燃える巣から幼体を救え
巣が燃えている。
俺は縛られている。
「判決、後にしてくれえええ!」
六本脚を束ねた糸のまま、瓦の上を転がる。
ごろっ、ごろごろっ!
「止まらない! 誰か止めろ!」
「大将!」
チュウタが飛び込んでくる。
俺の身体を両前脚で受け止め、そのまま一緒に転がった。
「ぐえっ!」
「助かった!」
「俺を下敷きにして言うな!」
「文句は後や! 礼が先!」
「礼と文句、同時に言える才能を今すぐ見せてやる! ありがとう、離れろ!」
「一文でまとめるな!」
頭上で乾いた樹皮が割れる。
ぱきっ。
次の瞬間、赤い炎をまとった足場が崩れ落ちた。
ごうっ!
火の粉が雨のように降る。
「チュウタ、離れろ!」
「糸、切る!」
前歯が拘束糸へ食い込む。
硬い。
裁判用の乾燥樹液糸だ。噛めば噛むほど繊維が締まる。
「誰だ、こんな頑丈に縛ったの!」
「逃げ足が武器や言うたからや!」
ルビーが風で火の粉を逸らしながら叫ぶ。
「正直に言わなきゃよかった!」
瓦の上層から悲鳴が上がった。
「幼体室!」
「火が回った!」
「モモが中におる!」
「ピリも! テッタも出てへん!」
俺の触角が、炎とは別の匂いを拾う。
乾草の奥。
幼い赤い匂いが幾つも固まっている。
煙で出口を見失ったのだ。
「ザハル!」
俺は長を呼ぶ。
ザハルは丘の人間たちを睨んでいた。
次の火矢が放たれる。
ひゅるるっ!
赤い戦士が風で押し返す。
だが、油布は風を受けて大きく燃えた。
巣の裏側へ落ちる。
「人間を追う!」
戦士たちが翅を開く。
「待て!」
俺は腹から叫んだ。
「追う前に、中の子どもを出せ!」
「攻撃を止めねば、また火が来る!」
「火はもう中にある! 今離れたら、誰が名前を数えるんだ!」
ザハルの触角が止まった。
「俺をほどけ! 黒は隙間から入る! 赤は熱い外側を走れ! ネズミは水を運べる!」
「まだ判決は――」
「判決で子どもは助からない!」
ザハルの前脚が振り下ろされる。
鋭い顎刃が拘束糸を断った。
ぷつんっ!
六本脚が自由になる。
「黒い地下虫クロ」
「クロだ!」
「指揮しろ」
「今は名前なんてどうでも――いや、よくない! 後で絶対訂正させる!」
俺は立ち上がった。
熱い。
瓦から六本脚へ熱が上がる。
触角の先が煙で痺れる。
怖い。
炎は生き物みたいに道を変える。さっきまで安全だった足場へ、風一つで舌を伸ばす。
でも、匂いの奥に名前がある。
モモ。ピリ。テッタ。
まだ知らない幼体もいる。
知らないから、今から聞く。
「全員、火と戦うな! 助ける道を作るぞ!」
◇
赤風巣は、燃えやすいものばかりだった。
乾草。
樹皮。
樹液板。
風を通す穴。
普段は涼しく暮らす工夫が、今は炎へ道を渡している。
「上の風穴を閉じろ!」
俺が叫ぶ。
「閉じたら煙が下へ行く!」
サラが返す。
「じゃあ下を閉じて、上を一つだけ開ける! 煙を一方向へ出す!」
「風、入れるで!」
ルビーが翅を開いた。
「待て、強く吹くな!」
「分かっとる!」
ひゅうっ!
風が幼体室の入口から入る。
炎が一気に奥へ倒れた。
ごおおっ!
「逆!」
「分かっとらんやん!」
「今ので分かった!」
「一回目に幼体焼いたら終わりやぞ!」
ルビーの顔から強がりが消える。
傷ついた右前脚が瓦を強く掻いた。
「……ごめん」
「謝るのは後! 入口から押すんじゃない。上の風穴から吸い出す!」
「吸う風なんか――」
「反対側へ流せば、こっちの空気が引かれる!」
サラとボウが上層へ飛ぶ。
ルビーは瓦の外側へ回り、風穴の上を横切る強い流れを作る。
ひゅおおおっ!
穴の中の煙が引かれた。
黒い煙が一本の柱になって空へ出る。
「通った!」
幼体室の入口から、わずかに新しい空気が入る。
「黒組、行くぞ!」
俺、二号、クル、トワ、バサが腹を低くして突入する。
赤い戦士バジャも続こうとした。
「お前は外壁!」
「俺も入れる!」
「熱に強いお前が外の火を止めないでどうする!」
一瞬、反発する匂い。
すぐにバジャは向きを変えた。
「外は任せろ!」
赤い一族は熱に強い。
燃える樹皮のすぐ横を走り、まだ火のついていない足場を切り離す。
がりっ、ばきんっ!
