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司祭ヴァルガの正義

赤い針が、俺たちの町へ向かって動き始めた。


 ぎ……ぎぎぎぎっ。


 歯車の奥で鎖が巻かれ、操作塔全体が低く唸る。


 床の振動が六本脚を上り、腹の奥まで突き刺さった。


『完全焼却準備』


 金属板へ、赤い古代文字が浮かぶ。


「止めろ!」


 叫びかけた俺の口を、ガーロが前脚で塞いだ。


「むぐっ!」


「大将。声がでかい」


「町が焼かれるんだぞ!」


 小声で怒鳴るという、器用なのか情けないのか分からない技が出た。


 俺たちは机の上、巻物の陰。


 目の前には司祭ヴァルガと白衣の兵が五人。


 床までの高さは、俺の身体なら崖だ。


 ここで飛び出したところで、赤い針へ届く前に踏まれる。


 分かっている。


 分かっているけど、触角が勝手に針の方へ伸びる。


 地下には、二号と同じくらいうるさい奴が何十匹もいる。


 チュウタの妹たちがいる。


 ピコがいる。


 先生が、また自分の頭蓋骨を椅子に使うなと怒っているはずだ。


 食堂も、畑も、くだらない名前をつけられた俺の家もある。


 それを、今ここで、見ているだけ――。


「大将」


 二号が俺の触角を握った。


「まだ焼けてへん」


 今度はふざけた声ではなかった。


「止めるなら、何が動いたか見んと。また大将だけ突っ込んだら、俺ら何しに来たんです?」


 言い返せなかった。


 悔しい。


 正しいことを言われたのも悔しい。


 俺は机を前脚で一度掻き、赤い針から目を離した。


「……見る。全部見て、持って帰る」


「はい」


「でも次に口を塞ぐ時は、もう少し優しくしろ。触角が鼻に入った」


「鼻、ないでしょう」


「気分の話だ!」


     ◇


 赤い針は、円盤の三分の一で止まった。


 塔の唸りも弱くなる。


「何だ」


 ヴァルガが問う。


 操作兵が三本の計器を確認した。


「炉心充填、足りません。長雨で回収管の魔力が低下しています」


「完全焼却まで、何日だ」


「現在の供給量なら、最短で三十日」


 三十日。


 長い。


 いや、短い。


 町を守るには短すぎる。


 でも今すぐではない。


 俺の六本脚から、一斉に力が抜けた。


 危うく巻物の陰から転がり出そうになり、チュウタの尻尾へしがみつく。


「助かった……!」


「尻尾、離してくれへん?」


「今だけ貸せ!」


「握り方が必死すぎて怖いわ!」


「必死なんだよ! 命がかかってる!」


「命がかかってない時も同じ握り方や」


「それは性格だ!」


 チュウタも震えている。


 俺だけではない。


 全員が怖かった。


 全員が、三十日という細い足場へどうにか乗ったのだ。


「では三十日後、夜明けと同時に実行する」


 ヴァルガは迷わず言った。


「供給量を倍へ。村の北井戸も回収管へつなげ」


「お待ちください」


 一人の若い神官が前へ出た。


 白い法衣は大きすぎ、袖が手を半分隠している。


「北井戸は村の飲み水です。回収へ回せば、また熱病が」


「処理薬を増やせ」


「その処理薬が、熱病の原因ではないかという報告が――」


「セラ」


 ヴァルガは怒鳴らなかった。


 ただ名前を呼んだ。


 それだけで、若い神官セラの肩が跳ねる。


「噂と、教団の記録。どちらを信じる」


「……記録です」


「この塔は三百年、地上を病から守ってきた。地下で増える虫と瘴気を焼き、清い水を人へ戻してきた。数人の発熱で止めれば、次に何人が死ぬ?」


「でも、あの村には子どもも」


「だからこそだ」


 声は優しい。


 優しいまま、退く道を塞いでいく。


 セラは唇を噛んだ。


 その時、彼女の身体がぐらりと揺れた。


 ヴァルガがすぐ腕を伸ばす。


「まだ熱があるのか」


「平気です」


「平気な者は、そんな顔をしない」


 ヴァルガは自分の水筒を渡し、椅子へ座らせた。


 懐から青月草の薬を出す。


「飲め。今日の巡回は外れろ」


「命令に逆らった私を、気遣うのですか」


「意見を言うことと、命を粗末にすることは別だ」


 俺の触角が止まった。


 何だ、こいつ。


 地下の全員を焼くと決めた口で、目の前の一人には薬を渡す。


 分からない。


 分かりたくもない。


 分からないまま敵だと決めた方が、ずっと楽だ。


 だが、俺たちは人間を一人ずつ見ると決めた。


 都合の悪いところだけ目を閉じたら、あの約束が安っぽくなる。


 俺はヴァルガの手を見る。


 薬を渡した指には、古い火傷の跡があった。


     ◇


「ヴァルガ様」


 セラは薬を飲んでも、まだ立ち去らなかった。


「どうして、そこまで虫を焼くのですか」


 兵たちの顔が固まる。


 聞いてはいけないことらしい。


 ヴァルガだけは怒らなかった。


 胸元から、小さな銀の飾りを取り出す。


 開くと、中に色褪せた絵があった。


 父親。


