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毒の井戸と嫌われ者

井戸の水を嗅いだ瞬間、触角が逃げた。


 俺の意思より先に、左右へ大きく反り返った。


「臭っ!」


「声でかい!」


 チュウタが俺の口へ尻尾を押しつける。


「むぐっ! 尻尾も臭い!」


「井戸水ついたんや!」


「じゃあやっぱり水が臭い!」


「二人とも静かに!」


 ルビーが風を細く巻き、俺たちの声を井戸小屋の床下へ閉じ込めた。


 頭上では、人間の足音が行き来している。


 どすん。


 どすん。


 人間には普通の朝支度。


 五センチの俺には、天井ごと落ちてきそうな地響きだ。


 二本目の地上路は、ラナ村の井戸小屋、その床板の割れ目へ開いていた。


 昨日までは大成功だった。


 安全な道が増えた。


 村を観察できる。


 クロニアまで土振動を送れる。


 喜んだ。


 ものすごく喜んだ。


 その出口の真上が毒の井戸でした、なんて誰が予想する!


「地上は、道一本開けるたび問題が増えるのか!?」


「退屈せんでええやん」


「俺は一日くらい退屈したい!」


「大将、退屈したら自分で穴へ入るでしょう」


 二号が言う。


「否定できない自分が嫌だ!」


「退屈な大将、見たことないです」


「俺だって退屈したい時くらいある!」


「想像できません」


「想像力を鍛えろ!」


     ◇


 井戸の水面は、俺たちから見れば地下湖より遠い。


 円い石壁が、暗闇の底へ続いている。


 朝の光が細い帯になって落ち、その中を白い粒が舞っていた。


 白い粉だ。


 完全焼却へ向け、操作塔が北井戸まで回収管へつなげた。


 その影響がもう出ている。


「魚、上げるで」


 チュウタが蜘蛛糸を引く。


 昨夜、水面近くの排水溝で見つけた小魚だ。


 鱗は白く濁り、腹を上にして動かない。


 ルビーが触角で匂いを確かめる。


「北管の処理薬。それに白い粉。量は少ないけど、毎日飲んだら弱い者から倒れる」


「村の熱病と同じ」


 二号が言った。


「リリアは?」


「フィアの家で熱を出した子を診てる。昨日、井戸を使うなって村長へ頼んだけど、南の井戸は豪雨で濁ったそうよ」


「飲める水が、ここしかないのか」


 昼まで待てない。


 もう頭上で、桶を引く音がする。


 ぎいっ。


 ぎいっ。


 縄が滑車をこすり、井戸の底へ下りていく。


「止めるぞ」


「姿を見せる?」


 二号が聞く。


 床板の隙間から、人間の足が見える。


 女が二人。


 大きな水瓶。


 その後ろには、木の杖を持った男。


「見せない」


 俺は答えた。


「リリアは話を聞いた。フィアも人形を返した俺たちを見てくれた。でも村全体は違う。いきなり朝の井戸からゴキブリが出てきて『毒です』なんて言ったら?」


「悲鳴」


「靴」


「殺虫薬」


 三匹が順に答える。


「正解したくない問題、全員正解!」


 悔しい。


 俺たちには毒が分かる。


 小さな魚が死んだことも分かる。


 北管の振動だって追える。


 なのに、姿を見せた瞬間、伝えたい中身より「ゴキブリだ」が先に来る。


 前脚が床の木屑を掻いた。


「なら、姿を見せずに分からせる」


「どうやって?」


「見れば分かる警告を作る!」


     ◇


 第一案。


 白い小石で、井戸の前へ大きな印を作る。


 人間の村には、毒物へ三角の札を置く決まりがあるとリリアから聞いた。


「三角なら分かる!」


「一辺、どのくらい?」


 ルビーが聞く。


 俺は人間の目から見える大きさを考えた。


「俺の身体、三つ分」


「小さない?」


「では五つ分!」


「大将の大きさを単位にするんですね」


 二号が小石を並べる。


「一クロ、二クロ、三クロ……」


「変な単位を定着させるな!」


「もう一クロ、二クロで数えてます」


「今すぐ忘れろ!」


「忘れるにはもう定着しすぎました」


「定着させたのお前だろ!」


 小石は一粒でも俺の頭ほどある。


 チュウタが運び、俺と二号が位置を直し、ルビーの風で土を払う。


 朝日が井戸小屋へ入るまでに、白い三角が完成した。


 中央へ、黒い泥で波線を三本。


 どう見ても危険印だ。


「完璧!」


「人間、来ます!」


 俺たちは床下へ隠れた。


 入ってきたのは、フィアより少し小さな男の子だった。


 三角印を見つける。


「気づいた!」


 俺は声を押し殺した。


 男の子はしゃがみ、小石を一粒拾う。


「きれい!」


「そっち!?」


 白い小石を全部、ポケットへ入れた。


 黒い波線は靴で踏み消す。


 警告、消滅。


「一刻かけたのに!」


「子どもへの贈り物になりましたね」


「善行としても小さすぎる!」


     ◇


 第二案。


 死んだ魚を井戸の前へ置く。


「これは分かる。魚が死んでる。水が危険。これ以上ないほど分かりやすい!」


