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敵にも帰る家がある

「大将、泣いてる?」


「薬が目にしみただけだ!」


「ゴキブリの目、涙出えへんやろ」


「じゃあ心にしみたんだよ! 細かいところを追及するな!」


 十二樽目の台座の下。


 デニスが息子への木彫りの鳥を持って帰った後、俺は前脚で目をこすっていた。


 泣いてはいない。


 本当に泣いてはいないのだ。


 ゴキブリの複眼から涙が流れる仕組みなんて、俺も知らない。


 ただ、胸の代わりに腹の奥が変に重い。


 熱を出した子どもが待っている。


 父親は、その子と村を助けるために地下へ薬を流す。


 その薬を、俺たちは勝手に入れ替えた。


「正しかったよな」


 誰へともなく言う。


 返事はすぐ来なかった。


 チュウタも、ルビーも、ガーロも、暗い床を見ている。


 みんなが俺に同意してくれれば楽だった。


 でも、仲間は俺を楽にするためにいるわけじゃない。


「クロニアを殺させるわけにはいかん」


 ガーロが最初に言った。


「だから薬を止めたことは正しい」


「でも?」


「村の子が治らなければ、それで終わりではない」


「……ああ」


 ルビーが傷ついた前脚を薬草布の上から叩く。


「あたしの仲間を捕まえたやつらや。許す気はない」


 声は硬い。


「せやけど、子どもが熱出すんは別や。そこまで喜ぶほど、あたし腐ってへん」


「喜んでほしくないよ」


「じゃあ、どうするん?」


「助ける」


 答えだけは早く出た。


 方法は、まったく出ていない。


「クロニアも、七匹も、村の子も。全部だ」


「大将」


 チュウタが俺の背を叩く。


「また問題、増やしたな」


「増えたんだよ! 俺が増やしたんじゃない!」


「ほな、減らしに行くか」


「軽いな!」


「重く言うたら解決する?」


「しない!」


「なら軽い方がええやろ」


 腹の重さが、ほんの少しだけ上がった。


 そうだ。


 悩むのはやめない。


 でも、悩み終わるまで動かないなんて言っていたら、明日の正午が来る。


「まず七匹を探す」


 ルビーの触角が跳ねた。


「匂いは建物の奥だったな」


「うん。まだ新しい」


「生きてるなら、村の異変も見てるかもしれない。助けて、聞く」


「助けるのが先やで」


「分かってる」


「ほんまに?」


「……聞きながら助ける」


「聞く気満々やん!」


     ◇


 赤い一族の匂いは、倉庫の壁の向こうへ続いていた。


 薬品棚の裏。


 人間の目には壁と棚がぴったり接しているように見える。


 だが、俺の触角が細い風を拾った。


「隙間、ある」


 棚と石壁の間に、触角一本分の暗い線。


 人間の指は入らない。


 ネズミも通れない。


 俺たちゴキブリには、立派な入口だ。


「腹の袋、全部外せ」


「硬焼きも?」


 二号が袋を抱える。


「全部」


「救出には食料が必要です!」


「その厚みでつかえたら、救出される側が一匹増える!」


「俺、薄くなります!」


「袋は薄くならない!」


 二号の食料をチュウタへ預ける。


「一枚、食べてもええ?」


「だめ!」


「二枚?」


「増やすな!」


 俺、ルビー、二号、クル、トワの五匹が隙間へ入る。


 横向きになり、片側の三本脚を壁、反対の三本を棚へつける。


 背と腹が同時にこすれる。


 人間だった頃なら、身体が挟まる想像だけで息苦しくなっただろう。


 今は違う。


 硬い殻へ圧が均等にかかる。


 細い風が呼吸孔の位置を教える。


 六本脚を互い違いに送ると、身体が狭い線の中を滑っていく。


「黒焦げ、速いな」


 後ろのルビーが言う。


「狭いところなら負けない」


「あたしもゴキブリやで」


「地上育ちは横幅がある」


「誰が太いって?」


「体格の話! 脚、蹴るな!」


「前へ進めへんからや!」


「俺を押すな! 顔が棚に出る!」


 ぎゅうぎゅう詰めの五匹が、棚の裏で押し合う。


 秘密の救出なのに、移動が満員の荷車より苦しい。


「大将、後ろが押してます!」


 二号の声。


「お前が押してるんだろ!」


「後ろのクルが!」


「二号の腹が戻ってくるんです!」


「硬焼き食べてないのに!?」


「腹は急に細くならない!」


 最後の出っ張りを越える。


 ぽんっ!


