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知らない声、知っている温度

聖剣が、俺の頭上で抜かれた。


 しゃきいいんっ!


 銀の刃が太陽を反射し、草むら全体が白く光る。


「いやああああああ! ゴキブリいいいい!」


 勇者らしき女は、世界の終わりみたいな悲鳴を上げた。


「こっちの台詞だああああ!」


 俺は倒木の入口へ飛び込もうとして、後ろ脚を草糸へ引っかけた。


 べしゃっ!


「こんな時に転ぶな、俺!」


「大将、右!」


 二号の声。


「どっちの右!?」


「今はどっちでもいいから走って!」


「確かに!」


 聖剣が振り下ろされる。


 俺の六本脚へ、人間の体重移動が届いた。


 右足へ重い。


 左足が半歩前へ。


 腰が回り、刃は俺の左から来る。


「右へ!」


 今度は自分で分かった。


 かさっ!


 刃が地面へ突き刺さる。


 ずがあんっ!


 土と草が爆発し、俺の身体が空へ飛んだ。


「うわあああ!」


 薄い翅を開く。


 飛べない。


 でも、落ちる向きは変えられる。


 倒木の陰へ身体をひねる。


 どさっ!


 菌布幕へぶつかり、そのまま中へ転がった。


「閉じろ!」


 クルとトワが幕を引く。


 十三名が三番路へ散る。


 外で女の声が震えている。


「フィア、下がって! 今、今すぐ退治するから!」


「待って、リリア姉ちゃん!」


 フィアが人形を抱いて、剣の前へ回る。


「この子を返してくれたの、たぶんあの子たちだよ!」


「あの子たちって……ゴキブリを『子』で数えないで!」


「ルルーの目も直してくれた」


「それは……器用だけど! 器用なゴキブリ、もっと怖いんだけど!」


「褒められてる?」


 二号が小声で聞く。


「怖がられてる!」


 俺は倒木の隙間から、初めて女の姿を見た。


 十八歳くらい。


 淡い金色の髪を後ろで束ね、白銀の軽鎧を着ている。


 腰には聖剣。


 青い瞳。


 強い。


 姿を見ただけで分かる。


 剣を地面へ刺した一撃で、俺たちの通路より深い穴が開いた。


 魔力は日の光みたいに全身から溢れ、それでいてフィアを傷つけないよう外側へ流れている。


 あんなものに狙われたら、逃げ足自慢も一秒で終わる。


 なのに。


 俺は、その顔から目を離せなかった。


 知らない顔だ。


 娘の美羽ではない。


 髪も、目も、背丈も違う。


 当たり前だ。ここは異世界で、俺は死んでゴキブリになった。


 娘が十八歳の勇者になって草むらへ現れるなんて、あるはずがない。


 あるはずがないのに、フィアへ向けて眉を下げる角度を知っている。


 困ると左の頬を少し膨らませる癖を知っている。


「誰だ……?」


 声が勝手に漏れた。


「大将?」


 チュウタが横へ来る。


「知り合い?」


「違う。知らない。知らないはずなんだ」


「なら何で三回言うん?」


「俺にも分からない!」


 触角が女の声ばかり拾う。


 地面の振動も、風も、仲間の匂いも遠くなる。


 もう一度、声を聞きたい。


 でも聞くには近づかなければならない。


 近づけば聖剣が来る。


「ゴキブリ人生、理不尽すぎるだろ……!」


     ◇


 女――リリアは、剣を抜いたまま倒木を見ている。


「出てこない」


「怖がってるんだよ」


 フィアが言う。


「私も怖い!」


「リリア姉ちゃんの方が大きいよ」


「大きさの問題じゃないの! あの速さと、あの触角と、急に方向を変える感じが……ああ、思い出しただけで背中が!」


 王国最強らしい勇者が、自分の腕を抱えて震えている。


 こちらも震えている。


 互角だ。


 戦力は一億対一くらいだが、恐怖だけなら互角である。


「大将、今なら話せるんちゃう?」


 チュウタが言う。


「無理だ!」


「二号の人間声で?」


「また腹がかゆくなる!」


 二号が抗議する。


「でも言葉が通じれば、剣を収めるかも」


 ジロの意見。


「最初に何て言う?」


「こんにちは?」


「礼儀正しいゴキブリ、余計怖いって言ってたぞ!」


「では《敵意なし》」


「いきなり軍隊みたいだ!」


「《人形、返した》」


「自慢に聞こえる!」


「実際、返しました!」


「恩を盾にするな!」


「じゃあ《こんにちは、敵意なし、人形返した、以上》を全部言います」


「一文が長すぎて剣が三回振られる!」