 チュウタが魚の尾をくわえ、井戸小屋の中央へ引く。


 俺と二号が腹側から押す。


 小魚でも、俺たち三匹分の重さがある。


「右!」


「そっち左!」


「魚から見た右です!」


「死んだ魚の視点を入れるな!」


 ようやく縄の前へ置く。


 魚の腹には、井戸水を含ませた白い布。


 その横に、もう一度小石の三角。


「今度こそ!」


 入ってきたのは、籠を持った老婆だった。


 魚を見つける。


 鼻を近づける。


「おや。猫が魚を置いていったねえ」


「猫の贈り物になった!」


 老婆は魚を籠へ入れた。


「待て! 食うな! それは食うな!」


 飛び出しかけた俺を、三匹がかりで止める。


「大将、姿!」


「でも魚を持っていく!」


「家で捨てるかもしれない!」


「焼いて食ったらどうする!」


「毒魚の料理法まで心配してる場合ちゃう!」


 老婆は小屋の外で魚を野良猫へ投げた。


 猫が匂いを嗅ぎ、食べずに去る。


「猫には伝わった!」


「人間より先に!」


「喜べるか!」


     ◇


 第三案。


 文字を書く。


「最初からこれでよかったんじゃ?」


 二号が言う。


「人間の字は一画が長いんだ! 『毒』なんて何本あると思ってる!」


「四本くらい?」


「もっとある!」


「大将、知ってるん?」


「この世界の字は勉強中だ!」


「あかんやん!」


 ルビーが、リリアから借りた紙片を広げる。


 大きく『この水を飲むな』と書いてある。


「これを置けば終わりじゃない?」


「最初から持ってたの!?」


「さっき届いた。リリアが子どもの治療中に書いたって」


「俺たちの一刻を返せ!」


「でも紙をそのまま置いたら、教団が回収するわ」


 ルビーの言葉で止まる。


 井戸小屋の外には、白い法衣の見張りがいる。


 ヴァルガが北井戸を炉心へつなぐよう命じた以上、異変を隠すはずだ。


「なら、同じ文を地面へ書く。消してもまた書く」


 紙を見ながら、四匹で土を削る。


 一画だけで俺の身体二つ分。


 前脚で掘る。


 後ろ脚で土を蹴る。


 チュウタが太い線を掘り、ルビーが粉を払う。


 二号が読み上げる。


「こ、の、み、ず、を――」


 人間の足音。


「隠れろ!」


 半分まで書いたところで、教団の男が入ってきた。


 地面を見る。


「また子どもの悪戯か」


 箒で土を均す。


 ざあっ。


 俺たちの文字は、一振りで消えた。


「半刻!」


 俺は床下で触角を振り回した。


「俺たち四匹の半刻が、一秒!」


「人間、強いなあ」


「感心するな!」


 教団の男は、水を汲みに来た女へ言う。


「勇者様は井戸を疑っておられるが、浄火教団が毎朝清めている。安心して使いなさい」


「でも、熱が出た子が増えてるって」


「雨で身体が冷えただけだ。火の加護を信じなさい」


 桶が井戸へ下りる。


 ぎいっ。


 ぎいっ。


 もう警告を作り直す時間はない。


 目の前で、毒水が持ち帰られる。


 それを飲むのは、誰だ。


 あの小石を拾った男の子かもしれない。


 魚を猫へやった老婆かもしれない。


 フィアかもしれない。


「縄を切る」


 俺は言った。


「大将?」


「伝わらないなら、汲めなくする」


「井戸縄、人間の腕くらいあるで」


「知ってる!」


「切ったら、村人は困る」


 ルビーが俺を見る。


「困らせる」


 俺は床を掻く前脚を止めた。


「熱で寝込むより、今日の水がなくて怒る方がいい。嫌われるなら、元から慣れてる!」


 慣れてなんかいない。


 人間の足音が近づくだけで、腹が縮む。


 ゴキブリと叫ばれれば、今でも自分が汚れになった気がする。


 薬草を返しても、人形を直しても、一目で嫌われる身体だ。


 腹が立つ。


 悔しい。


 それでも、毒だと分かって見逃すよりはましだ。


「切るぞ」


 今度は、全員がうなずいた。


     ◇


 井戸縄は、麻を何十本も束ねて作られていた。


 一本一本が、俺の脚より太い。


 チュウタが前歯で噛む。


 ぎりっ。


「硬っ!」


「保存食とどっちが硬い?」


 二号が聞く。


「硬焼き」


「うちの食料、縄より強いの!?」


「誇れ、大将」


「何を!?」


「食堂の実力です」


「実力の方向が間違ってる! 硬さで自慢するな!」


「柔らかさより長持ちします」


「長持ちしすぎて誰も食べ切れない!」


 ルビーが風で縄をねじる。


 俺と二号は、蜘蛛糸へ濡れた砂を塗り、麻の隙間へ回した。


「引け!」


 四匹で交互に引く。


 ぎり、ぎり、ぎりっ。


 砂が麻を削る。


 一周。


 二周。


 表面がようやく毛羽立った。


「これ、日が暮れるで!」


「日が暮れる前に水を汲まれる!」


 頭上で女が滑車を回す。


 桶が水を満たし、上がってくる。


 縄が張った。


 ぶんっ!


