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豪雨の巣を守れ

最初の一滴が、俺の背中へ落ちた。


 ばちんっ!


「痛っ!」


 雨粒だ。


 ただの水だ。


 人間なら頬に当たって終わる。


 だが今の俺には、空から落ちてくる透明な岩である。


 薄い翅が背中へ貼りつき、六本脚がまとめて土へ沈んだ。


「雨って、殴るものだったのかよ!」


「大将、次くるで!」


 チュウタの声と同時に、空が割れた。


 ざああああああああっ!


 草の一本一本から滝が落ちる。


 乾いていた土が一息で黒い泥へ変わり、俺の腹の下へ流れ込んだ。


「全員、倒木へ!」


 叫んだ声が雨音に潰される。


 ルビーが風を巻き、声を十三匹へ押し届けた。


「倒木へ退避! 急げ!」


 俺たちは走った。


 いや、走ろうとした。


 前脚を出す。


 滑る。


 中脚で支える。


 沈む。


 後ろ脚で蹴る。


 雨粒に殴られて二歩戻る。


「六本もあるのに、一歩も進まない!」


「脚の数への期待が重すぎます!」


 二号が葉の下から叫ぶ。


 その葉も水の重みで傾いた。


「あ」


 どばあっ!


「二号おおお!」


 二号が葉から流れ落ちる。


 ガーロが前脚で触角をつかみ、クルとトワが腹を押さえた。


 三匹まとめて泥を滑る。


「止まれ!」


「止まってます!」


「止まってこれなんです!」


「じゃあ止まる前は何だったんだ!」


「もっとひどい状態です!」


「今より酷いのがあったのか!?」


「聞かない方が幸せです!」


 倒木の入口が見えた。


 菌布の屋根。


 石垣。


 雨水を外へ逃がすはずの溝。


 昨日、猫にも箒にも人工豪雨にも耐えた、自慢の地上拠点だ。


 その入口から、泥水が勢いよく中へ入っていた。


「雨漏りしてる!」


 リリアが上から言った。


「今それを言うなって言っただろ!」


「屋根じゃなくて床からだけど!」


「もっと悪い!」


「褒めるところ、探してくれてもいいのに」


 二号がぼやく。


「今探す余裕がどこにある!」


「余裕がない時ほど褒め言葉、大事です」


「余裕がない時は褒めるより逃げろ!」


     ◇


 倒木の寝室は、完成から一日で水槽になった。


 埋めた瓶倉庫は浮き上がり、菌布の寝床が水面を漂っている。


 ガーロの保存食袋が入口へ流れてきた。


「俺の硬焼き!」


「そこか!?」


「命の次に大事だ!」


「命との間に仲間を入れろ!」


「仲間は流されへん! 硬焼きは流される! 優先順位は正しい!」


「理屈は通ってるけど納得できない!」


 俺は保存食袋を蹴り、二号へ渡した。


「三番路を開けろ! 瓶倉庫の栓は?」


「クルが閉めた!」


「寝室は捨てますか?」


 ジロが聞く。


 外では雨がさらに強くなる。


 直す時間はない。


 だが、全部捨てる必要もない。


「屋根を壁にする!」


「屋根を?」


「菌布を外せ! 入口の泥を止める!」


 トワとクルが留め糸を切る。


 屋根が落ちた。


 ずぶ濡れの俺たちの頭へ。


 ばさっ!


「見えない!」


「大将、俺の上に乗ってる!」


「誰の触角だ、これ!」


「引っ張る方向が逆です!」


 暗闇で十三匹が絡まった。


 何という見事な指揮だ。


 自分で言い出して、自分が一番邪魔になっている。


「一回、全員止まれ!」


 俺は腹を布へつけた。


 雨の振動。


 泥の流れ。


 仲間の脚。


 触角では混ざる音も、腹からなら重さの違いで分かる。


「チュウタ、左端を土へ埋めろ! ルビーは右から風! 二号は真ん中で拍を出せ!」


「一、二、引く! 一、二、引く!」


 二号の声に合わせ、全員が同じ方向へ動く。


 菌布が広がる。


 チュウタたちネズミ族が左端を泥へ押し込み、俺たちゴキブリ隊が狭い入口の隙間へ布を詰める。


 ルビーの風が右端を持ち上げ、流れを外へ向けた。


 水の向きが変わる。


 ごおっ!


