作業員を尾行せよ
「鍵が重すぎて、尾行できない!」
俺は開始五歩で叫んだ。
王立北部浄化管理所の認証札。
白炎紋が刻まれた、人間なら手のひらへ載る金属板だ。
俺たちには扉である。
チュウタ、ニイ、トトの三匹で葉ぞりへ載せ、俺とバサが前から引き、ガーロが後ろから押している。
ずりっ。
がごっ。
「石に引っかかった!」
「右へ傾けろ!」
「右って誰の右!?」
「進行方向の右!」
「大将、さっきそれ決めたばっかりやろ!」
「だから今は正しく言った!」
遠くでデニスの靴音が鳴る。
ずん。
ずん。
小さくなっていく。
「鍵を運べば見失う。置いていけば塔へ入れない。どうしろっていうんだ!」
「人間用の鍵を拾った時点で、普通は喜ぶところでは?」
ジロが走りながら記録板を見る。
「喜んだよ! さっきはな! 今は返したい! もう少し小さい鍵を落としてくれ!」
「人間に五センチの鍵は小さすぎます」
「知ってる!」
二号が認証札の上へ乗り、後ろ脚で床を蹴った。
「鍵よ走れ! 夢を載せて!」
「お前が降りれば軽くなる!」
「俺は応援係です!」
「重り係になってる!」
人間の足音を追うだけの作戦だった。
歩いた跡は地面へ残る。匂いも強い。相手は塔みたいにでかい。
見失う方が難しいと思っていた。
甘かった。
こちらが小さいと、落とし物一つで引っ越しになる。
「足音、間隔が広がっています」
ジロが言う。
「デニス、速度を上げた可能性」
「待てえええ! 落とした本人だけ手ぶらで速くなるな!」
「追いついたら、何て言うん?」
チュウタが息を切らしながら聞く。
「鍵、忘れてますよって?」
「返したら俺たちが困る!」
「ほな待て言うても無理やろ!」
「分かってるから愚痴ってるんだ!」
認証札がまた小石へ当たった。
かあんっ!
金属音が草むらへ響く。
全員が固まった。
デニスの靴音も止まる。
「……何だ?」
人間の声。
「伏せろ!」
「札も伏せるんですか!?」
「金属板に伏せ方なんかあるか!」
二号が札の上で両脚を広げた。
「俺が隠します!」
「指一本分も隠れてない!」
草が揺れる。
デニスが戻ってくる。
影が大きくなる。
認証札は朝日を反射して、ここにありますと叫んでいた。
「ルビー、光を消せるか?」
「風で?」
「砂をかける!」
「最初からそう言い!」
ルビーが傷ついた右前脚を浮かせたまま、左の翅を開く。
「二割!」
ふわっ。
地面すれすれの風が砂を巻き上げた。
クルとトワが札の両側から乾いた土をかける。
白く光っていた金属が、一息でただの泥色になった。
「全員、葉の下へ!」
十三名が倒れた葉へ潜る。
直後、黒い靴が戻ってきた。
ずしっ。
俺の脚先へ、体重移動の振動が刺さる。
昨日までなら、影を見てから逃げていた。
今は、靴の中の人間がどちらへ身体を傾けたかまで少し分かる。
左へ重い。
右靴が動く。
葉の横へ、どんっ。
砂が降る。
誰も飛び出さない。
「気のせいか……朝から疲れてるな、俺」
デニスが頭を掻く。
それから、また北へ歩き出した。
ずん。ずん。
音が遠ざかる。
「……見つからなかった」
ミナが息を吐く。
「見つからなかったけど、もう引いて運ぶのは無理だ」
俺は泥まみれの札を叩いた。
「こいつはここに隠す」
「鍵なしで追うんか?」
「場所を知ってから取りに戻る。持ったままじゃ、場所を知る前に日が暮れる」
平たい石の下を、チュウタたちが掘る。
札を差し込み、白炎紋と同じ形の匂い札を入口へ貼った。
ガーロが帰還糸を二本、別の根の裏へ隠す。
「後で必ず回収する」
「先生の指みたいに?」
二号が聞く。
『私の指は目印ではない』
「でも、よく見つかります」
『落とす前提で褒めるな!』
