レッドローチ裁判
「一呼吸だけ話せ」
「俺、肺がないんだけど」
裁判開始から一言目で、赤風巣が静まり返った。
正午。
瓦の一番高い場所にある《風の裁き場》で、俺は六本脚を糸に縛られたまま転がされている。
正面には長ザハル。
左右には赤い一族の戦士。
後ろにはルビー、救出した七匹、クロニア地上探検隊。
見物の住民は百匹以上。
全員が、俺の呼吸を待っている。
「肺がない?」
ザハルが聞き返した。
「ゴキブリは身体の横の小さい穴で息をする。人間みたいに吸って、吐いて、その間だけ話すわけじゃない」
「我らもゴキブリだ」
「だったら知ってろよ!」
「赤い一族は、風と共に呼吸する」
「格好よくごまかすな!」
住民の何匹かが吹き出した。
ザハルの触角がぴくっと動く。
「では、風鐘が一度鳴り終わるまで話せ」
裁き場の端に、小さな乾燥実の鐘がある。
風が吹く。
かららららららら――。
「長い!」
二号が叫んだ。
「大将、いっぱい喋れます!」
「俺に有利になった!」
「まだ始めていない」
「じゃあ俺の一呼吸、まだ残ってるってことだよな?」
「屁理屈で稼ぐな」
ザハルが前脚を上げる。
「まず罪を読む」
「俺、今ので一呼吸使った?」
「使っていない!」
「確認しただけだろ、怒るなよ!」
「黙れ!」
「黙ったら裁判できない!」
「判決の前に大将が裁判官の役、乗っ取りそうです」
「乗っ取ってない! ただ喋りたいだけだ!」
「それを乗っ取りって言うんやろ」
ルビーが真顔で突っ込んだ。
また笑いが起きる。
拘束されているのは俺なのに、ザハルの方が疲れて見えた。
少しだけ気が楽になる。
怖い相手でも、困らせることはできる。
勝てるとは言っていない。
でも、転がされて黙っているより百倍ましだ。
「罪状!」
ザハルが風鐘より大きな声を出す。
「黒い地下虫クロは、ルビーを連れ去り、人間への怒りを弱め、赤風巣の戦士を騙した疑いがある」
「最初から全部間違ってる!」
「被告は後で話せ!」
「肺がない説明はしただろ!」
「順番の話だ!」
「それなら分かる!」
俺はおとなしく口を閉じた。
「急に素直やな」
ルビーが言う。
「話が通じるところでは通じるんだよ!」
「被告!」
「はい!」
裁判は、たぶん始まっている。
◇
最初の証言は、赤い戦士バジャだった。
背に三本の火傷跡がある。
「人間は去年、南の巣へ熱湯を流した。幼体六匹が戻らなかった」
笑いが消えた。
「春には毒粉を撒いた。食料を集めていた四匹が倒れた」
別の戦士が前へ出る。
右翅が半分ない。
「俺の姉は、人間の靴に踏まれた。人間は気づきもしなかった」
次々に声が上がる。
焼かれた巣。
奪われた樹液。
捕まった七匹。
ルビーの傷。
俺は反論できなかった。
いや、反論してはいけない。
デニス一人が図を読んだからといって、過去の傷が消えるわけではない。
人間にも事情がある、なんて言葉を今ここで投げたら、俺はまた大事なものを見落とす。
赤い一族にも帰らなかった仲間がいる。
ザハルが俺を見る。
「それでも、人間を信じろと言うか」
「言わない」
ざわめきが広がる。
「人間は本当は優しい、とも言わない。俺は昨日、人間の靴に踏み潰されかけた。今日流す予定だった薬も、クロニアを丸ごと殺せる量だった」
「なら、なぜ戦わない」
「戦う相手を間違えたくないからだ」
「臆病者の言葉だ!」
ザハルの翅が強く鳴った。
ばりりっ!
