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帰るか、残るか

「全員、地下へ帰るぞ!」


 操作塔から脱出して、最初に俺が出した命令である。


「嫌だ」


 ルビーが、最初の一秒で却下した。


「……今、大将命令を出したよな?」


「聞こえたわ。だから嫌だって言ったの」


「もう少し悩め! せめて三秒くらい、隊長の立場を尊重しろ!」


「一秒で駄目な命令だと分かったものを、三秒温めたら良くなるの?」


「ならないけど! 俺の心が少し守られる!」


「心のための三秒待ちって、制度にしていい?」


「制度にするな! その場しのぎの願望だ!」


「願望は制度の始まりです」


 二号が謎に真剣な顔で言う。


「今それ、格言みたいに言うな!」


 雨上がりの倒木前。


 俺たち十三匹は、灰まみれの身体を水滴で洗っていた。


 葉の先に溜まった水を一滴ずつ落とし、前脚で触角をしごき、翅の間へ入った灰を掻き出す。


 ゴキブリになってから知った。


 身体が汚れているのは、見た目の問題ではない。


 触角の感度が鈍る。


 脚の爪が滑る。


 腹の横に並ぶ呼吸孔が詰まる。


 つまり、命に関わる。


 俺は右の触角を四回しごき、まだ残っていた灰へ腹を立て、もう一度しごいた。


「何で取れないんだよ! ヴァルガより先に、この一粒を倒したい!」


「大将、触角ごと抜けますよ」


 二号が止める。


「放せ! こいつ、三回も水をかけたのに居座ってる!」


「大将に似たんちゃう?」


 チュウタが笑う。


「俺は汚れか!?」


「しぶとさの話や」


「先にそう言え!」


「先に言ったら大将、三日は落ち込みます」


「三日も引きずるほど繊細じゃない!」


「一昨日、二号の物真似に一日拗ねてましたよね」


「あれは物真似の出来が悪かったからだ!」


「出来はよかったです」


「よかったから拗ねたんだよ!」


 笑い声が上がる。


 でも、ルビーだけは笑わなかった。


 赤い翅を一度強く振り、水を飛ばす。


「私は帰らない。赤風巣がここにある。塔もここにある。三十日後に焼かれる場所を見つけて、はい帰りますって、できるわけないでしょう」


「ここへ残ったら、お前も焼かれる!」


「地下へ帰っても、管でつながってるなら同じよ!」


「同じじゃない! クロニアには菌盾がある。遮断鉱もある。先生とピコがいれば対策を――」


「私の幼体たちは?」


 声が刺さった。


 ルビーの後ろ。


 修理中の赤風巣で、助けた十五匹が青葉を運んでいる。


「あの子たちを置いて、私だけ安全な地下へ逃げろって?」


「違う。全員連れて――」


「赤風巣は百匹以上いる。雨で道も崩れた。三十日分の食料を持って、幼体も傷病者も全員、知らない地下へ?」


「それは……」


 言葉が詰まる。


 俺の中では決まっていた。


 仲間を守る。


 だから帰る。


 簡単で、正しくて、反対される理由なんてないと思っていた。


 だが「仲間を守る」の仲間に、誰の顔を入れた?


