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薬を盗むな、入れ替えろ

白炎殺虫液へ、茸味噌を入れようとしている。


 自分で言っておいて何だが、正気ではない。


「違う! それは昼飯用!」


 俺は二号の前脚から、茶色い袋をひったくった。


「でも大将、発酵液といえば茸味噌でしょう!」


「俺たちの町の食事を、十二樽の薬と交換する気か!」


「歴史に残ります!」


「悪い意味でな!」


「《人間の村、味噌汁になる》」


「作戦名にするな!」


 北部浄化管理所の排水溝。


 人間の作業員が帰るまで、あと半刻。


 俺たちは格子の奥に身を隠し、夜の入れ替え作戦に使う液を並べていた。


 候補は三つ。


 一つ目、茸味噌の上澄み。


 匂いが強すぎる。却下。


 二つ目、白い粉を食べる菌床の絞り汁。


 効き目はあるが、濃すぎれば植物の根まで弱らせる。却下。


 三つ目、菌床の絞り汁を発酵水で薄め、苦草と酸葉を加えたもの。


 白い粉と水路の汚れを吸着し、強い匂いで普通の虫を井戸周りから遠ざける。触れても死なない。


「これなら村の衛生にも役立つ」


 先生が小さな石皿へ右の人差し指を入れた。


 さらさらだった白い粉が、丸い泥粒へ変わる。


『毒性魔素の吸着は本来液の六割ほど。殺虫性は、ほぼない』


「六割か……」


「足りない?」


 ルビーが聞く。


「人を殺さないための六割なら、かなり高い。でも、デニスたちが期待してるのは虫を全部殺す効果だ」


「全部殺す必要ある?」


「ない。けど、人間が効果なしと判断したら、次はもっと強い薬を流す」


 今回だけ樽を空にしても終わらない。


 管理所を壊せば、別の場所から薬が来る。


 人間を脅せば、兵士や火が来る。


 村の熱病が続けば、デニスたちは自分たちが間違っているとは思わない。むしろ薬が足りなかったと考える。


「毒は止める。汚れは減らす。井戸へ来る虫は匂いで別の場所へ誘導する」


 俺は三つ目の皿を指した。


「人間に、殺さなくても効くって結果を見せる」


「簡単に言うなあ」


 チュウタが液袋を持ち上げる。


「これ一袋作るだけで、ピコの通信板が三回熱うなったんやで」


 地下のピコへ材料の比率を伝え、クロニアで急いで調合してもらった。


 古代通信板は声だけでなく、小さな物なら転送できる。


 ただし、一回目は苦草だけ届いた。


 二回目は袋の口が開いた状態で届き、俺とジロが発酵液まみれになった。


 三回目で成功。


 現在、通信板は石なのに湯気を出している。


『次の転送は四百呼吸後です』


 板からピコの声がする。


「休ませていいぞ。必要量は来た」


『一回目から、そう言ってください』


「一回目は草しか来なかっただろ!」


『草の転送には成功しました』


「液が必要だったんだ!」


『指定が「三番の材料を送れ」でした』


「……俺が悪い?」


「大将が悪い」


 全員の声がそろった。


「こんな時だけ団結するな!」


 通信板の向こうで、ピコが笑う。


『全員で帰ったら、続きを聞かせてください』


「了解。板を冷やして待ってろ」


 声が切れる。


 俺は三つ目の液を一滴だけ触角へつけた。


 酸っぱい。


 土臭い。


 最後に、苦草の鼻へ残る匂い。


 白炎殺虫液は、薬草と金属、それから舌が痺れるような甘い匂いだった。


 全然違う。


「こんなの入れ替えたら、一発でばれるぞ」


「そこはあたしの仕事」


 ルビーが前へ出る。


 白炎殺虫液の樽から、風で匂いだけを薄く引き出す。