「三回目までに言い切ります!」


「言い切る前にお前が斬られる!」


 俺たちが小声で揉めている間に、リリアは地面へ落とした荷物へ手を伸ばした。


 聖剣を抜いた時、肩袋が外れている。


 薬草束、水筒、小さな薬瓶。


 そのうち薬草束だけが、剣の衝撃で草むらの奥へ飛んでいた。


 風向きが変わる。


 薬草の匂いが、俺の触角へ届く。


 青月草。


 ガーロの毒を治した草と同じだ。


 だが、半分が赤黒く変色している。


「あれ、傷んでる」


 ミナが言う。


「根元に腐り。あのまま煮たら薬にならん」


「フィアの村へ持ってきた薬か?」


「たぶん熱病用や」


 チュウタが鼻を動かす。


 リリアは薬草を見つけられない。


 人間の目には、草むらの中の草束だ。


 俺たちには、一本ずつ違う匂いが分かる。


「回収する」


 俺は言った。


「大将!?」


「腐った部分を外して返す」


「聖剣の前へ?」


「病気の子に使うんだろ。人形だけ返して、薬を見捨てられるか!」


「また問題、増やしたな」


 チュウタが笑う。


「増えたんだよ!」


「ほな減らすで」


     ◇


 薬草回収は、三班に分かれた。


 ルビーとトワが上からリリアの視線を見る。


 二号は草の反対側で鳥の声を出し、注意を逸らす。


 俺、チュウタ、ミナが薬草を処理する。


「鳥声、いきます!」


 二号が腹を震わせる。


「こけえええっ!」


「また鶏!?」


 リリアが振り向く。


「今!」


 俺たちは倒木から飛び出す。


 草の根を走り、薬草束へ。


 一本が俺の身体より長い。


「腐った部分と、無事な部分。見分けつくか?」


「余裕や。匂いで分かる」


「本当か?」


「本当や。……たぶん」


「たぶんで薬草いじるな!」


「大将だって『たぶん』で扉開けたことあるやろ」


「あれは事故だ!」


「変色、三本!」


 ミナが指す。


 チュウタが根元を前歯で切る。


 俺は蜘蛛糸で健康な束を結び直す。


「水!」


 泥を洗う。


「大将、右から視線!」


 ルビーの合図。


 リリアがこちらへ向き直る。


「いたああああ!」


 聖剣が光る。


「見つかった!」


「分かってる!」


 薬草束を引く。


 重い。


「置いて逃げろ!」


 ガーロが叫ぶ。


「ここまで直したんだぞ!」


「命より薬か!」


「命のための薬だ!」


「ややこしい!」


 チュウタと二匹で束を葉台車へ載せる。


 聖剣が上がる。


 フィアがリリアの腕へつかまった。


「待って! 薬草、持ってきてる!」


「盗んでるの!」


「こっちへ運んでる!」


 俺たちは薬草をリリアの足元へ押す。


 巨大な靴。


 その影へ入る。


 六本脚が逃げろと震える。


 昨日、人間の靴へ潰されかけた記憶が腹から戻る。


 嫌だ。


 怖い。


 でも、あと三歩。


「土ついたまま煮るなよ!」


 俺は思わず叫んだ。


「根元の黒いところは切った! 水は沸かしてから、最後に葉を入れろ! 煮すぎると苦くなる!」


 リリアの足が、俺の真上で止まった。


「……喋った?」


「今そこに驚くのか! 薬の話を聞け!」


 後ろで二号が小声を出す。


「大将、自分で人間声を」


 俺も気づいた。


 いつもの声だ。


 二号の物まねではない。


 魔力を含んだ地上の風が、俺の声を人間の高さまで運んでいる。


 ルビーが無意識に風を添えていた。


「ゴキブリが……薬草を洗って、喋って、小言を……」


 リリアの剣先が震える。


「踏まないで!」


 フィアが叫ぶ。


 靴は降りない。


 リリアはゆっくり足を後ろへ下げた。


「敵意、ないの?」


「剣を振り下ろした相手に薬を返したんだぞ! これで敵意ありに見えるなら、俺はもう何をすればいいんだ!」


「ご、ごめんなさい。でもゴキブリ、本当に無理で……」


「俺だって聖剣無理だよ!」


「聖剣を虫と同列にしないで!」


「俺はその虫なんだよ!」


 リリアが一瞬、目を丸くした。


 それから、少し笑った。


 その笑い方。


 困って、でも面白さを我慢できず、口元だけ先に緩む。


 胸が――胸はない。腹の奥がまた痛くなる。


「名前は?」


「名乗る前に一つ聞いていいか」


「何?」


「まだ俺を斬る気、残ってる?」


「……五割くらいには減った」


「五割は残ってるのか!」


「クロ」


「クロ……」


