいていた。


 人間だ。


 白い法衣の男が小屋へ戻ってくる。


「まだ動く虫がいるな」


 革袋をもう一つ開く。


「どれだけ持ってるんだよ!」


 俺はルビーの下へ滑り込む。


 赤い身体を背へ載せる。


「クロ……置いて」


「聞こえない!」


「近いでしょう!」


「都合の悪い言葉だけ聞こえない耳を手に入れた!」


「耳、どこにあるのよ!」


「俺も知らない!」


 男の手が動く。


 袋が傾く。


 もう一度、灰緑の霧が来る。


 その前に、井戸小屋の扉が外から蹴り開けられた。


 ずがあんっ!


 木戸が壁へぶつかり、蝶番の錆が俺の腹まで震わせる。


「何をしてるの!」


 リリアだ。


 白い法衣の男が振り返る。


「害虫駆除です、勇者様」


「井戸の中で薬を撒いたら、飲み水へ入るでしょう!」


「浄火教団の薬は清められています」


「なら、あなたが飲んで」


「は?」


「清いんでしょう? 今ここで一袋、水へ溶かして飲める?」


 男の手が止まった。


 リリアは答えを待たない。


 聖剣を抜く。


 白い光が床と壁の境へ走った。


 斬らない。


 光の膜が井戸小屋を一周し、霧を村人側から切り離す。


「クロ! どこ!」


「ここだ! 床の中央、ルビーが倒れてる!」


 リリアの顔が一瞬引きつる。


 霧の中で喋るゴキブリを探すという、勇者人生でもあまり経験したくない仕事だろう。


「見えない!」


「俺だってお前の顔しか見えない!」


「合図して!」


「雷を出したら薬へ火がつく!」


「じゃあ声!」


「こっち! こっちこっち! もう少し右! お前の右! 行きすぎ! 靴が近い近い近い!」


「注文が多い!」


「踏まれる側の身にもなれ!」


 巨大な靴底が、俺の身体一つ分横で止まった。


 心臓はないはずなのに、腹の中で何かが破裂しそうになる。


 リリアが腰袋から透明な薬瓶を出した。


 中身を自分の手へ空ける。


「瓶を逆さにする! 離れて!」


「俺たちを閉じ込める気か!?」


「清い空気ごと守るの!」


「最初にそう言え!」


 瓶の口が空から降りてくる。


 人間には小瓶。


 俺たちには、透明な塔だ。


「ルビーだけ入れろ! 弱ってる!」


「クロは?」


「まだ動ける!」


「また一人で――」


「違う! 二号とチュウタが上にいる。霧を全部出さないと、帰れない!」


 一瞬。


 リリアが俺を見る。


 昨日の約束を確かめる目だ。


「分かった。ルビーを任せて」


「頼む!」


 二匹で赤い身体を瓶の下へ入れる。


 リリアが濡れた青葉を一枚差し込み、瓶を伏せた。


 とんっ。


 透明な壁が霧を遮る。


 瓶の中へ、青葉が蓄えていた清い空気が満ちる。


 ルビーの腹が、少し大きく動いた。


「一匹、確保!」


「虫を捕まえたみたいに言うな!」


「実際、瓶へ――ごめん!」


「今は許す!」


     ◇


 残った霧を外へ出せば、村人が吸う。


 床下へ落とせば、二本目の道が使えなくなる。


 井戸へ落とせば、毒水がもっと毒になる。


「薬を固める!」


 俺は井戸小屋の隅を見る。


 水瓶が二つ。


 縄の修理用に持ち込まれた粘土袋。


 床下には、チュウタが掘った排水路。


「リリア、あの水瓶を倒せ!」


「井戸水だけど!」


「飲むんじゃない! 床を濡らす!」


「毒水で薬を洗うの?」


「毒と毒を混ぜるんじゃない! 粉を飛ばなくするだけだ! 後で全部回収する!」


「説明が長い!」


「さっき短いって怒っただろ!」


 リリアが水瓶を傾ける。


 どばあっ!


 人間の一杯が、床下へ押し寄せる洪水になる。


「多い多い多い!」


「倒せって言ったのクロでしょう!」


「少しずつのつもりだった!」


「人間の少しを先に決めて!」


 毒水が灰緑の粉を濡らす。


 霧が重くなり、床へ落ちた。


「チュウタ! 排水!」


 梁から返事。


「今行く!」


 二号が蜘蛛糸を緩め、チュウタを床へ下ろす。


 ネズミ族の前脚が、床板の隙間へ入る。


 土魔法。


 ごごごごっ!