荷物が軽くなる。
俺たちは、ようやく尾行を始めた。
◇
人間を追うのに、人間の後ろを走ってはいけない。
これは地上の生存メモ第四条に即決した。
なぜなら、後ろには靴が来る。
「次、右足!」
「根の裏!」
黒い壁が持ち上がる。
俺たちは草の根へ張りついた。
靴底が頭上を通り、泥の粒がばらばら落ちる。
「次、左足!」
「石陰!」
十三名で飛び込む。
走って、伏せて、また走る。
人間の歩幅一つを、俺たちは何十歩もかけて埋める。
「これ、追いつけるの!?」
二号の声が裏返る。
「足音は近い!」
「でもずっと近いだけです!」
「いいから走れ!」
幸い、デニスは速くなかった。
さっきから独り言が途切れない。
「北塔まで荷車を押して、薬樽を下ろして、弁を確認して……俺一人の仕事じゃないだろ、これ。班長め、腰が痛いって逃げやがって」
「ずっと愚痴っとるな」
チュウタが言う。
「嫌いじゃない」
「親近感?」
「誰が愚痴仲間だ!」
「大将も、ずっと言うとるで」
「俺のは状況説明だ!」
「今のも愚痴やな」
「走れ!」
草むらが終わる。
前に現れたのは、木の板でできた巨大な床だった。
道ではない。
荷車だ。
二つの車輪は俺たちの町の広場より高く、板の上には樽と工具箱が積まれている。
デニスが取っ手を持つ。
「さて、行くか」
ぎいっ。
木の軸が鳴り、車輪が回った。
「待て待て待て!」
人間の歩みより速い。
このままでは完全に置いていかれる。
「乗るで!」
チュウタが荷車の後ろへ走る。
「どこに!?」
「下や!」
車体の底から、太い縄が一本垂れている。
地面すれすれを跳ねながら遠ざかる。
「届かない!」
「あたしが運ぶ!」
ルビーが翅を開いた。
「三割までだぞ!」
「今は二割五分!」
「端数でごまかすな!」
風が俺たちの腹の下へ入る。
身体が軽くなる。
「走れ!」
かさかさかさかさっ!
六本脚が地面を蹴る。
俺は縄の端へ飛びついた。
「取った!」
直後、縄が上へ跳ねる。
「うわああああ!」
俺の身体が宙へ持ち上がった。
飛べない翅が勝手に開く。
風を受けて右へ、左へ、もう一回右へ。
「大将が干し物になった!」
「見てないでつかまれ!」
チュウタが俺の後脚へ飛びつく。
二号がチュウタの尾へ。
その後ろへジロ、ミナ、ガーロたちが次々とつながる。
「重い! 後脚が取れる!」
「大将、耐えて!」
「応援じゃなく前へ来い!」
「応援も大事な役目です!」
「役目は後脚から離れてから言え!」
ガーロとバサが身体の列を縄へ引き寄せる。
クルとトワが先に上り、縄の結び目へ補助糸を回した。
最後にルビーが弱い風で全員の身体を押し上げる。
十三名が、荷車の底へ張りついた。
「点呼……」
ガーロが息を切らす。
「十三、いる」
「先生の右腕も!」
二号が言う。
『私の数え方を早く統一してくれ』
荷車は進む。
頭上では木板がぎしぎし鳴り、左右で車輪が土を砕く。
下は地面が猛烈な速さで流れていく。
落ちたら、次の車輪が来る。
怖い。
死ぬほど怖い。
なのに、腹の奥が少し浮いていた。
「これ、すごくないか?」
「何が?」
「人間の乗り物へ、ただで乗ってる」
「そこ?」
「ゴキブリ転生して初めての乗車だぞ!」
「客扱いはされてへんで!」
「料金も取られてない!」
「落ちたら命を取られる!」
言われてみれば高すぎる運賃だった。
それでも、歩けば何百倍もかかる道を、荷車は一息ごとに進んでいく。
草の森が流れる。
朝日が車体の隙間から点滅する。
ゴキブリの身体で乗る巨大荷車は、遊園地の乗り物より迫力があった。
安全帯が細糸一本しかないのが致命的だが。
◇
荷車が石の道へ入った。
ごとっ、ごどどどどっ!