 薬に触れれば、傷ついた脚から入る危険がある。ミナが脚を薬草布と薄い油膜で二重に包んだ。


「三割まで」


「今日はそればっかりやな」


「守れよ」


「分かっとるって。七匹助ける前に、あたしが倒れたら格好悪いやろ」


 強がって笑う。


 でも、赤い触角の先は管理所の奥を向いたままだ。


 俺はそれ以上言わなかった。


 言う代わりに、ルビーの横へ自分の水筒を置く。


「使った分は返さへんで」


「返せとは言ってない」


「気前ええやん」


「二号に五枚請求された後だから、一滴くらい安く感じる」


「まだ四枚しか受け取ってません!」


「もう渡したの!?」


 ミナが俺を叱る。


「出発前の残りを……」


「怪我人より先に二号へ食料を増やすな!」


「俺は心の怪我人です!」


「口を閉じれば治る!」


     ◇


 日が沈んだ。


 管理所の扉が閉まり、人間の声が消える。


 犬は奥の犬舎へつながれた。


 昼間に隠した認証札も、トワとクルが回収している。


「侵入口は三つ」


 ジロが泥板へ線を引く。


「正面扉。床下の排水管。屋根の通気穴」


「正面」


 二号が言う。


「一番格好いいから!」


「扉をどうやって開けるんだ」


「鍵があります!」


 二号が認証札を叩く。


 かんっ。


「その鍵を認証穴まで持ち上げるのに、ネズミ五十匹要るぞ!」


「では屋根!」


「鳥に見つかる」


「排水管!」


「最初からそれだ!」


「俺の三段推理、完璧!」


「消去法だ!」


 排水管は、人間の腕も入らない。


 ネズミには狭い。


 だが、俺たちゴキブリなら通れる。


 平たく、脚を横へ開く。


 腹の節が石の出っ張りを一つずつ越える。


 湿った空気が身体の側面の呼吸孔へ入る。


 薬の甘い匂いは強い。


 嫌だ。正直、ものすごく嫌だ。


 人間だった頃、台所の隅へ薬を撒いたことを思い出す。


 噴き出した霧の向こうで何が起きているかなんて、考えもしなかった。


 今、ほんの少し匂いがするだけで、六本脚の付け根が逃げろと震える。


「俺、薬のあるところへ自分から入ってるんだよな……」


「今さら?」


 後ろの二号が言う。


「今さらでも愚痴らせろ! ゴキブリとして最も間違った方向へ進んでる気がする!」


「でも大将、薬を避けるのも上手くなりました」


「慣れたくなかった!」


 俺は触角を左右へ広げる。


 甘い匂いの濃い流れを避け、発酵液の匂い札を管の分岐へつける。


 見えなくても、どちらが薬樽へつながるか分かる。


 この身体は、嫌いなものを誰より早く見つける。


 臆病だから、生き残る。


 格好悪いと思っていた性質が、十三名と町を守る案内になる。


「右だ。薬は上。床へ漏れた分は左へ流れてる」


「さすが大将!」


「褒めるのは出てからにしろ。調子に乗って間違えたら全滅だ」


「自覚あったんや」


 チュウタの声が、後方の広い管から聞こえる。


「あるよ! 直せないだけだ!」


     ◇


 十二樽は、夜の倉庫に並んでいた。


 俺たちは床の細い排水穴から顔を出す。


 頭上に、丸い木壁が十二個。


 樽の底には、それぞれ小さな薬芯室がある。


 大樽の中身はほとんど水だ。明日、底の芯室に入れた濃縮薬と混ぜながら管へ流す。


『つまり入れ替えるのは十二樽分ではなく、十二個の薬芯だ』


 先生が囁く。


「先に言ってくれ!」


『昼は図面がなかった』


「あれだけ液を用意したのに!」


『余れば飲める』


「苦草入りだぞ!」


「二号なら飲む」


 チュウタが言う。