 入口へ入っていた泥水が、石垣の横へ流れた。


「止まった!」


「まだだ! 出口を作らないと、外で溜まって一気に来る!」


 俺は浮いてきた瓶倉庫へ飛び乗る。


 瓶の首が雨樋に見えた。


「葉を集めろ! 細い方を重ねて、瓶の首へつなぐ!」


「葉っぱで水路を作るんか?」


「そうだ。上から来るなら、落ちる前に横へ逃がす!」


 ミナと二号が葉を運ぶ。


 俺とガーロが蜘蛛糸でつなぐ。


 一枚目。


 水が葉の端から全部こぼれた。


「失敗!」


 二枚目。


 葉が水の重みで裏返った。


「失敗!」


 三枚目。


 太い葉脈を下にし、細い先を次の葉の上へ重ねる。


 水が一枚目から二枚目、三枚目へ走った。


 瓶の首を抜け、倒木の裏側へ吐き出される。


「成功!」


「雨樋一号、開通です!」


「一号は縁起が悪い。雨樋三号にしろ!」


「失敗を数に入れるんですね!」


「入れないと同じ失敗をする!」


「なら一号と二号の霊、成仏させます」


「霊にするな! まだ葉っぱだ!」


「葉っぱでも役目を終えたら霊です」


「お前の世界観、独特すぎる!」


 俺たちは笑った。


 びしょ濡れで、泥だらけで、寝床も浮いている。


 それでも水の線が自分たちの決めた方向へ曲がると、胸の代わりに腹が熱くなった。


 自然は大きい。


 俺たちは小さい。


 小さいから、葉一枚でも立派な堤防にできる。


「クロ!」


 外からリリアが呼んだ。


「赤い子が来た!」


     ◇


 雨の幕を切り裂き、赤い影が倒木へ飛び込んだ。


 ルビーの仲間、シンだ。


 片方の触角が泥へ貼りつき、呼吸孔へ水が入っている。


「赤風巣が……崩れる!」


 シンは咳き込みながら言った。


「幼体室へ、水が!」


 自慢の寝床を振り返る。


 水は止まった。


 全員で直せば、ここは持つ。


「ガーロ、地上拠点を任せる!」


「お前は?」


「赤風巣へ行く!」


「やっぱり危ないものを拾いに行くやん」


 チュウタが笑う。


「今度は巣ごとだ!」


「拾い物、大きくなったなあ!」


「チュウタ、来い!」


「もちろんや!」


 黒組六匹。


 ネズミ組三匹。


 ルビーたち赤組四匹。


 残りは拠点の排水を続ける。


 俺たちが雨へ出ようとすると、巨大な銀色の板が頭上へ差し出された。


 リリアの聖剣だ。


 刃の腹で雨を受け、倒木から草むらまで細い屋根を作っている。


「乗って」


 リリアがしゃがんだ。


 差し出された左手には、大きな青葉が載っている。


「村の近くで崩れた巣なら、私が運ぶ」


 俺の六本脚が止まった。


 人間の手。


 指一本で俺を潰せる。


 しかもさっき、その本人が俺を潰そうとした。


「信用できない?」


 リリアが聞く。


「正直に言っていいか?」


「うん」


「ものすごく怖い!」


「私も!」


「なら何で手を出した!」


「時間がないから!」


 正論だった。


 嫌な正論だ。


 俺は前脚を指へかけた。


 皮膚は温かい。


 あの声と同じ、知らないのに知っている温度だった。


「変なところ、入らないでね」


「こっちにも選ぶ権利はある!」


「大将、権利あるん?」


「今だけ主張してみた!」


「通らなさそう」


「分かってて言った!」


 十三匹が青葉へ乗る。


 フィアが行き先を指し、リリアが立ち上がった。


 世界が一気に高くなる。


「高っ! 速っ! 怖っ!」


「注文が多い!」


「もう少し水平に!」


「ゴキブリを載せて走る勇者の気持ちも考えて!」


「今だけは英雄の顔をしろ!」


「英雄だって嫌なものは嫌!」


 雨の中、俺たちは怒鳴り合った。


 フィアだけが、青葉の端で楽しそうに笑っていた。


     ◇


 赤風巣は、半分が泥へ沈んでいた。


 火に強く作り直した菌布梁は残っている。


 だが、地面の下から入る水までは止められない。


「幼体室はあそこ!」


 ルビーが指す。


 細い横穴。


 入口は崩れた土で、人間の小指より狭くなっている。


 リリアが剣を抜いた。


「私が斬る!」


「待て!」


 俺は青葉から飛び降りた。


「斬った衝撃で中まで崩れる!」


「じゃあ魔法で土をどける」


「幼体も一緒に吹き飛ぶ!」


「なら、どうするの?」


「俺たちが行く」


 リリアが穴を見る。


 それから俺を見る。


「入れるの?」


「この身体の得意分野だ!」


 濡れた翅を腹へ畳む。


 触角を前へ伸ばす。