 俺たちは隣室の棚の陰へ、一匹ずつ押し出された。


 そこに、金網の箱があった。


 七つ。


 中で、赤い触角が動く。


「ルビー?」


 かすれた声。


「サラ!」


 ルビーが箱へ駆け寄る。


「みんな、生きとる!?」


「腹減った!」


「水!」


「あたし、まだ怒ってるからな! 助けに来るの遅い!」


「元気やな!」


 七匹全員から、好き勝手な返事が飛ぶ。


 ルビーの脚が止まった。


 触角を金網へ押しつける。


「……よかった」


 それだけは、とても小さかった。


 俺たちは冗談を止めた。


 ルビーが七匹の匂いを一匹ずつ確かめる。


 サラ。赤い殻に白い点がある。


 ボウ。右触角が短い。


 キキ。歩く時に左中脚を二度鳴らす。


 同じ赤いゴキブリではない。


 七匹、七つの匂いと傷と声。


 一匹も欠けていない。


「よし」


 俺は金網の留め具へ触角を向けた。


「全員で帰るぞ」


「誰、この黒焦げ?」


 サラが聞く。


「地下の大将」


 ルビーが答える。


「黒焦げ大将?」


「クロだよ! 余計な部分を引き継ぐな!」


「大声出すな、黒焦げ」


「ルビーが広めたんだろ!」


 七匹が笑う。


 捕まって、腹を空かせて、明日には薬の試験に使われるかもしれない。


 それでも笑える。


 強い一族だ。


「鍵は上」


 クルが箱を調べる。


 金網の扉は細い針金で巻かれている。


 外からなら二号の音魔法で外せる。


 試す。


 きいん。


 針金が震える。


 ほどけない。


「固すぎます!」


「もう一回」


「音を強くすると、人間に聞こえます」


 トワが箱の下を指す。


「底板と網の間なら、俺たち一匹ずつ入れる」


「中から外す?」


「七匹で押して、こっちから引く」


「それや!」


 ルビーが箱の隙間へ腹を入れる。


 傷ついた脚が金網へ当たった。


「あたしが行く」


「俺が行く」


「仲間はあたしの――」


「だから、怪我してない俺が狭いところへ入る」


「黒焦げ」


「役目を取るんじゃない。助ける役を分けるんだ」


 ルビーが俺を睨む。


 しばらくして、身体を引いた。


「……格好つけて挟まったら、一生笑うからな」


「その心配の仕方、ひどくない?」


「はよ行け!」


 金網と底板の隙間へ頭を入れる。


 触角を後ろへ畳む。


 背の殻がきしむ。


「狭っ! さっきより狭い!」


「大将ならいけます!」


 二号が応援する。


「お前が行け!」


「俺は歌の係!」


「便利な逃げ道にするな!」


 腹を一度、完全に床へつける。


 脚を前へ伸ばし、爪の先だけで網をつかむ。


 ずるっ。


 身体が入った。


 ゴキブリの薄さ。


 人間には嫌われる形。


 でも今、この形でなければ七匹のところへ行けない。


「入った!」


 箱の中から網を押す。


「外、引け!」


 クル、トワ、二号が網へつかまる。


 七匹も反対側から押す。


「せえの!」


 ぎぎぎっ。


 底板へ食い込んだ針金が浮く。


「もう一回!」


 二号が音を重ねる。


 きいんっ!