車輪が石の継ぎ目を踏むたび、木板全体が上下に跳ねる。
「腹が! 腹が平たくなる!」
二号が叫ぶ。
「お前は元から平たい!」
「もっとです!」
ガーロが補助糸を確認する。
「一本、緩んだ!」
「トワ、左! クル、二号の袋を外せ!」
「どうして俺のだけ!?」
「一番揺れてる!」
車体の振動へ声が消される。
俺は六本脚で木板を叩いた。
とん、とん、ととん。
石、葉、根、穴。
クルが合図を読み、二号の食料袋を切る。
「俺の昼飯いいいい!」
袋は落ちず、後ろを走る車輪の軸へ引っかかった。
ぐるん、ぐるん。
回転する軸に巻き込まれていく。
「待って! 昼飯が車輪の一部になる!」
「取りに行くな!」
二号が後ろへ這おうとするのを、ジロが尾帯で止めた。
「硬焼き二枚と命一つ。交換比率が不適切です」
「三枚です!」
「もっと駄目です」
袋が軸へ完全に巻きついた。
すると、古い軸のきしみが少し小さくなった。
ぎいいっ、という甲高い音が、ぐぐぐっ、へ変わる。
「油布の代わりになっています」
ジロが言う。
「二号の硬焼き、初めて荷車の役に立ったな」
「食べ物です! 車輪に食べさせるため焼いたんじゃない!」
「帰ったら同じの作ってやる」
「五枚!」
「三枚だろ!」
「心の負傷分です!」
「交渉だけ元気だな!」
荷車が止まった。
俺たちは、石垣の前で降りる。
前方には人間の家が並んでいた。
辺境村ラナだ。
俺にとって初めて見る、人間の集落。
一軒の家が山のように高い。
窓は空に浮かび、扉は城門、道を横切る鶏は羽毛を持つ巨大魔物にしか見えない。
「あれ、鳥やんな?」
チュウタが鶏を見る。
「鳥だな」
「飛ぶ?」
「あまり飛ばない」
「なら勝てる?」
「どうして戦う前提なんだ!」
こっこっこっ。
鶏がこちらへ顔を向けた。
黄色い目。
鋭いくちばし。
俺たちは全員、石垣の穴へ飛び込んだ。
「勝てません!」
チュウタが即座に訂正した。
「判断が早くてよろしい!」
石垣の隙間を進み、デニスの荷車と並走する。
人間の道へ出る必要はない。
石の中は暗く、湿っていて、細い身体の俺たちには大街道だった。
「やっぱり落ち着く……」
俺は思わず腹を石へつけた。
「暗い。狭い。天井がある。最高だ」
「地上に来て言う感想ちゃうで」
「だって安心するんだよ! 空はどこまでも空だし、靴は落ちるし、太陽は焼いてくるし!」
人間の俺なら、狭い穴なんて入りたくもなかった。
今は違う。
背と腹が同時に石へ近づく細さが、ありがたい。
触角を前へ伸ばせば、見えない曲がり角の空気まで分かる。
暗闇が怖くない。
ここは、俺の身体に合っている。
「ゴキブリでよかった……いや、全部がよかったとはまだ言わないぞ。靴に踏まれかけたばっかりだし。でも、こういう道では、かなりいい」
「誰に言い訳しとるん?」
「昔の俺!」
「忙しいな、大将」
ガーロが小さく笑う。
◇
石垣の終わりで、道の下へ水が流れていた。
排水溝だ。
デニスはその向こうにある低い建物へ荷車を押していく。
屋根の上には白炎紋の旗。
北部浄化管理所。
「見つけた」
ルビーの触角がまっすぐになる。
捕らわれた七匹の匂いは、建物のさらに奥から来ていた。
甘い薬品臭。
猟犬。
赤い一族の乾いた匂い。
「生きとる」
ルビーの声が震えた。
「七匹とも?」
「そこまでは分からん。でも、うちらの匂いが新しい」