 母親。


 男の子。


 もっと小さな女の子。


「私が九つの年、灰熱病が町へ来た」


 ヴァルガの親指が、絵の女の子をなぞる。


「最初は妹だった。少し咳をした。次の日に母が熱を出し、三日目には父が立てなくなった」


 塔の歯車だけが回る。


 ごうん。


 がちり。


「役人は待てと言った。医師は薬が届くと言った。教会は祈れと言った。私は全部信じた」


 銀の飾りを閉じる。


「何も届かなかった」


 声は平らだった。


 だから余計に、奥へ押し込めたものが見えた。


「家の食料箱から、黒い虫が何十匹も出た。寝床の下にもいた。灰熱病を運ぶ虫だと、大人たちは言った」


 俺の脚が、床へ貼りついた。


 黒い虫。


 それが本当に病を運んだのか。


 たまたま同じ家にいただけなのか。


 今となっては確かめられない。


 九歳の子どもには、もっと確かめられなかった。


「家族を運び出した夜、私は家へ火を放った。虫も、寝床も、服も、思い出も、全部焼いた」


 火傷の指を握る。


「翌朝、隣家の発病は止まった」


 セラが息を呑む。


「それから私は学んだ。病は、待った者から奪う。迷った者から奪う。火だけが、間に合った」


「でも、地下にいる者がすべて病を運ぶとは」


「区別している間に広がる」


「言葉を話す者もいます」


 窓の外へ、セラが視線を向ける。


 赤風巣の方だ。


 ヴァルガの顔から、温度が消えた。


「言葉を真似る魔物はいる」


「幼体を助けたと、見張りが」


「群れを守る獣もいる」


「勇者様が、そばに立っています」


「勇者も欺かれる」


 何を出しても、答えが返る。


 答えではない。


 最初から決まった結論を守るための壁だ。


 家族を失った九歳の少年が、その壁の内側で今も火を握っている。


 怖いから焼く。


 焼くことを正しいと信じなければ、あの夜に自分で家へ火を放ったことまで崩れてしまう。


「あいつ、ずっと怖いんだ」


 俺は呟いた。


「怖い?」


 ルビーが聞く。


「俺たちが。病が。また間に合わなくなるのが」


「だから私たちを焼いていいの?」


「よくない」


 そこだけは、迷わない。


「事情が分かった。やらせない。それだけだ」


「助けるんですか、あの人も」


 二号が聞いた。


「先に町を守る。話はその後だ。殴る必要があれば、リリアに頼む」


「自分で殴らないんです?」


「俺の前脚で人間を殴ってみろ。たぶん向こうが気づかない!」


 想像して腹が立った。


 こっちは決死の一撃なのに、「今、風が吹いた?」で終わる。


 身体の差、理不尽すぎるだろ!


「靴の中へ石を入れたら?」


 チュウタが提案する。


「陰湿!」


「効くで」


「効くけど!」


 ルビーの肩が少し揺れた。


 笑ったらしい。


 怒りで固まっていた仲間の脚が、また動き始める。


     ◇


 ヴァルガは兵へ命じた。


「三十日後、夜明け。鐘を三度鳴らし、全管を炉心へ接続する」


「村への告知は?」


「浄化祭の祈祷と伝えろ。地下のことを知れば混乱する」


「命令書を作成します」


 書記が新しい紙を机へ置く。


 日付。


 接続する管。


 北井戸。


 炉心。


 完全焼却。


 最後にヴァルガが白い蝋を落とし、教団印を押した。


 俺たちが欲しいものが、目の前で完成した。


「あれを写す」


 俺は言った。


「今!?」


 二号が声を裏返す。


「今しかない!」


「人間六人いますよ!」


「数えなくても見えてる!」


「大将、また一段目だけで走ろうとしてるで」


 チュウタが尻尾で俺を止めた。


「なら二段目を出せ!」


「出すん、こっちなん?」


「相棒だろ!」


「便利な時だけ言うな!」


 ジロが机の端を調べる。


「雨水の排出溝が、このインク壺の下を通っています」


 ルビーが天井の通気口へ触角を向けた。


「上から風を入れれば、水を逆流させられる」


 二号が腹を押さえる。


「猫声は、あと一回が限界です」


「誰が猫をやれと言った!」


「流れ的に!」


「今度は鳥だ」


「結局、物まね!」


 作戦は決まった。


 名前は決めなかった。


 二号が口を開きかけたので、全員で塞いだ。


     ◇


 チュウタが机の脚を下り、床板の排水穴へ潜る。


 ルビーは巻物の上から、通気口へ細い風を送る。


 俺と二号とミナは、蜘蛛糸をつけた複写紙を運ぶ。


「せえの」


 二号が腹を震わせた。


「ばさばさばさっ!」


 濡れた鳥が窓へぶつかったような音が響く。


 兵たちが窓を向いた。


「何だ?」


「外を見ろ」


 その一拍で、チュウタが排水穴の泥栓を抜いた。


 ぼこっ。


 雨水が机の脚を逆流し、インク壺の底を押す。


 ぐらり。


 インク壺が倒れた。


「命令書を!」


 書記が紙を持ち上げる。


 ルビーの風が、もう一押し。


 命令書が書記の指から離れた。


 ばさあっ!