 共振した針金が、するりと留め具から抜けた。


 金網が持ち上がる。


「出ろ!」


 赤い一匹目。


 二匹目。


 七匹目。


 ルビーが出口で、全員へ触角を触れさせる。


「七匹」


 今度は声がはっきりしていた。


「七匹、帰ってきた!」


「おおっ!」


 歓声を上げかけて、また全員で口を塞ぐ。


 俺たち、夜の潜入に向いていない気がする。


     ◇


 救出した七匹へ、水と硬焼きを渡す。


 二号が一枚ずつ配り、最後に自分の分がないことへ気づいた。


「俺のは!?」


「七匹へ七枚渡したやろ」


「俺の袋なのに!」


「帰ったら五枚もらうんやろ?」


「それは心の治療分!」


 サラが自分の硬焼きを半分に割った。


「ほら、食べる?」


「いいんですか!?」


「うん。その代わり、歌わないで」


「条件が厳しい!」


「じゃあ返して」


「黙って食べます!」


 二号は本当に黙った。


 全員がその静けさを二呼吸ほど味わった。


「静かな二号、初めて見た」


「新鮮です」


「食べながらしゃべった!」


「口に入ってる分は喋ってません!」


 結局、静けさは長くは続かなかった。


 それでも、二号の口が食べ物で止まったのは今日が初めてだった。


「村の井戸について知りたい」


 俺は七匹へ聞く。


「虫が増えて、水路が汚れたって人間は言ってる」


「逆だよ」


 サラが答えた。


「水路が汚れたから、虫が逃げてきた」


「逃げた?」


「北の古い溝に、黒いぬるぬるが流れ込んだ。魚も小虫も苦しくなって、井戸の周りへ集まったの。うちらは人間の食べ物なんて取ってない」


 ボウが続ける。


「でも人間は、虫が水を汚したって思った。俺たちが溝を調べてたら、犬に見つかった」


 原因と結果が反対だ。


 薬で虫を殺しても、黒い汚れが残れば熱病は止まらない。


「黒いぬるぬる、匂いは?」


「腐った卵と、古い金属。それから白い火の匂い」


 先生の眼窩が強く光る。


『浄化管の逆流汚泥だ。北塔の排出弁が詰まり、処理前の泥が村側へ回っている』


「直せる?」


『弁の位置が分かれば』


「人間に伝えれば、デニスたちが直せるか?」


『図が読めればな』


 俺たちは顔を見合わせた。


 人間へ姿を見せるのは早い。


 喋りかければ、悲鳴か薬が飛んでくる。


 だが、図なら残せる。


「描こう」


「何に?」


「人間の紙」


 机の上に、大きな作業記録紙がある。


 俺たちの何十倍も高い。


「どうやって上がるん?」


「先生の右腕を投げる」


『なぜ私が筆記具なのだ!』


「指で炭を持てるだろ」


『持てるが、投げる必要はない!』


「格好いいから?」


 二号が言う。


『却下だ!』


 結局、チュウタたちと合流し、棚の脚へ糸を渡して先生の頭と腕を引き上げた。


 人間の炭筆は丸太ほど太い。


 そのままでは持てない。


 刃物箱の削り粉から、細い炭片を集める。


 俺とクルが紙の上を走って線を引く。


 チュウタとニイ、トトが炭片を押す。


 先生が古代設備の形を指示し、ジロが人間文字を一画ずつ読み上げる。


 ルビーと七匹が、実際に見た汚泥の流れを修正する。


「北排出弁、閉鎖」


「違う。半分詰まってる」


「じゃあ、詰まり印」


「人間に分かる印は?」


「大きいばつ」


「簡単すぎない?」


「分からないよりいい!」


 紙の上へ巨大な図ができていく。


 北塔。


 逆流する黒い汚泥。


 井戸。


 詰まった排出弁。


 殺虫液の十二樽には大きなばつ。


 代わりに、発酵液、苦草、菌床の比率。


 先生が最後に書く。


『虫を殺す前に、泥を流せ』


「人間、信じるかな」


 チュウタが聞く。


「分からない」


「また分からんの?」


「人間だった俺でも、机にこんな図が置いてあったら怖いよ!」


「ほな、何で描いたん!」


「他に方法がないからだ!」


 俺は隠していた認証札を、図の端へ置いた。


「返すの?」


 ジロが聞く。


「返す。俺たちが盗みたいんじゃないって、少しは伝わるかもしれない」


「塔への鍵を失います」


「必要なら、隙間から入る」


「ゴキブリやもんな」


 チュウタが笑う。


「そうだ。俺たちに人間の鍵は重すぎる」


 少し惜しい。


 いや、かなり惜しい。


 せっかく拾った珍しい鍵だ。クロニアの展示室へ置いたら、絶対に子どもが喜ぶ。


 でも、持ち主へ返す方がいい。


 悔しいから、白炎紋の型だけ泥へ押して記念に持ち帰ることにした。


「結局、何か持って帰るんや」


「思い出だ!」


「盗品の型を思い出って言う?」


「返したんだからいいだろ!」


「じゃあ俺も、樽の木くず持って帰る」


「それ、何に使うんだ」


「使い道は後で考える!」


「俺と同じ理屈だな!」


     ◇


 夜明け前。


 二十匹になった遠征隊は、机の下へ集まった。


 十三名で来て、七匹を助けた。


 帰りは二十匹。


「増える点呼は、悪くない」


 ガーロが言う。


「全員いる」


「帰る前に、結果を見る」


 俺たちは排水穴へ入り、格子の陰から倉庫を見た。


 朝の鐘。


 鍵が回る。


 デニスが入ってくる。


「今日こそ札を探さないと、始末書が……」


 机の前で止まった。


 認証札。


 巨大な図。


 発酵液の小さな試料袋。


 デニスの顔から眠気が消える。


「何だ、これ……」


 紙を持ち上げる。


「北排出弁? 逆流……まさか」


 指が、俺たちの書いた線をたどる。


 殺虫液へつけた大きなばつで止まる。


 作業員が怒鳴るかもしれない。


 警報を鳴らすかもしれない。


 図を丸めて捨てるかもしれない。


 俺の六本脚は、逃げる向きへそろっていた。


 それでも触角だけは、デニスへ向ける。


「誰が、こんなものを……」


 デニスが倉庫を見回す。


 机の下。


 樽の陰。


 棚の裏。


 最後に、床の排水穴へ目を向けた。


 巨大な瞳と、俺の複眼が合う。


「そこに、誰かいるのか?」


 デニスが膝をつき、地下へ続く暗い穴を覗き込んだ。

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