「俺を何だと思ってるんですか!」


「腹が丈夫な食料庫」


「半分くらい合ってる!」


 薬芯室の入口は、ゴキブリ一匹がぎりぎり通れる幅だった。


 底栓を外せば、濃縮液は床下の回収槽へ落ちる。


 そこは事故時に薬を封じるため、厚い鉛石と遮断鉱で囲まれている。


 毒を別の水路へ流す必要はない。


「よし。第一樽、始める」


 俺は防薬布を腹へ巻いた。


 チュウタたちが上げる発酵液は、細管につないだ葉袋へ入っている。


 ルビーは匂い合わせ。


 ガーロは全体の見張り。


 クル、バサ、トワは底栓の開閉。


 ジロが時間と量を測り、ミナが一樽ごとに俺たちの脚と呼吸孔を洗う。


 二号は――


「歌います!」


「歌うな!」


「でも、十二樽の順番を覚えるには歌が一番!」


「小声なら許す」


「一番、抜いて、二番、入れて――」


「歌詞が犯行そのものだ!」


「では《一番お風呂、二番はご飯》」


「何の順番か分からない!」


「家庭の匂いがして落ち着きません?」


「盗みの最中に落ち着くな!」


「盗みじゃなく入れ替えです、大将が言いました!」


「屁理屈だけは一人前だな!」


 最終的に、石、葉、根、穴の四拍を三回繰り返す歌になった。


 第一樽。


 俺が薬芯室へ潜る。


 木の壁と栓の隙間は、背の殻がこすれるほど狭い。


 奥で甘い薬臭が固まりになって押し寄せる。


 触角が勝手に後ろへ畳まれた。


「嫌だ嫌だ嫌だ! 前へ行けって言ってるのに、身体が全部帰ろうとしてる!」


「大将、いける?」


「いける! いけるけど、嫌なものはいけても嫌なんだ!」


 底栓へ前脚をかける。


 回らない。


 中脚も使う。


 まだ動かない。


「固い!」


「押す? 引く?」


「回す!」


「回りながら押す?」


「俺ごと回る!」


 六本脚で栓へ張りつき、身体を横へねじる。


 ぎ、ぎぎっ。


 栓が動いた。


 ぬるっ。


「うわっ!」


 濃縮液が細い筋になって噴き出す。


 俺の横を通り、回収穴へ落ちる。


 じゅううっ。


 下の遮断鉱が淡く光り、毒を封じた。


「排出量、予定の二倍!」


 ジロが言う。


「栓を半分戻せ!」


「今それをやってる!」


 脚先が滑る。


 腹帯へ液が触れ、ぴりっと痺れた。


 ゴキブリなんだから毒に強い。


 強いだけだ。平気ではない。


 怖い。痛い。今すぐ逃げたい。


 それでも細い俺しか、この栓へ入れない。


「糸、引け!」


 外でガーロが補助糸を張る。


 俺の腰が固定される。


 クルとトワが栓の外側へ体重をかける。


「大将、今!」


「せえの!」


 ぎちっ。


 栓が半分閉じた。


 流れが細くなる。


 ジロの四拍で必要量だけ抜き、今度は発酵液の細管を差し込む。


 チュウタ、ニイ、トトが葉袋を押す。


「入れるで!」


 酸っぱい液が芯室へ満ちる。


 ルビーの風が、元の薬臭を表面へ薄く重ねた。


「一樽目、交換完了!」


「やった!」


「喜ぶのは十二樽終わってから!」


 俺が言った直後、薬芯室の中で泡が膨らんだ。


 ぼこっ。


「何?」


 ぼこぼこぼこっ!


 発酵液が木に残った薬と反応している。


「泡! 止まらんで!」


 チュウタの声。


「大将、出て!」


「出口が泡で見えない!」


 茶色い泡が俺の顔を包む。


「ごぼぼっ! 茸味噌じゃないのに味噌汁になった!」


「歴史に残ります!」


「二号、喜ぶな!」


 ガーロの糸が俺を引く。


 泡の塊ごと、芯室から引きずり出された。


 ぽんっ!