 人間には紙一枚。


 俺たちには、天井が飛んでくる。


「重いっ!」


 紙の端が俺の背中へ落ちた。


 腹が机へ押しつけられる。


 呼吸孔が塞がる。


「大将!」


 二号とミナが左右から紙を持ち上げる。


「今のうちに写せ!」


「大将が潰れてます!」


「薄い身体を信じろ!」


「昨日、天気次第って言ってましたよ!」


「今日は紙の日だ!」


 複写紙を命令書へ押しつける。


 日付が写る。


 管の番号が写る。


 最後に、白い蝋印。


「取れた!」


 ガーロが蜘蛛糸を引く。


 俺たちは複写紙ごと巻物の陰へ滑り込んだ。


 書記が命令書を拾う。


「インクは?」


「端だけです。文字は読めます」


「窓を閉めろ。雨風が強い」


 成功。


 俺は腹を擦った。


 紙一枚に潰されかける英雄。


 肩書きとしては、あまりに弱い。


 でも、その薄さで三十日の命令を奪った。


 なら今日は、これでいい。


「帰るぞ」


「どうやって?」


 全員が黙った。


 第一条。


 逃げ道を三つ持て。


 現在、ゼロ。


「……今から作る!」


「また二段階や!」


     ◇


 帰り道は、灰捨て管だった。


 炉の掃除が終わるたび、焼けた灰を塔の外へ吐き出す管。


 問題は一つ。


 今、俺たちがその灰受け皿に乗っていることだ。


 問題を一つと言ったが、十分すぎる。


「熱い!」


「煙い!」


「呼吸孔に灰が入る!」


「苦情は一匹一つまで!」


「大将が三つ言うたで!」


 黒い身体へ灰が貼りつく。


 人間の頃なら、ゴキブリは汚れを気にしないと思っていた。


 大間違いだ。


 気になる。


 ものすごく気になる。


 触角の根元へ粉が一粒あるだけで、世界の半分が歪んだみたいに落ち着かない。


 今すぐ前脚でしごきたい。


 翅も磨きたい。


 腹の横も全部きれいにしたい。


 だが今動けば、灰受け皿から落ちる。


「あとで全員、身体洗いだ!」


「風呂ですか!」


 二号が喜ぶ。


「水滴で拭く!」


「規模が小さい!」


「文句を言う前に灰を落とせ!」


「灰のままの方が変装になりません?」


「灰まみれの巨大な塊が十三個も歩いてたら、変装より事件だ!」


 上で鐘が鳴った。


 かあん……。


 灰受け皿が傾く。


「しがみつけ!」


 がこんっ!


 熱い灰と十三匹が、暗い管へ放り出された。


「うわあああああ!」


 壁へぶつかる。


 曲がる。


 落ちる。


 六本脚では何もつかめない。


 触角が前後へひっくり返る。


 管の先に、雨上がりの光が見えた。


 ぼふんっ!


 灰の雲が、塔の裏へ噴き出した。


 俺たちは柔らかい泥へ次々と落ちる。


「全員いるか!」


「おる!」


「います!」


「赤組四匹!」


「ネズミ組三匹!」


「黒組六匹!」


 十三匹。


 証拠もある。


 誰も置いていない。


「よっしゃあああ!」


 俺は泥の中で六本脚を上げた。


 そのまま背中から沈んだ。


「締まらへんなあ」


「うるさい! 誰か起こせ!」


 草むらから白い光が来た。


 リリアが俺たちを見つけ、駆け寄ってくる。


「クロ! みんな! 無事――」


 灰まみれの十三匹を見て、足が止まった。


「……ゴキブリが増えた?」


「全員、最初からいた!」


「灰で同じ色になって、どの子が誰か」


「俺は分かる!」


 匂いも、歩き方も、触角の曲がり方も違う。


 一匹ずつ、全部違う仲間だ。


「それより、これを見ろ」


 複写紙を広げる。


 リリアの顔から笑いが消えた。


「完全焼却……?」


「三十日後の夜明けだ」


 塔の窓に、ヴァルガの影が立っている。


 こちらには気づいていない。


 俺は泥から起き上がり、曲がった触角を前脚で伸ばした。


「三十日ある」


 短い。


 怖い。


 腹が冷えるほど、怖い。


 それでも、ゼロではない。


「俺たちの町を焼くには、三十日じゃ足りなかったって思わせてやる」

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