乾いた瓦へ風圧が走り、俺の身体が半回転する。
「痛っ! 縛られてる相手へ風を当てるな!」
「怖いのだろう、人間が!」
「怖いよ!」
俺は怒鳴り返した。
「あんなにでかくて、踏む気がなくても俺たちを殺せる! 薬の匂いを嗅いだだけで脚が震える! 怖くないと言えるやつは、たぶん一度も本気で踏まれかけてない!」
六本脚の先が、今もわずかに揺れている。
隠せない。
だったら、隠さない。
「でも怖いから、人間の食料庫を燃やしていいのか? 中には熱を出した子どもの薬もある。燃やされた人間は、次に何をする? もっと大勢で来る。もっと強い薬を撒く。俺たちは勝った気になって、巣を全部失う!」
「脅しに屈しろと?」
「違う!」
縛られた前脚で瓦を掻く。
立って言いたい。
せめて触角をまっすぐ向けたい。
芋虫姿勢で何を言っても、格好がつかない。腹立つ。ものすごく腹立つ。
「逃げるだけじゃない。殺すだけでもない。人間が俺たちを殺す理由を、一つずつ潰すんだ!」
「虫がいる。だから殺す。それだけだ」
「違う。井戸の周りへ虫が集まった。穀物が荒らされた。病気が増えた。人間は三つを同じ原因だと思った」
俺はザハルを見る。
「でも熱病の原因は、詰まった排出弁から逆流した汚泥だ。赤い七匹が見つけた。俺たちは図へ描いた。デニスが今、確認している」
「一人の人間が動いただけだ」
「最初は一人でいい!」
言い切る。
「一人へ届けば、次は二人へ届く。俺たちだってそうだった。最初は俺とチュウタと先生だけだった」
「俺も最初から!」
二号が後ろで手を上げる。
「お前は途中だ!」
「いつからなら最初!?」
「今そこを争うな!」
赤風巣に、また小さな笑いが戻る。
「被告の時間だ」
ザハルが風鐘を指した。
「まだ鳴らしてないだろ!」
「今からだ」
「ここまでの俺の話は!?」
「前置き」
「長すぎる前置きになった!」
風が吹く。
かららららららら――。
「改めて話せ」
「もう全部話したよ!」
◇
次はルビーが前へ出た。
右前脚の薬草布を、自分で外す。
罠の傷はまだ赤い。
「これは人間につけられた傷や」
ザハルが頷く。
「なら――」
「最後まで聞き」
ルビーの声が低くなる。
「この傷を洗ったんは、地下のネズミ。薬を巻いたんも、地下のネズミ。猟犬を町から遠ざけたんは、黒い連中と骨の先生」
赤い触角が俺へ向く。
「黒焦げは、あたしを連れ去ってへん。『助けるから言うこと聞け』とも言わんかった。風を使いすぎたら怒る。勝手に走ったらもっと怒る。小言が多くて、ほんま腹立つ」
「証言で悪口を混ぜるな!」
「でも、あたしの七匹を助ける時、最初に名前を聞いた。数でなく、一匹ずつ帰すために」
サラ、ボウ、キキたちが前へ並ぶ。
「黒焦げ大将は金網の中へ入った」
「食料くれた」
「歌はうるさかった」
「それ俺!」
二号が抗議する。
「歌の苦情は俺へ!」
「自分から受け取りに行くな!」
ザハルは七匹を見る。
「薬に操られている可能性は?」
「あるわけない!」
七匹の声がそろった。
「そこまで言うなら、証を見せろ」
ザハルが空を向く。
太陽は頂点。
人間が殺虫液を流す予定の正午だ。
赤風巣の下を通る古い支管へ、全員が触角を向ける。
ごごごご……。
地の奥から、水の振動が近づく。
「来た!」
戦士たちが翅を開く。
「薬だ!」
「まだ匂いを見ろ!」
俺も瓦へ腹をつける。
流れが支管を曲がる。
甘い殺虫液の匂いは――ない。
代わりに酸葉、苦草、白粉菌。
「発酵液や!」
ルビーが叫ぶ。
瓦の下の排水穴から、濁った水が出る。
最初は黒い。
だが、白粉菌が汚れを丸め、泥粒へ変えている。
大きな粒は枝網に引っかかり、水だけが地面へ染み込む。
その中を歩いていた小虫は死んでいない。
苦草の匂いを嫌い、井戸と反対の野原へ移動していく。
「人間が、薬を止めた……」
誰かが呟く。
「俺たちの図を信じたんだ!」
「まだ分からん」
ザハルは厳しい声を保っている。
けれど、白い触角輪が小さく揺れていた。
「デニスが北弁を開け、入れ替えた樽を流した。少なくとも今日は、殺すより先に直す方を選んだ」
「明日は?」
「分からない」
「十日後は?」
「分からない」
「なら戦う備えは必要だ」
「そこは反対しない」