延焼路が一つ落ちる。
ネズミ組は水袋を押す。
チュウタ、ニイ、トトが瓦の傾斜を登り、ミナが濡れ布を一枚ずつ渡す。
「水、来たで!」
「入口へ半分! 残りは幼体の呼吸を守る!」
「火を消さんの?」
「全部消す量はない! 道と命へ使う!」
水滴は人間には小さい。
俺たちには大きい。
でも巣全体の火には、あまりにも少ない。
だから一滴を薄い布へ吸わせ、五匹分の呼吸孔を守る。
一滴を樹皮の継ぎ目へ流し、炎が渡る一瞬を遅らせる。
水は火に勝てない。
俺たちが走る時間を買う。
◇
幼体室の中は、夜より暗かった。
煙が複眼へ膜を作り、光の方向が分からない。
俺は見るのをやめた。
腹を床へ近づける。
震えを探す。
ぱちぱちと乾草が燃える細かな振動。
上で瓦が割れる重い振動。
その間に、震える脚の拍がある。
「誰かいるか!」
「……ここ」
「名前!」
「モモ」
「モモ、返事し続けろ!」
「こわい」
「俺も怖い!」
二号が後ろから叫ぶ。
「大将はずっと怖いって言ってる!」
「今それを広めるな!」
「でも来た!」
小さな声が、少しだけ強くなる。
「……来た?」
「来たぞ! 黒くて湿っぽくて、うるさい救助隊だ!」
「自分で湿っぽい言うた!」
「水を持ってるからだ!」
触角に、幼い匂いが触れる。
倒れた乾草の下。
クルとトワが隙間へ入り、身体で草を持ち上げる。
「モモ、俺の触角につかまれ!」
「どれ?」
「二本ある方!」
「みんな二本!」
「声の近い方!」
小さな前脚が触角を握った。
引く。
赤い幼体が煙の中から出る。
「一匹!」
二号が音の拍を鳴らす。
とん!
外から、同じ拍が返る。
救助数を、見えない仲間へ伝える。
「次!」
「ピリ、こっち!」
「テッタは奥!」
「ノノが動かへん!」
名前が増える。
ピリ。
テッタ。
ノノ。
ララ。ジン。ポポ。
俺は一匹ずつ呼ぶ。
「ピリ、右へ三歩!」
「右、どっち?」
「声の方!」
「テッタ、走るな! 床が割れる!」
「でも火が!」
「俺が行く!」
ゴキブリの身体は、煙の下へ潜れる。
薄い腹を床へつけ、六本脚を広げる。
熱い空気は上へ昇り、床近くにはまだ一筋だけ呼吸できる空気が残る。
人間の身体では入れない高さ。
ネズミでも背がつかえる隙間。
俺はそこを走る。
嫌われた平たさが、今は幼体へ届く道になる。
「テッタ、見つけた!」
背へ載せる。
「俺、重い?」
「軽い!」
「ほんま?」
「二号の食料袋より軽い!」
「比較が失礼です!」
二号の声を目印に戻る。
出口では濡れ布を持ったチュウタが待つ。
「渡せ!」
「テッタ、ネズミの背へ!」
「でかい!」
「優しいで!」
「自分で言うな!」
「二号より広いです!」
「比較対象が失礼だ!」
「褒めてます!」
「褒め方が下手すぎる!」
チュウタが幼体を受け、外へ走る。
その背へ次の水袋が来る。
救助と補給が同じ道ですれ違う。
◇
七匹目を出した時、上の瓦がひび割れた。
ぴしっ。
俺の六本脚へ、細く鋭い予兆が届く。
「天井、落ちる!」
「ノノがまだ奥です!」
クルが叫ぶ。
戻れば間に合わないかもしれない。
戻らなければ、ノノは一匹で残る。
「俺が行く!」
「大将!」
「クルは出口を守れ!」
走り出そうとした俺の前へ、赤い影が降りた。
ザハルだ。
「案内しろ」
「長が来るな! 外の指揮は!」
「バジャへ任せた。赤は熱い道を進める」
「でも狭い!」
「お前が道を見つけ、俺が火を越える」
反論する時間はない。
「ついてこい!」
俺が床の隙間を走る。
ザハルは燃える樹皮の上を進む。
黒と赤、上下の二本の道。
「ノノ!」
「ここ……」
声は炎の向こう。
乾草が倒れ、床の隙間を塞いでいる。
「俺が下から持ち上げる! ザハル、燃えてる方を切れ!」
「命令するな」
「今だけ聞け!」
「大将の指示、二回目から料金取ります?」
「今それ聞く場面か!?」
「後で忘れそうなので先に!」
「忘れる余裕なんてどこにもない!」
「……一度だけだ!」
俺は隙間へ身体をねじ込む。
背の殻へ熱い草が乗る。
「熱っ! 熱い熱い! ゴキブリの丸焼きになる!」
「騒ぐな!」
「騒いだ方が力が出るんだよ!」
六本脚を床へ立て、背で草を押す。
ザハルの顎刃が炎の根元へ入った。
ざくっ!