 クロニアの住民。


 ここにいる遠征隊。


 それだけだ。


 ルビーが守りたい仲間を、俺は荷物みたいに後から動かせばいいと考えていた。


 前脚が泥を掻く。


 悔しい。


 反論できないのが悔しいんじゃない。


 守ると言いながら、見えていない顔があったのが悔しい。


「……悪かった」


 俺は頭を下げた。


「命令、撤回する」


「早いわね」


「間違ってると分かった命令を三秒温めても良くならないんだろ!」


「そこ、根に持ってたの?」


「俺の心はまだ守られてない!」


 今度はルビーも笑った。


     ◇


「全員の考えを聞く」


 俺は泥の上へ、二枚の葉を置いた。


 右が地上。


 左が地下。


「残りたい奴は右。帰りたい奴は左。まだ分からない奴は真ん中」


「大将は?」


 ガーロが聞く。


「俺は最後だ。先に立ったら、みんなが寄せてくるかもしれない」


 隊長が希望を言ってはいけないわけではない。


 でも今の俺は、全員を連れて帰りたい気持ちが顔どころか触角の先まで出ている。


 少しくらい引っ込めないと、聞く前から答えを曲げる。


「では、私から」


 ジロが左の葉へ乗った。


「地下へ戻ります」


「怖いから?」


 二号が聞く。


「怖いです」


 ジロはいつもの無表情で答えた。


「計算できない規模の火は嫌いです。残存食料、避難路、菌盾の厚みを確認したい。地下にいる家族へ、自分の口で危険を伝えたい」


 言い切ったあと、尻尾の先だけが震えた。


 怖いと言っていい。


 帰りたいと言っていい。


 誰も笑わなかった。


「俺も地下や」


 チュウタが左へ移る。


「妹らがおる。あいつら、大将がおらんと勝手に大将代理を名乗るからな」


「そんな理由!?」


「半分はな」


 チュウタが俺を見る。


「もう半分は、穴を掘るためや。地上と地下、一本の道しかなかったら、逃げるにも攻めるにも詰まる。三十日で三本に増やす」


「第一条」


「逃げ道を三つ持て、やろ?」


 尻尾が俺の背中を軽く叩いた。


「今度は入る前に作っとこ」


「……そうだな」


 二号は右へ行き、左へ行き、また真ん中へ戻った。


「床が減る!」


「迷ってるんです!」


「葉は減らない!」


「気分です!」


 二号は触角を左右へ倒す。


「地下へ帰りたい。茸蜜も飲みたい。ピコに命令書を見せたい。けど地上にも残りたい。人間声を出せるの、今のところ俺と大将だけやし。リリアさん、俺の鶏声、気に入ってましたし」


「気に入ってない!」


 少し離れて見ていたリリアが即答した。


「ほら、返事してくれた!」


「嫌がられてるんだ!」


「というわけで、真ん中です」


「結論を放棄するな!」


「両方したいんです!」


 その一言に、俺は口を閉じた。


 両方。


 帰るか、残るか。


 二つから選ばなければならないと、誰が決めた?


 俺だ。


 また俺だ!