ザハルが初めて、俺をまっすぐ見た。
「反対しない?」
「逃げ道も、見張りも、防火も要る。人間がまた薬を流すなら止める。捕まえるなら助ける。巣へ火をつけるなら――全員で守る」
「では食料庫を燃やす作戦へ加われ」
「それは反対!」
「臆病者め」
「慎重派と言え!」
「湿った慎重派」
「湿りを悪口に使うな!」
裁き場の住民が笑う。
ザハルまで、ほんの一瞬だけ口元を動かした。
◇
判決前に、実演を求められた。
「殺さず、人間の食料庫から虫を遠ざけられると言ったな」
「言った」
「ここで見せろ」
中央へ二枚の樹皮が置かれる。
どちらにも甘い樹液。
片方だけ、俺たちの苦草液で囲む。
問題は、苦草液の匂いが強すぎたことだ。
「くさっ!」
赤い住民が一斉に下がる。
「これ、食料どころか巣から全員逃げるで!」
ルビーが触角を押さえる。
「濃度を間違えた!」
「人間の鼻に合わせた量やろ!」
「ゴキブリには強すぎた!」
「考えたら分かるやん!」
「人間だった感覚が残ってるんだよ!」
「言い訳が壮大すぎる!」
「事実だから壮大になるんだ!」
実演用の小虫どころか、裁判の見物人まで瓦の端へ避難した。
「被告」
ザハルが触角を震わせる。
「これは攻撃か?」
「失敗です!」
大急ぎで水を足す。
ルビーが風で余分な匂いを飛ばす。
ジロが元液一滴、水二十滴の比率を計算。
チュウタが瓦の下から露袋を運ぶ。
二号は匂いの境界を歌の拍で示す。
「近いとくさい、遠いと甘いー」
「歌詞は正しいけど腹立つ!」
三度目の薄め液。
甘い樹液へ来た小虫が、苦草の線で方向を変えた。
もう一枚の樹皮へ集まる。
死なない。
でも、守りたい方へ入らない。
「できた!」
歓声が上がる。
「井戸、食料庫、幼体室の周りへ使える。巣から離れた場所に虫用の食料を置けば、殺さず誘導できる」
「赤風巣にも使えるな」
バジャが言う。
「毒蟻を幼体室から遠ざけられる」
「クロニアで量産できる」
「交換は?」
「樹液食!」
二号が即答した。
「俺が決めるの!?」
「茸味噌もつけます!」
「勝手に交易を始めるな!」
「でも茸味噌、地上でも評判よかったやろ」
「それはそうだけど、お前が決めることじゃない!」
「じゃあ大将が決めて! 賛成の一言だけでええから!」
「賛成……いや、待て、流されるところだった!」
でも悪くない。
苦草液と樹液食。
地上と地下の最初の交換品になる。
実演を見ていた赤い母親が、幼体室から小さな樹皮皿を持ってきた。
「こっちでも試してええ?」
皿には樹液を狙う赤茶色の毒蟻が三匹いる。
俺たちより小さいが、幼体には危険な顎を持つ。
「薄め液を入口の外へ。内側へ塗ると、幼体まで匂いで眠れなくなる」
「分かった」
「さっきの濃さでやったら、幼体まで丘の向こうへ逃げるで」
「もう間違えない!」
「三回間違えた奴の台詞やないな、それ」
「四回目こそ完璧にする!」
母親が一滴を細く引く。
毒蟻は線の手前で触角を振り、向きを変えた。
ルビーたちが外へ置いた樹液片へ、三匹とも歩いていく。
幼体室から、赤い小さな顔が幾つも覗いた。
「蟻、来ない!」
「樹液も取られてへん!」
「黒いの、すごい!」
「クロだ!」
「湿ったクロ!」
「余計な言葉が増えた!」
子どもたちが笑い、母親は何度も俺へ触角を下げた。
ザハルは黙ったまま、その様子を見ている。
人間との戦争を止める証明にはならない。
けれど、殺さず守れる場所が一つできた。
大きな正義を怒鳴るより、幼体室の入口一つが安全になる方が、今はずっと確かだった。
「判決を言い渡す」
ザハルが前へ出た。
戦争をやめるとは、まだ言わないだろう。
それでも拘束糸は少し緩んでいる。
「黒い地下虫クロは――」
その時。
風の匂いが変わった。
油。
布。
火。
俺とルビーの触角が、同時に同じ方向へ向く。
「伏せろ!」
丘の上から、燃える布の塊が飛んできた。
ごおっ!
風を食った炎が大きく膨らむ。
赤風巣の上層瓦へ、燃えた油布が叩きつけられた。
ばしゃあっ!
火の粉が樹皮の足場へ散る。
幼体室の乾草へ、一斉に炎が走った。
「虫狩りだ!」
見張りの叫び。
ザハルが丘を見る。
白炎紋をつけた人間たちが、次の火矢を構えていた。
裁判の判決より先に、赤風巣が燃え始めた。