燃える束が切れる。
「今!」
俺が押し上げる。
ザハルが蹴り飛ばす。
ごおっ!
炎の束が横へ落ち、道が開いた。
奥で、小さな赤い身体がうずくまっている。
ザハルが飛び込む。
ノノを背へ載せた。
天井のひびが広がる。
ぱき、ぱきぱきっ!
「戻るぞ!」
大瓦が落ちた。
ズガァンッ!
乾草と火の粉が爆発し、背後の道を潰す。
衝撃で俺は前へ吹き飛ぶ。
ザハルの前脚が俺の触角をつかんだ。
「放すな!」
「そっちがな!」
煙の流れを追う。
ルビーが上から吸い出している一本の風。
俺は見えない出口を、その風の匂いで選ぶ。
「左!」
ザハルが燃える壁を蹴る。
俺は床の亀裂へ滑り込む。
ノノを挟んだまま、三匹で出口へ飛び出した。
「出た!」
「ノノ!」
母親が駆け寄る。
ミナが濡れ布をかけ、呼吸を確かめる。
「生きとる。煙を吸ったが、間に合った」
ザハルの脚から力が抜けた。
ノノの母親へ触角を触れ、すぐ立ち上がる。
「まだ何匹だ!」
「記録では十四!」
ジロが叫ぶ。
「幼体室の名簿は十五!」
「あと一匹!」
「名前は!」
「ポム!」
その時、上空から赤い影が降りた。
ルビーだ。
傷ついた脚で、小さな幼体を抱えている。
「煙穴の外側に引っかかっとった!」
「ポム!」
十五匹目。
地上へ出る。
とん、とん、ととん!
二号が大きな完了拍を鳴らした。
赤風巣のあちこちから返事が来る。
「十五、全員!」
歓声が炎の音を越えた。
◇
幼体を安全な岩陰へ移した後、消火へ移る。
赤い戦士が燃える部分を切り離す。
ネズミ組が瓦の下へ土を詰め、火の道を塞ぐ。
黒組は煙の隙間を走り、残った樹液食と薬草を運び出す。
ルビーたちは炎を直接吹かず、上空の煙だけを丘の反対へ流す。
先生が水袋へ冷却魔法をかけ、一滴ずつ最も熱い継ぎ目へ落とす。
二号の歌が作業の拍をそろえる。
「切って、埋めて、運んで、冷やす!」
「歌詞が普通や!」
「非常時なので!」
「できるなら毎回そうしろ!」
「では二番も普通でいきます」
「二番いらない!」
「切って、埋めて、運んで、冷やす、あと少しだけ茸味噌!」
「宣伝を混ぜるな!」
「布教は平時からしとかんと定着しません!」
「非常時に定着させようとするな!」
一つ目の瓦から炎が消える。
二つ目。
三つ目。
最後の油布をバジャが地面へ蹴り落とし、チュウタが土で覆った。
じゅうううっ。
白い煙が上がる。
赤風巣の半分は黒く焦げた。
けれど、住民は全員いる。
幼体十五匹も、一匹ずつ名前で数えた。
ザハルが俺の前へ来る。
「判決が残っている」
「今やるの!?」
「黒い地下虫クロは――」
「クロ!」
「クロは、ルビーを連れ去っていない。赤風巣の敵でもない」
拘束糸の切れ端を、火の消えた土へ落とす。
「無罪だ」
「よし!」
「ただし、湿っぽい」
「判決に感想を足すな!」
「湿っぽいのは体質だ! 好きで湿ってるわけじゃない!」
「体質のせいにするな」
ガーロが横から口を挟む。
「大将は乾いてても喋りすぎだ」
「今度は乾湿どっちでも文句を言われてる!」
笑いが起きる。
燃えた匂いの中で、みんなが笑った。
失った巣の半分は、これから直す。
一匹で直す者はいない。
「クロニアから梁と菌布を送る」
「赤風巣からは樹液板を出す」
ザハルが答える。
「茸味噌も!」
二号が言う。
「お前は交易係じゃない!」
「今からなります!」
「却下!」
「では《臨時・茸味噌大使》!」
「臨時でも却下!」
「大使やのに一秒で首や……」
「任命される前に首になるな!」
その時、ガーロが丘の下から戻った。
火を放った人間たちは、幼体救助の間に退いている。
「大将。落とし物だ」
前脚に、小さな金属徽章。
白い炎の周りを、閉じた輪が囲んでいる。
デニスの管理所章とは違う。
先生の眼窩が強く光った。
『古代浄化教団の印だ』
火を放ったのは、村を病から守ろうとした作業員ではない。
燃やすことそのものを正義とする、別の人間たちだった。