「うわっ!」


 俺たちは縄ごと宙へ持ち上げられた。


 人間の手が滑車を回すたび、巨大な麻の壁が上へ走る。


「止めろ!」


「人間に言うても止まらん!」


「俺たちが止まるんだ!」


 六本脚で縄へしがみつく。


 爪が麻の繊維へ食い込む。


 身体が逆さになる。


 井戸の暗い口が真下へ開いた。


 落ちたら、水面まで真っ逆さまだ。


「ゴキブリって壁は走れても、空中の縄は専門外だぞ!」


「今、専門にしてください!」


「無茶を言うな!」


 ルビーが翅を開き、縄の回転を風で遅らせる。


 チュウタが身体を振り、歯を傷へ食い込ませた。


 二号が砂糸を切断部へ巻き直す。


「大将、雷!」


「濡れた縄だぞ! 全員へ流れる!」


「麻の中だけ! できるでしょう!」


「簡単に言うなあああ!」


 俺は前脚二本を傷へ入れた。


 中脚でチュウタと二号を押さえる。


 後ろ脚で縄へしがみつく。


 六本全部に、違う重さがかかる。


 触角を麻の奥へ差し込む。


 水の多い繊維。


 乾いた繊維。


 人間なら一つの縄でも、俺には一本ずつ匂いと湿り気が違う。


「乾いた三本へ流す!」


 ぱちっ!


 青い火花が麻の内側を走る。


 焦げた匂い。


 繊維が縮む。


 チュウタが噛む。


 ルビーがねじる。


 二号が砂糸を引く。


 ぶちっ!


 一本切れた。


「あと七本!」


「多い!」


 桶が井戸口へ近づく。


 女の声がする。


「今日の水は少し白いね」


「教団が清めた証だよ」


「違う!」


 俺は思わず叫んだ。


 人間には届かない。


 悔しさで、触角を縄へ叩きつける。


「違うって言ってるだろ! それは清めた色じゃない! お前たちを弱らせる色だ!」


「大将、三本まとめて来ます!」


「流せ!」


 雷。


 前歯。


 風。


 砂糸。


 切れた繊維の端を、俺たち全員で引く。


 ぶち、ぶちぶちっ!


 縄が半分裂ける。


 桶の重みが残りへ集中する。


 ぎちいいっ!


 麻が悲鳴を上げた。


「離れろ!」


 四匹が同時に跳ぶ。


 ぶつんっ!


 井戸縄が切れた。


 桶が毒水ごと落ちる。


 どぼおおんっ!


 水柱が井戸の石壁へぶつかり、冷たい飛沫が俺たちの腹まで届いた。


 切れた縄は滑車を越え、床へ蛇のように落ちる。


「きゃあっ!」


「縄が!」


「誰か村長を呼んで!」


 村人たちが騒ぎ出す。


 俺たちは床板の割れ目へ転がり込んだ。


「全員いるか!」


「おる!」


「います!」


「赤組一匹!」


 成功だ。


 今日はもう、誰もこの井戸から水を汲めない。


 俺は仰向けになり、六本脚を上げた。


「勝った……!」


「井戸縄に?」


「人間の生活道具、だいたい魔物より強いんだよ!」


     ◇


 村長と教団の見張りが来た。


 切れた縄を調べる。


「刃物ではない」


「鼠か?」


「この焦げ跡。虫魔法かもしれません」


 白い法衣の男が床へ膝をつく。


 割れ目の近く。


 俺たちの脚跡を見つけた。


「害虫だ」


 腹が冷える。


「井戸を汚した害虫が、縄まで食い切った」


「違う!」


 また叫びそうになり、自分で口を押さえた。


 違う。


 井戸を汚したのは、そっちだ。


 俺たちは止めた。


 でも村人から見れば、残っているのは縄の焦げ跡と小さな脚跡だけだ。


「駆除しろ」


 教団の男が、小さな革袋を取り出す。


 口を開く。


 甘く、油っぽく、喉の奥を刺す匂いが流れた。


 知っている。


 ルビーの仲間を倒し、呼吸孔を焼いた薬だ。


「全員、伏せろ!」


 袋から灰緑色の粉が撒かれた。


 ぱさああっ。


 朝の光の中で、殺虫薬の霧が井戸小屋いっぱいに広がった。

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