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赤い一族の巣

人間と目が合った。


 俺は逃げた。


「うわあああああ! やっぱり無理!」


「大将、格好悪い!」


「目玉が俺の全身よりでかいんだぞ! 理性より脚が先に動くわ!」


 かさかさかさかさっ!


 排水穴の中を、二十匹で全力疾走する。


 十三名で来て、七匹を助けた。


 帰りは賑やかで喜ばしい――はずだった。


「押すな! 狭い!」


「前、詰まってる!」


「誰や、俺の尾を踏んどる!」


「ネズミの尾が長すぎるんです!」


「お前らの触角も絡まっとるわ!」


 喜ばしいが、通路の幅は増えない。


 黒、赤、ネズミ、骨の頭と右腕が、一本の排水管へぎゅうぎゅうに詰まる。


 後ろから、デニスの声が追ってきた。


「待ってくれ! 害を加える気はない!」


「人間の『害を加えない』は信用できる?」


 二号が聞く。


「さっき十二樽で全滅させるって言ってた!」


「信用できません!」


「でも図は読んだ!」


「ちょっと信用!」


「どっちだよ!」


 俺の六本脚は止まらない。


 怖い。


 人間の声を理解できても、身体は巨大な捕食者の気配として受け取る。


 汗、革、薬、朝食のパン。


 一息ごとにデニスの匂いが排水管へ入ってくる。


 複眼には見えなくても、触角には「大きい、近い、危険」が何重にも押し寄せる。


 俺は人間だった。


 だから話せば分かると思いたい。


 俺は今ゴキブリだ。


 だから、その場で踏まれれば話す前に終わるとも知っている。


「右の支管!」


 先頭のトワが叫ぶ。


「二十匹は入れない!」


「左!」


「水が来とる!」


「真ん中!」


『行き止まりだ!』


「先生、もっと早く!」


『古い図と形が違うのだ!』


 後ろで金属格子が持ち上がる。


 ぎいっ。


 光が差し込んだ。


 デニスが排水穴を覗く。


 逃げ道がない。


 ガーロが後ろへ向き直った。


「大将。先に行け」


「全員で行く」


「二十匹では管へ入れん」


「じゃあ、管を広げる!」


「石管やで!」


 チュウタが叫ぶ。


「俺の土魔法でも、今すぐは無理や!」


「じゃあ、別の道を作る!」


「どこに!?」


「今考える!」


「大将!」


 光が近づく。


 大きな手が格子の向こうにある。


 その手は入らない。


 人間の指一本でも、穴には太すぎる。


 ……入らない?