 リリアが繰り返す。


「私はリリア。フィアとは姉妹みたいなもの。村へ来るたび世話になってる」


「本当の姉じゃない?」


「うん。前に魔物から助けて、それから勝手に姉って呼ばれてる」


「勇者だから?」


「知ってるの?」


「その剣を見れば!」


「普通の虫は剣の種類を見分けないと思う」


「普通を押しつけるな!」


 また笑う。


 怖がってはいる。


 俺が一歩進むと、リリアは二歩下がる。


 でも剣は下げた。


 そこで、倒木の中から二号が顔を出した。


「大将だけ置いて帰るの、寝覚め悪いです」


「出てくるな! せっかく一匹で怖がられてるのに!」


「一匹でも十三匹でも怖いものは怖いよ!」


 リリアが律義に答える。


 続いてチュウタ、ミナ、ガーロが出てきた。


 草の上からはルビー。


 倒木の穴から、トワとクル。


 一匹ずつ、俺の隣へ並ぶ。


 黒い身体。


 赤い身体。


 毛の生えた灰色の身体。


 骸骨の先生だけは地上へ来ていないが、それ以外は見た目からして統一感がない。


 勇者の前へ出す精鋭部隊としては、寄せ集め感がものすごい。


「……仲間?」


 リリアが聞いた。


「そうだ」


「全員、クロについてきたの?」


「違う」


 ガーロが即答した。


「こいつが勝手に先へ行くから、連れ戻しに来た」


「大将、放っておくと危ないもの全部拾います」


 二号も言う。


「毒草も、喋る骨も、腹を減らした敵も」


「俺を捨て犬みたいに説明するな!」


「拾う側やろ」


 チュウタが腹を抱えて笑った。


「否定できないのが悔しい!」


「大将、否定する気あったんですか?」


「一瞬あった! でもお前らの顔を見たら消えた!」


「消えるくらいなら最初から持つな」


 何が面白い。


 俺も笑った。


 リリアの剣が、さらに低くなる。


 刃先が土へ触れた。


「みんな、逃げなかったんだ」


「逃げたいぞ。ものすごく」


 俺は前脚で触角をしごいた。


 さっきから恐怖で曲がりっぱなしだ。


「勇者の靴は壁みたいだし、剣は雷より眩しいし、俺の腹は地面へ張りついたまま離れない。でも仲間の前で俺だけ穴へ引っ込んだら、あとで百年は笑われる」


「ゴキブリって、百年も生きるの?」


「生きない! だから一生笑われるって意味だ!」


「ふふっ」


 その声が落ちてきた。


 敵を倒した笑いではない。


 誰かの失敗を、隣で一緒に面白がる笑いだ。


 俺の六本脚から、ほんの少しだけ力が抜けた。


 人間の姿は巨大だ。


 声も、剣も、靴も怖い。


 それでも笑う時の温度まで、別の生き物になるわけではないらしい。


「で、十三匹で何をしてたの?」


「家を作った」


「ゴキブリが?」


「ネズミもいる!」


 チュウタが前へ出る。


「雨漏りせん立派な家や。まだ雨で試してへんけど」


「それ、雨漏りしないって言わないんじゃ……」


「今から言うな!」


 俺たちは一斉に叫んだ。


 遠くで、ごろごろと空が鳴った。


 嫌な予感だけが、やたら大きな足音で近づいていた。


「その喋り方……」


 青い瞳が細くなる。


「何だ?」


「前世の誰かに、少し似てる」


 空気が止まった。


「前世?」


「私、別の世界から生まれ変わったの。信じないと思うけど」


 信じる。


 俺もだ。


 聞きたいことが一気に溢れた。


 どこの世界。


 何歳だった。


 家族は。


 事故は。


 父親は――。


「お前、もしかして――」


 草むらの奥で、糸が切れた。


 ぶつんっ!


 俺の六本脚へ、八本分の重い着地が届く。


「上!」


 巨大な野蜘蛛が、フィアの背後へ落ちた。


 牙が開く。


 リリアは振り向きもしなかった。


 聖剣を逆手へ持ち替える。


「フィアから離れて」


 光が走った。


 ざんっ!


 蜘蛛の牙と糸だけが、白い線に沿って切れた。


 本体は衝撃で草の向こうへ吹き飛び、地面へ縫い止められる。


 一撃。


 殺さず、動きだけを完全に封じた。


「強っ!」


 俺と二号の声がそろう。


 リリアはフィアを背へかばい、蜘蛛へ剣を向ける。


 守られるだけではない。


 迷わず、自分で守る側へ立つ女だ。


「話の続きは後!」


 空が暗くなる。


 最初の雨粒が、俺たち全員の頭上へ落ちてきた。

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