 六本脚で泥の硬さを一度ずつ確かめる。


 格好悪い。


 平たい。


 人間だった頃なら、悲鳴を上げて逃げた姿だ。


 今は、その薄さが誰かの命へ届く。


「黒組、俺の後ろ! ネズミ組は排水穴! 赤組は外から名前を呼べ!」


「了解!」


 穴へ滑り込む。


 暗い。


 冷たい。


 泥が腹へ吸いつき、後ろ脚を引くたび呼吸孔へ水が近づく。


「一号、いるか!」


「ここ!」


「二号!」


「いる!」


「三号!」


 返事がない。


 外からザハルの声が飛ぶ。


「三号はピリだ! 右の壁際で寝ていた!」


 俺は右へ触角を振る。


 雨音。


 土の崩れる音。


 その下に、爪の先ほどの震えがある。


「いた!」


 泥へ半分埋まった幼体を掘り出す。


 背へ載せる。


「ピリ、俺の触角をかじれ!」


「いいの?」


「遠慮するな!」


 がぶっ!


「痛い! 少しは遠慮しろ!」


 幼体の笑い声がした。


 泣いていた声が笑いへ変われば、まだ動ける。


 一匹ずつ運ぶ。


 ピリ。


 ナナ。


 ココ。


 赤風巣で覚えた名前を呼ぶ。


 外へ出すたび、リリアの指が幼体を雨の当たらない青葉へ移した。


 最初は震えていた手が、三匹目には静かになっている。


「残り四匹!」


 二号の救助拍が響く。


「一、二、生きてる! 一、二、帰れる!」


「その歌、また使ってるのか!」


「新曲を作る暇がありません!」


 チュウタたちが外側から排水穴を通した。


 泥水が俺たちの横を走る。


 ルビーの風が入口から新しい空気を押し込む。


 黒い身体が幼体を背負い、赤い身体が出口で受け取り、ネズミの前脚が水路を広げる。


 大きい、小さい、速い、強い。


 違う身体が、一本の道になる。


「最後!」


 俺は最も奥の幼体を抱えた。


 その瞬間、天井が鳴った。


 みしっ。


「全員、伏せろ!」


 土が落ちる。


 逃げ道が消える。


 だが外から、まっすぐな白い光が泥を貫いた。


 リリアの剣だ。


 崩すためではない。


 横穴の上へ刃を差し込み、落ちてくる土を丸ごと支えている。


「今! 走って!」


「言われなくても!」


 六本脚で泥を蹴る。


 平たい腹を地面すれすれに滑らせる。


 背中の幼体が触角へしがみつく。


 出口の光が近づく。


 二号の前脚が伸びる。


「大将!」


「引けえええ!」


 ずるんっ!


 俺と幼体が外へ飛び出した。


 直後、横穴が完全に埋まる。


「全員いるか!」


 ザハルが名前を呼ぶ。


 一匹。


 二匹。


 十五匹。


「全員いる!」


 雨音より大きな歓声が上がった。


 リリアは聖剣を土から引き抜き、その場へ尻もちをついた。


「よかった……」


 その膝の上を、助けたピリが歩く。


 リリアの顔が固まった。


「ク、クロ」


「何だ?」


「この子、私の膝に」


「助けてくれた礼だろ」


「動いてる」


「生きてるからな」


「こっちに来る!」


「英雄の顔をしろ!」


「いやあああああ!」


 勇者の悲鳴で、救助成功の歓声が全部吹き飛んだ。


     ◇


 雨は、少しずつ弱くなった。


 赤風巣の幼体は、リリアが作った光の膜の下で温められている。


 地上拠点からも、排水成功の知らせが届いた。


「失ったものは?」


 俺が聞く。


「寝室二つ、食料壺一つ」


 ザハルが答える。


「命は?」


「ゼロだ」


「なら建て直せる」


 赤と黒の触角を合わせる。


 雨に負けた。


 でも、誰も置いていかなかった。


 負け方としては、かなり上等だ。


「クロ、こっち!」


 フィアが呼んだ。


 巣の北側。


 雨で表土が流れ、今まで見えなかった石畳が現れている。


 白い石の道は、草むらの向こうにある古い塔まで続いていた。


 村から見れば、崩れかけた見張り塔。


 地下から見れば、第二浄化炉の操作塔だ。


 その根元に、扉がある。


 人間用ではない。


 俺たちが並んで通れるほどの、小さな保守扉。


 雨水に洗われた表面へ、白炎を輪で囲む紋章が浮かんでいる。


「浄火教団……」


 ルビーの声が低くなる。


 扉の隙間から、温かい風が吹いた。


 俺の触角へ、白い粉と燃える油の匂いが届く。


 そして。


 かちり。


 内側で、誰かが鍵を回した。

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