今すぐ行きたい。
俺の脚まで前へ出た。
だが、排水溝の向こうでは、デニスとは別の作業員が二人待っている。
犬も一頭。
昼の光。
逃げ道は一本。
「今は聞く」
俺は前脚を止めた。
「場所と人数と、何をする気か。助けるのは、帰れる道を作ってからだ」
ルビーの触角が激しく揺れる。
「分かっとる。分かっとるけど……遅かったら、どうすんねん」
「遅くしない」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。だから十三名で来た」
言い切った後で、喉の代わりに呼吸孔が詰まる感じがした。
俺だって怖い。
待ったせいで間に合わなかったら、隊長ぶった自分を一生許せない。
でも、その怖さを消すためだけに飛び込めば、七匹と十三名をまとめて失う。
ガーロが俺の横へ立った。
「大将。後ろは俺が数える」
チュウタがルビーの反対側へ出る。
「前は一緒に行く」
二号が腹の袋から、粉になった硬焼きを出した。
「待つ間、食べる?」
「なんで今やねん!」
ルビーが怒鳴った。
怒鳴った後、粉を一つまみ取る。
「……一口だけ」
「汁がないと、むせるで」
「先に言え!」
小さな笑いが戻った。
俺たちは排水溝の格子へ張りつき、人間たちの話を聞く。
「村の熱病、また二人増えたって?」
若い作業員が言う。
「ああ。井戸の周りに虫が増えてる。納屋の穀物も食われた」
デニスが樽を下ろしながら答える。
「水路の泥もひどい。去年みたいに腹を壊す子が出る前に、全部洗わないとな」
「でも北管は地下遺構につながってるんだろ。濃度、強すぎないか?」
「規定量だよ。虫と小魔物には効くが、人には害がない」
虫と小魔物。
俺たちだ。
「村を守りたいんやな」
チュウタが小声で言う。
「ああ」
間違っていない。
熱病が出て、井戸が汚れ、穀物が食われている。
人間から見れば、地下へ薬を流すのは衛生対策だ。
俺だって娘の暮らす町で病気が広がったら、虫より娘を選ぶ。
選ぶ。たぶん。いや、前の俺なら迷いもしなかった。
今は、その「虫」の一匹一匹に名前があると知っている。
食堂があって、学校があって、帰りを待つ家族がいる。
デニスは知らない。
知らないまま、守ろうとしている。
だから腹が立つ相手を殴れば終わり、という話ではなかった。
「明日の正午、北塔から流す」
デニスが樽の蓋を叩く。
ごん、と重い音が排水溝へ響いた。
「白炎殺虫液、十二樽。古い支管も全部開ける。これで地下の虫は一匹残らない」
俺たちの足元を流れる水が、急に冷たく感じた。
明日の正午。
白炎殺虫液、十二樽。
北の支管は、クロニアへつながっている。
「一匹残らない、か」
俺は濡れた前脚を強く握った。
「残念だったな」
触角を上げる。
「こっちは、しぶとさだけで町を作ったゴキブリだ」
壊すだけでは人間の村を病気から守れない。
全部流させればクロニアが死ぬ。
なら、薬を止めて、村も救う。
面倒が二つなら、両方やる。
「今夜、あの十二樽を入れ替えるぞ」
二号の触角が跳ねた。
「作戦名、《毒樽ぜんぶいただき――》」
「盗まない!」
「まだ最後まで言ってません!」
「顔で分かる!」
「ゴキブリの顔、読めるようになったん!?」
「お前だけは読める!」
北部浄化管理所の鐘が鳴る。
夜まで、あと半日。
クロニアが消えるまで、あと一日だった。