「待て」


 俺は脚を止めた。


「向こうから手は届かない」


「でも水を流されたら?」


 ジロが言う。


「デニスは図を読んだ。今すぐ薬は流さない」


「信じるん?」


 ルビーが俺を見る。


「全部は信じない」


 怖い。


 信じて間違えたら、俺だけでなく十九匹まで巻き込む。


 だから姿は見せない。


 近づかない。


 でも、何も返さず逃げれば、あの図が罠だと思われるかもしれない。


「四拍だけ返す」


 俺は床へ脚をつけた。


 とん、とん、ととん。


 石、葉、根、穴。


 クロニア地上探検隊の帰還合図。


 格子の向こうで、デニスが息を止めた。


「今の……返事なのか?」


 俺はもう一度。


 とん、とん、ととん。


「図は、お前たちが?」


 一拍。


 肯定の合図は決めていない。


「二号」


「はい」


「人間の声、まねられるか」


「短ければ」


 二号が腹を膨らませる。


 喉ではなく、翅と床の振動を重ねる。


「キタ……ドロ……ミロ」


 低く割れた声が管を這った。


 北、泥、見ろ。


 デニスが立ち上がる気配。


「北の排出弁……本当にそこなのか」


「キョウ……クスリ……ダメ」


 二号の声がひっくり返る。


「もう無理! 人間声、腹がかゆい!」


「よくやった!」


 外で鐘が鳴った。


 別の作業員がデニスを呼ぶ。


「デニス! 薬の準備はどうした!」


「待ってくれ! 先に北弁を確認する!」


「何を急に――」


「図があったんだ! 説明は後!」


 足音が遠ざかる。


 格子は開けたまま。


「行った?」


「北へ」


 ルビーが風の匂いを読む。


 薬樽ではなく、汚泥の弁へ。


「通じた……」


 俺の六本脚から、急に力が抜けた。


「人間に、通じたぞ!」


「声は俺です!」


 二号が胸を張る。


「そうだな。二号の手柄だ!」


「もっと言って!」


「腹がかゆくなるまで頑張った!」


「そこはいらない!」


 全員の笑いが狭い管へ響いた。


 デニスを信じ切ったわけではない。


 人間と友達になったわけでもない。


 それでも、薬を流す手は止まった。


 人間が、ゴキブリの声を一度聞いた。


 たったそれだけ。


 でも、昨日までの世界にはなかった一歩だ。


     ◇


「次は、うちらの巣や」


 ルビーが言った。


 日が高くなる前に管理所を離れ、村の石垣から北西の乾いた丘へ向かう。


 二十匹のうち、救出した七匹は腹が減り、脚も弱っていた。


 移動葉陰一号は靴に吹き飛ばされた。


 そこで赤い一族が、地上式の移動方法を見せることになった。


「葉を運ぶんやない」


 サラが細長い枯れ葉へ糸を結ぶ。


「風に運ばせる」


「俺たちもやったぞ。葉の下へ風を入れて――」


「違う違う。そんなん湿っぽい黒の考えや」


「湿っぽい黒!?」


「見てて」


 七匹が葉の縁へ並ぶ。


 ルビーが二割の風を送る。


 ふわっ。


 葉が持ち上がり、斜面を滑るように進んだ。


 風へ斜めに向け、地面から触角二本分だけ浮かせる。


 枯れ葉のそりだ。


「速い!」


「乗れ!」


 チュウタとニイ、トトが中央。


 先生の頭と右腕は前。


 黒組は縁へつかまる。


「出発!」


 ひゅうううっ!


 葉が地面を離れた。


「高い高い高い!」


「触角二本分や!」


「俺には十分高い!」


「地下黒、空に弱すぎ!」


 赤い七匹が笑う。


 俺は葉の縁へ六本脚で張りついた。


 地面が流れる。


 小石が一瞬で後ろへ飛ぶ。


 草の根を右へかわし、倒木の下へ潜り、また風へ乗る。


 ルビーとサラが前後から風向きを整える。


 傷ついたルビーは強風を出さない。


 代わりに七匹が少しずつ翅を開き、一つの流れを作る。


「一匹ずつは弱い風でも、集めればこんなに速いのか」


「うちら、空で生きとるからな!」


 ルビーが得意げに言う。


「地面すれすれだけど」


「降りろ、黒焦げ!」


「褒めてるんだよ!」


「どこがや!」


 枯れ葉そりが小さな石を踏んだ。


 ぱんっ!


 前側が跳ねる。


 先生の頭が宙へ飛んだ。


『また私かあああ!』


「先生!」


 二号が飛びつく。


 頭蓋骨を抱えたまま、二号も葉から落ちた。


「二号!」


「俺はいいから先生を!」


『私もお前もだ!』


 ルビーが風を回す。


 サラとボウが左右から滑空し、二号の翅へ糸をかけた。


 俺は葉の後端へ移り、全員へ足踏みの拍を送る。


「左へ重心!」


 二十匹が一斉に寄る。


 葉が傾き、二号と先生の下へ滑り込む。


 どさっ!