「二号。今だけは、お前の優柔不断が偉い」


「褒め方!」


「今だけって言うな! いつも偉いことにしろ!」


「毎回偉かったら基準が崩れる!」


「基準なんて俺が決めればいいんです!」


「決める側になるな!」


     ◇


 黒組のミナ、トワ、クルは地下へ戻ると決めた。


「菌盾を増やす」


「幼体の防粉布もいる」


「地上用と地下用、同じ形では駄目」


 三匹はもう、帰った後の仕事を相談している。


 赤組は全員が地上へ残る。


 赤風巣と操作塔の監視。


 村へ入る薬の流量確認。


 リリアとの連絡。


「俺も地上だ」


 ガーロが右の葉へ乗った。


「お前は地下へ戻れ」


 俺は即座に言った。


「聞くんじゃなかったのか?」


「聞いた上で反対だ! 片翅で、毒傷も治りきってない!」


「片翅だから地上だ。赤組の風を借りれば動ける。地下の狭い管で百匹を指揮するなら、両翅の若い奴の方が速い」


「でも――」


「大将」


 ガーロが俺の触角をつかんだ。


「俺は守られるために、お前の仲間になったんじゃない」


 低い声だった。


「一緒に守れると思ったから、大将と呼んだ」


 何も言えない。


 また正しい。


 今日は仲間が正しいことばかり言う。


 隊長の立つ場所がどんどん狭くなる。


 いや。


 違う。


 俺一匹が立っていた場所へ、みんなが並んできたのだ。


 その方が広い。


「無茶はするな」


「大将にだけは言われたくない」


「俺を基準にするな。世界の安全基準が壊れる!」


「自覚はあるんですね」


 二号が感心する。


「あるから毎回反省してる! 次の危険が来ると忘れるだけだ!」


「反省と学習は別の器官にあるんだよ」


「ゴキブリに器官がいくつあるんです?」


「知らない! でも別々に決まってる!」


「適当すぎる生物学!」


「反省の意味!」


     ◇


 リリアは、二枚の葉の前へしゃがんだ。


「私は村に残る」


「王国最強の勇者が、俺たちの会議へ参加していいのか?」


「もう参加してるでしょう。あなたたちを葉に載せて、塔へ運んで、灰まみれで帰ってくるのを待った。ここから無関係な顔をする方が難しいよ」


「それは、そうだけど」


「塔を斬れば早い。でも管の中の薬が地下へ流れる。ヴァルガを捕らえても、教団全員が敵なら設備は止まらない」


 リリアが複写した命令書を見る。


「だから村で証拠を集める。熱病の子を治して、井戸を調べて、人間側から塔の正しさを崩す」


「俺たちを信じるのか?」


「まだ全部は」


 はっきり言われた。


 少し傷つく。


「薬草を返した。幼体を助けた。危険を知らせに戻った。そこまでは信じる」


「十分だ」


「それに」


 リリアが首をかしげる。


「クロ、前世の父に少し似てるから」


 六本脚が固まった。


「ど、どこが?」


「心配すると、先に全部決めちゃうところ」


「うっ」


「自分が決めれば、みんなを守れると思ってる。でも説明が足りなくて、あとで母さんに怒られてた」


「ううっ!」


「大将、聖剣より効いてるで」


 チュウタが笑う。


「父親の威厳を想像で傷つけるな!」


「想像?」


「一般論だ! 世の父親全体の威厳を守った!」


 危ない。


 何が危ないのか、自分でもまだ分からない。


 でも、あの笑い方と、母さんという呼び方が、腹の奥にしまった何かを強く叩く。


 リリアは俺の様子を不思議そうに見たが、それ以上は聞かなかった。


「父は、最後に私を守って死んだ」


 青い瞳が少しだけ遠くなる。


「だから言えなかった。守るなら、ちゃんと話して。一人で決めて、一人でいなくならないでって」


 声が出なかった。


 俺はリリアの父親ではない。


 違う。


 そう決められる証拠はない。


 なのに、謝りたい気持ちだけが先に出てくる。


「……分かった」


 やっと、それだけ言った。


「今回は話す。聞く。勝手にいなくならない」


「約束ね、クロ隊長」


「隊長って呼ぶのか?」


「みんな呼んでるから」


「大将と隊長、二つになった!」


 二号が喜ぶ。


「肩書きが増えても身体は大きくならないぞ!」


     ◇


 地上隊と地下隊を決めた。


 地下隊はチュウタ、ジロ、ミナ、トワ、クル。


 命令書、弁の鍵型、停止手順をクロニアへ届ける。


 先生とピコを中心に菌盾を強化し、地上へつながる退路を三本作る。


 地上隊は俺、ガーロ、二号、ルビー、赤組三匹。


 操作塔を見張り、北井戸を調べ、リリアと人間側の証拠を集める。


 二号は最後まで両方へ行きたがったので、地下へ声を送る通信役として真ん中を与えた。


「地上にいるのに真ん中?」


「お前が言い出したんだろ!」


「響きが格好悪い!」


「では《二世界を結ぶ音の勇者》」


 ジロが無表情で言う。


 二号の触角が立った。


「それです!」


「おだてるな! 三日うるさくなる!」


「七日は歌えます!」


「増えた!」


 出発前、ガーロが硬焼き袋を開けた。


 豪雨から命懸けで守った保存食だ。


 一枚を十三片へ割る。


 リリアとフィアには、人間大の青い実を渡した。


 リリアは俺たちの硬焼きも気になったらしく、爪の先ほどの欠片を口へ入れた。


 ごりっ。


 勇者の顔が止まる。


「……これ、食べ物?」


「保存食だ!」


「歯へ攻撃してきたんだけど」


「食料が逃げないだけ感謝しろ!」


「基準が地下迷宮すぎるよ!」


 聖剣で魔物を一撃にする女が、硬焼き一欠片を水で必死に流し込んだ。


 ガーロが誇らしげに胸を張る。


「豪雨にも耐えた」


「雨を吸わなかったんじゃなくて、水が勝てなかったんだ……」


 その評価は、たぶん正しい。


「別れるのに宴会?」


 リリアが聞く。


「違う」


 俺は硬焼きをかじる。


 硬い。


 雨を吸って、外は柔らかいのに中心だけ石みたいだ。


 歯が折れそうになる。


「出発式だ。別れるんじゃない。道を二本に増やすだけだ」


「格好いいこと言いました!」


 二号が叫ぶ。


「硬くて噛めないから、口を動かさず言える台詞を考えた!」


「台無し!」


 みんなで笑った。


 地上に残る者。


 地下へ帰る者。


 選んだ場所は違う。


 守りたいものも、怖いものも少しずつ違う。


 それでも同じ硬焼きを分け、三十日後の朝を一緒に迎えるために動く。


「全員、帰ってこい」


 俺は言った。


「命令?」


 ルビーが聞く。


「お願いだ」


「なら、聞いてあげる」


 触角を重ねる。


 チュウタたち地下隊が、倒木の三番路へ入っていく。


 その背中が見えなくなるまで、俺は見送った。


「大将」


 隣で、ガーロが小さく呼んだ。


「何だ?」


「一つ、黙っていた」


 ガーロが古い毒傷へ触れる。


 片翅の付け根。


 黒い甲殻のひびから、白い粉が一粒、浮き出した。


 俺の腹が冷えた。


 粉は二粒、三粒と増え、ガーロの背中を白く染め始めた。

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