 栓の隙間から泡が噴き、床へ丸い山を作る。


 全員が黙った。


 倉庫の外で、犬が吠えた。


「わんっ!」


「まずい!」


「泡を消せ!」


 ミナが塩粉を振る。


 消えない。


 先生が冷却魔法をかける。


 泡が固まって、もっと目立つ。


「白い山になった!」


『反応を止めただけだ!』


 二号が硬焼きの粉をかける。


「食べ物で吸わせます!」


 泡が粉を吸って茶色くなる。


 チュウタが鼻を近づけた。


「……これ、焼けば食える?」


「食べるな!」


「薬と触れたやつやぞ! 分かっとるわ!」


「じゃあ何で聞いた!」


「悔しかっただけや!」


 犬の鎖が鳴る。


 時間がない。


 俺は固まった泡を触角で調べた。


 反応しているのは、白い粉菌と薬が最初に触れた一瞬だけだ。


「先に薬芯室を水で洗う。残りの薬を回収槽へ落とし切ってから発酵液を入れる!」


「水、足りません」


 ジロが言う。


「樽の本体から借りる!」


 チュウタが細管を上の水室へつなぎ直す。


 第二樽。


 毒を抜く。


 樽水を一滴流して芯室を洗う。


 その水も回収槽へ。


 発酵液を入れる。


 泡は、小さな輪が一つできただけで止まった。


「成功!」


「一樽!」


「残り十一!」


「今度こそ歌います!」


「小声で!」


     ◇


 四樽目で、俺の脚が痺れた。


 ミナが交代を命じる。


「まだ行ける」


「その台詞を言うやつは、行かせん」


「でも芯室に入れるのは俺とクルと――」


「だからクルへ任せる。大将の代わりにできるよう、訓練したんやろ」


 俺は言い返しかけた。


 クルがすでに防薬布を巻いている。


「大将。一樽目で、栓の固さと流れは見ました」


「……怖くないか?」


「怖いです」


 即答だった。


「でも、大将も怖いまま入った。なら、次は俺が怖がる番です」


 格好いい。


 悔しいくらい格好いい。


「分かった。補助糸は俺が持つ」


「お願いします」


 五樽目はクル。


 六樽目はトワ。


 七樽目から、俺も戻る。


 誰か一匹が十二回耐えるのではなく、交代しながら進める。


 二号の小声の歌が順番をつなぐ。


 ジロが量を間違えない。


 チュウタたちが液を押す。


 ルビーが匂いを合わせる。


 ガーロが入口と犬の振動を見張る。


 十一樽目。


 十二樽目。


「最後、閉めるぞ!」


 俺、クル、トワの六本脚が栓へ並ぶ。


「石!」


 二号の拍。


「葉!」


 ぎりっ。


「根!」


 栓が回る。


「穴!」


 かちんっ!


 十二個目の薬芯室が閉じた。


「交換、完了!」


 声を上げかけ、全員で自分の口を塞ぐ。


 外には犬がいる。


 十三名で、音のない万歳をした。


 俺は嬉しくて触角を振り、隣のチュウタの鼻を叩いた。


 チュウタがくしゃみをする。


「へっ……へっ……」


「待て!」


「無理……へぶしっ!」


 倉庫へ巨大なくしゃみが響いた。


 犬が吠える。


「わんわんわんっ!」


「逃げろ!」


 その時、正面扉の鍵が回った。


 がちゃり。


 人間が戻ってきた。


     ◇


 逃げ道の排水穴は、扉の正面にある。


 走れば見つかる。


「樽の下!」


 俺たちは一番奥の十二樽目、その台座の隙間へ潜り込んだ。


 黒い靴が入ってくる。


 デニスだ。


「まったく、忘れ物ばっかりだな、今日は」


 机の上を探している。


 何を忘れた?


 認証札なら、こちらにある。


 気づかれたら倉庫全体を探される。


 俺の腹が床へ吸いつく。


 薄い体を、さらに薄くしたくなる。


 息を止めたいのに、身体の横の呼吸孔は一つの命令で全部止まってくれない。


 外の空気を吸うたび、薬と人間の革の匂いが入る。


 デニスの足が近づく。


 一歩。


 また一歩。


 台座の前で止まった。


「ここに置いたはずなんだが……」


 巨大な手が、十二樽目の横へ伸びる。


 二号が俺の後脚を握る。


 チュウタの髭が震える。


 ルビーは傷ついた脚を浮かせ、いつでも風を出せる姿勢だ。


 手が樽の陰から、小さな包みを取った。


「あった」


 認証札ではない。


 青い布で包まれた、木彫りの鳥だった。


 デニスが埃を払う。


「ルカ、まだ熱が下がってないかな」


 独り言が、暗い倉庫へ落ちる。


「明日の仕事が終わったら、すぐ帰るからな。これ、気に入ってくれるといいけど」


 木彫りの鳥を大事そうに上着へしまう。


 村の熱病を止めたい作業員。


 その家で、熱を出した子どもが待っている。


 俺の前脚が、床を掻いた。


 敵にも帰る家がある。


 そんな当たり前のことを、樽の下で初めて知った。

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