 二号が頭蓋骨ごと葉へ戻った。


「助かった……」


『次から私は中央だ! 最前列は断固拒否する!』


「景色、よかったでしょう?」


『地面と空が十回入れ替わった!』


「特等席!」


『二度と乗らん!』


 先生はそう言いながら、次の風が来る前に葉の中央へ固定された。


 乗るらしい。


     ◇


 赤い一族の巣は、岩山ではなく、壊れた人間の屋根だった。


 丘の裏に捨てられた赤茶色の瓦。


 何枚も斜めに重なり、その隙間へ風が通っている。


 地下なら雨漏りする欠陥住宅だ。


 地上では、熱を逃がし、滑空の風を作る塔になる。


「ようこそ、《赤風巣》へ」


 ルビーが翅を広げた。


 瓦の外側には、乾いた樹皮の足場。


 内側には、樹液を固めた透明な壁。


 風が通る高所は飛行訓練場。日陰の下層は幼体室。朝に働く組と夜に働く組が、中央の匂い柱へ札をつけて交代している。


「寝る時も風、入るの?」


 二号が聞く。


「当たり前」


「寒くない?」


「気持ちええ」


「俺、乾く!」


「地下黒、湿りすぎ!」


 住民たちが集まってくる。


 赤い。


 ただし同じ赤ではない。


 唐辛子のような鮮やかな赤。


 夕焼けに近い橙。


 背に黒い筋のある者。片方の翅が透明な者。触角の短い者。


 匂いも、樹液、乾草、朝露、煙、一匹ずつ違う。


 俺の複眼には大勢の赤い群れに見える。


 触角には、ちゃんと一匹ずついる。


「ルビー!」


「帰った!」


「サラたちも!」


 歓声が上がる。


 七匹の家族が駆け寄り、触角を絡め、背を叩き、同時に喋る。


「どこ行ってた!」


「人間に捕まった!」


「脚、怪我しとるやん!」


「この黒いの誰!?」


「ネズミまでおる!」


『骨人もいるぞ』


「頭だけ喋った!」


「先生です!」


「二号です!」


「誰もお前の名は聞いてない!」


 巣は一瞬で祭りになった。


 樹液食が運ばれる。


 乾いた花粉を混ぜた琥珀色の板。人間なら飴の欠片、俺たちには大皿だ。


 チュウタがかじる。


 かちっ。


 歯が止まった。


「固っ!」


「地上食は噛んで風味を出すんや」


 サラが薄い端をかじる。


 ぱりっ。


「俺の歯より強いやん……」


「湿った茸ばっかり食べとるからや」


 二号も挑戦する。


「ふんっ!」


 樹液板が割れず、二号が後ろへ転がった。


「食べ物に負けた!」


「お湯で戻そう」


 俺が言うと、赤い住民たちが一斉に振り返った。


「濡らすの!?」


「食べ物を!?」


「何で!?」


「食べやすくなるだろ!」


「香り逃げるやん!」


「歯が折れるよりいい!」


 文化の違いは、食卓で戦争になった。


 少量を朝露で湿らせる。


 柔らかくなった樹液板へ、二号が茸味噌の粉を振った。


「赤風蜜味噌!」


「勝手に名前つけんな!」


 サラが一口食べる。


 黙る。


「まずい?」


「言うたら、二号が調子に乗る」


「もう乗ってます! 次は何を混ぜます!?」


「早すぎる!」


「……悔しい」


「どっちだよ!」


「うまい。湿っぽいのに、うまい!」


「湿っぽさは悪口なの!?」


 赤風巣とクロニア、最初の共同料理ができた。


 あちこちで樹液板を濡らす者、乾いたまま茸味噌をつける者、絶対に認めないと言いながら三枚食べる者が出る。


 助かった七匹は腹いっぱいになり、家族の輪へ戻った。


 俺はその騒ぎを見ながら、ようやく息を吐く。


 二十匹で来て、二十匹いる。


 いや、周りにはもっといる。


 ルビーの町だ。


 乾いて、うるさくて、風が通りすぎて、食事が固い。


 でも、帰ってきた者を全員で喜ぶところはクロニアと同じだった。


「ここも、いい町だな」


 俺が言うと、ルビーが少し照れたように触角を反らした。


「巣や。町ほど大きない」


「これから大きくすればいい」


「あたしらの町を、勝手に作る気?」


「手伝うだけだ!」


「黒焦げ建設?」


「名前にするな!」


     ◇


 中央の風鐘が鳴った。


 からん、かららん。


 住民たちの声が止まる。


 上層の瓦から、大柄な赤いゴキブリが降りてきた。


 背は濃い朱色。左翅の先が焼け焦げ、二本の触角へ白い石輪をつけている。


「長のザハルや」


 ルビーが小声で言う。


 ザハルは助かった七匹を見た。


 次に、ルビーの薬草布。


 最後に俺たち黒い組とネズミ族を見る。


「ルビー」


 低い声が瓦へ響く。


「三日前、お前は人間との戦いへ出た」


「偵察や。戦いに行ったんやない」


「戻らなかった。七匹も捕らわれた」


「だから助けて――」


「そして今、黒い地下虫に囲まれて帰った」


「話、聞いとる!?」


 ザハルが前脚を上げる。


 上層の穴から、赤い戦士が二十匹降りた。


「人間は、我らを焼き、踏み、薬で殺す」


 住民の一部が翅を鳴らす。


「北の人間が薬を流す今日こそ、こちらから食料庫を燃やす。二度と我らへ手を出せぬよう、戦争を始める」


「待て。薬は止まった」


 俺は前へ出た。


「村の病気は虫が原因じゃない。黒い汚泥だ。人間へ図を渡した。今――」


「黙れ、黒」


「クロだ!」


「名などどうでもいい」


「俺には大事だ!」


 赤い戦士の糸が飛ぶ。


 ルビーが風を出そうとした。


 傷ついた前脚が揺れる。


「動くな!」


 俺はルビーより先に叫んだ。


「ここで戦えば、助けた七匹まで巻き込む!」


「黒焦げ!」


「話す。まず話す!」


「そいつら、あんたを捕まえる気やで!」


「見れば分かる!」


 糸が俺の六本脚へ巻きつく。


 ガーロとチュウタが前へ出る。


「大将へ触るな」


「クロを放せ!」


「二匹とも止まれ!」


 俺は瓦へ腹から転がった。


 悔しい。


 格好よく話へ割って入ったのに、二秒で芋虫みたいに縛られた。


「せめて立たせろ! この姿勢で交渉は無理だろ!」


「静かにしろ」


「口まで縛るな! 俺の武器の半分が喋ることなんだぞ!」


「半分もなん?」


 ルビーが呆れる。


「残りは逃げ足だ!」


「今、両方封じられとるやん」


「言うな! 自分でも分かってる!」


 ザハルが俺を見下ろした。


「黒い地下虫。お前を、ルビーを連れ去り、赤風巣の戦士を惑わせた疑いで拘束する」


「七匹本人がいるだろ!」


「人間の薬に操られている可能性がある」


「話を聞かない理由が強引すぎる!」


「正午、風の裁き場で審理する」


「今日の正午は人間の薬を止める時間だぞ!」


「なおさらだ。薬が流れれば、人間の敵意は証明される」


「流れない! 止めたんだよ!」


 ザハルは背を向ける。


「流れなければ?」


 俺が聞く。


 濃い朱色の触角が、わずかに止まった。


「その時は、お前の話を一呼吸だけ聞く」


「短すぎる!」


 風鐘が鳴る。


 正午まで、あと二刻。


 俺は人間の薬が流れないことを証明しながら、戦争を始めたい赤い一族の裁判で、一呼吸以内に無実を訴えることになった。

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