 井戸小屋の外側、教団の男が立っていた場所とは反対へ、細い溝が開く。


「粘土!」


 リリアが袋を裂く。


 俺と二号が泥を混ぜる。


 六本脚で踏む。


 混ぜる。


 また踏む。


「薬入り泥団子、完成!」


 二号が叫ぶ。


「絶対に食べるなよ!」


「見た目、茸味噌に似てます!」


「二度と言うな! 町の茸味噌まで食えなくなる!」


 ルビーが瓶の中から弱い声を出した。


「風……使える」


「寝てろ!」


「あと一押し。溝へ送る」


「無茶するな!」


「大将にだけは――」


「今日、それ二回目!」


 瓶の口をほんの少し開ける。


 ルビーの風が、床すれすれを走った。


 強くない。


 だが泥になった薬は、もう空へ舞わない。


 丸い塊が一つずつ排水溝へ転がる。


 チュウタが外側から土壁を押し、濡れた穴へ封じる。


「最後!」


 俺は最も大きな泥塊を後ろ脚で蹴った。


 重い。


 動かない。


「このっ……村を守る薬だって言うなら、自分から井戸を汚すな!」


 二号が横へ並ぶ。


 チュウタの尻尾が溝から伸びる。


 リリアは聖剣の腹で床を傾ける。


「せえの!」


 四つの力が重なる。


 ずるっ。


 泥塊が溝へ落ちた。


 どすんっ!


 床下を震わせ、湿った封印穴へ収まる。


 チュウタが土を閉じた。


 井戸小屋から、灰緑の匂いが消えていく。


「全員いるか!」


「チュウタ!」


「おる!」


「二号!」


「います!」


「ルビー!」


 瓶の中で、赤い触角が上がる。


「クロ!」


 リリアが言った。


「ここだ!」


「全員いる!」


 俺はその場へ腹をつけた。


 助かった。


 井戸縄を切ったせいで殺されかけた。


 それでも毒水は止まり、殺虫薬も井戸へ入れずに済んだ。


「最悪の朝だ……!」


「でも全員、生きてる」


 リリアが言う。


「なら、少しだけいい朝だ」


「どっち?」


「最悪寄りの、いい朝!」


「分かりにくい!」


「勇者の言葉って、もっと分かりやすいと思ってた」


「私も、ゴキブリの説教がここまで長いとは思わなかった」


「説教じゃない、分類だ!」


「分類にしては愚痴が多い」


「愚痴と分類は表裏一体なんだよ!」


     ◇


 白い法衣の男は、リリアの光壁の外で顔をしかめていた。


「勇者様。その瓶を、お渡しください」


 ルビーの入った瓶だ。


「何のために?」


「病を運ぶ害虫です。焼却します」


 リリアの指が、瓶の前へ立った。


「これは私が調べる」


「教団の管轄です」


「王国勇者の調査権限より上?」


 男が黙る。


 リリアは笑っていない。


 さっきまで俺と水の量で怒鳴り合っていた顔とは違う。


 魔王を倒した勇者の顔だ。


「井戸の周りへ二度と薬を撒かないで。次に見つけたら、薬も袋も塔へ持ち帰って、司祭ヴァルガへ私が直接説明する」


 男は一歩下がった。


「……承知しました」


 村人たちの目が集まっている。


 教団の男は、それ以上逆らえない。


 リリアは瓶を両手で持ち上げた。


 内側へ小さな治癒光を落とす。


 ルビーの赤い甲殻が、金色に光った。


「どう?」


「助かった」


 ルビーの声は小さい。


「ありがとう、リリア」


「こちらこそ。風、助かったよ」


「今度は瓶に入れないでね」


「善処する」


「善処、信用できない返事の代表よ」


「人間界にもそんな言葉あるのか!」


 その会話は、村人には聞こえなかった。


 ただ一人。


 昨日、白い小石を拾った男の子が、井戸小屋の窓から覗いていた。


 金色に光る瓶。


 中で動く赤い小さな影。


 勇者が大事そうに抱えている。


 男の子の目が丸くなった。


「夜の精霊だ……」


 その声だけが、俺の触角へはっきり届いた。

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