靴底からの一秒
人間の靴が、空から落ちてくる。
逃げろ。
頭はそう叫んでいる。
だが、俺の六本脚は動かなかった。
恐怖で固まったからじゃない。
地面が、先に動いたからだ。
ずずんっ。
一歩目の靴が土を押す。
砂粒が跳ねるより早く、重い振動が六本の脚先を通って腹へ届く。
右後脚には強く、左前脚には弱い。
人間の体重が一歩目へ移り、二歩目が前へ振り出されている。
影は広い。
だが、全部が同時に落ちるわけじゃない。
先に来るのは、踵だ。
「チュウタ、左!」
「どっちの左や!」
「俺の左!」
「向き同じや!」
「じゃあ早く行け!」
チュウタの横腹へ、頭から突っ込む。
「うおっ!?」
重い身体が半歩ずれた。
足りない。
先生の頭と右腕を背負っている分、いつものように転がらない。
「先生、腕を伸ばせ!」
『右か?』
「右しか持ってきてない!」
『そうだった!』
先生の右腕が地面をかく。
骨指が砂へ刺さり、チュウタの身体を引く。
俺は六本脚を全部、横へ向けて押した。
「ぬおおおおおっ!」
人間だった頃なら、ネズミ一匹を押すなんて簡単だったはずだ。
今の俺はゴキブリだ。
体重差は、愚痴を百回言っても埋まらない。
だから六本全部で押す。
腹まで使う。
触角が折れそうでも、あと一粒分。
あと半粒分。
「動けええええ!」
チュウタの後脚が、靴の影から抜けた。
次の瞬間。
どおおおおおんっ!
黒い靴底が落ちた。
世界が潰れる。
砂が壁になって押し寄せ、俺たちを草の根元まで吹き飛ばした。
「ぐわっ!」
「先生!」
『頭はある! 右腕も……指が一本ない!』
「探すな! 今は頭優先!」
『三十年ぶりに生えそろった指なのだぞ!』
「生えてはいない!」
靴が地面へ沈んでいる。
チュウタがいた場所には、深い模様が刻まれていた。
あと一秒遅かったら。
いや、一秒なんて長くない。
砂粒が二度跳ねるくらいだ。
その短さで、チュウタが平たい跡になっていた。
「クロ!」
チュウタが俺の背を前脚で叩く。
「生きとるか!?」
「叩く前に聞け! 殻が割れる!」
「大丈夫そうやな!」
「判断が雑!」
俺もチュウタの毛へ触角を当てる。
震えている。
俺だって震えていた。
「怖かった」
「俺もや」
「重すぎるんだよ、お前!」
「助けた後にそこ怒る!?」
「次から先生を半分持て!」
『私はすでに頭と右腕しかない』
「じゃあ、頭だけ!」
『右腕を置いていけと!?』
怒鳴り合える。
まだ生きている。
だが、安心する暇はなかった。
「全員、伏せろ!」
ルビーの声が、靴の反対側から聞こえた。
どこにいる?
見えない。
巨大な靴底一枚が、隊を真ん中から二つに割っていた。
いや、砂煙の向こうでも小さな声がする。
「ガーロ隊、七匹!」
三つだ。
隊が三つに分かれた。
そして人間は、次の一歩を始める。
◇
靴が持ち上がった。
底に押し固められた泥、小石、千切れた草。
あれが全部、さっきまで地面にあったものだ。
「人間は、あんなものを毎日ぶら下げて歩いてたのか……」
「感心しとる場合か!」
チュウタが俺を草の根へ引っ張る。
人間の足が前へ進む。
一歩目。
ずん。
二歩目。
ずん。
遠ざかるかと思った。
ところが巨大な身体が止まり、向きを変えた。
「戻ってくるで!」
砂に残った靴跡を見ているらしい。
いや、移動葉陰一号だ。
風圧で吹き飛んだ三枚葉が、人間の道の上へ転がっている。
葉に結ばれた細縄。
小さな車輪。
自然にできたものではない。
「見つかった?」
「まだ分からん。でも、あれを拾われたら調べられる」
「回収するぞ」
「今!?」
「俺たちの匂いも糸もついてる。町まで追われたくない」
チュウタが靴跡の向こうを見る。
「あれまで二十歩。人間は?」
「次の振動で読む」
俺は腹を地面へ近づけた。
脚先を少しずつ広げる。
前脚は細かな揺れ。
中脚は左右の差。
後脚は、遅れてくる重い波。
地上の土は地下の石床より柔らかく、振動がすぐぼやける。
風で草も揺れる。
鳥の羽音、虫の跳躍、遠くの荷車。
音だらけだ。
でも、人間の一歩だけは違う。
地面を上から押す前に、すでに立っている靴へ体重が集まる。
小さな予告が、必ず来る。
ず、ず……。
「右の靴へ体重。次は左が動く」
「どこへ落ちる?」
「分からない」
「分からんの!?」
「足首の向きまでは地面から読めない!」
「ほな、どうする!」
「一歩目が落ちるまで動かない」
「怖い作戦やな!」
「俺だって嫌だ!」
影が動く。
人間の左靴が、移動葉陰一号の近くへ下りた。
ずどんっ!
着地点は葉から五歩。
「今!」
俺とチュウタが飛び出す。
人間は片足を置いた直後、すぐには同じ足を動かせない。
次の一歩までの短い時間。
俺たちにとっては、全力で二十歩を走れる長さだ。
「縄を切れ!」
俺は移動葉陰一号へ滑り込む。
チュウタが前歯で細縄を噛み切った。
三枚葉はただの枯れ葉へ戻る。
車輪と軸だけが残る。
「これも持つ!」
「重いぞ!」
「口に入る!」
チュウタが軸をくわえ、車輪二つを引きずる。
俺は匂いの強い結び目を抱えた。
「戻れ!」
ず、ずず……。
次の一歩の予告。
影がこちらへ伸びる。
「間に合わん!」
草の根までは十歩。
俺一匹なら入れる。
チュウタと車輪は無理だ。
「靴跡へ降りろ!」
「踏まれた場所に!?」
「同じところは踏まない!」
「絶対か!?」
「人間だった頃の俺なら!」
「知らんがな!」
二匹で直前の靴跡へ飛び込む。
深い溝の底へ身体を伏せる。
次の靴が、頭上を通った。
風が殻を地面へ押さえつける。
少し先へ、どんっ!
「通った!」
「人間の歩き方に助けられた……」
変な気分だった。
さっきまで、靴を履いて歩く側だった気がする。
今は、その足跡の溝を避難所にしている。
人間の俺なら、ここにいる命なんて見えなかった。
見えなかっただけで、いなかったわけじゃない。
「また顔が難しくなっとるで」
「ゴキブリの顔が分かるのか?」
「触角、止まっとる」
「考えてたんだよ」
「考えるんは、隠れてからにし」
「ごもっとも!」
俺たちは靴跡の溝を走り、草の根へ戻った。
◇
まず、仲間を集める。
声は出せない。
人間が近い。
通信板は、砂煙でチュウタの荷物の奥へ入り込んだ。
俺は地面を四拍で叩く。
石、葉、根、穴。
昨日決めた帰還合図だ。
とん、とん、ととん。
少し離れた石の下から、同じ拍が返る。
ルビーたちだ。
もう一方。
しばらく何もない。
「ガーロ……」
チュウタが髭を地面へつける。
もう一度。
とん、とん、ととん。
返事はない。
人間の靴が、近くで向きを変える。
どん。
土が揺れる。
その大きな振動が消えた後。
とん、とん、ととん。
弱い返事が来た。
「いる!」
「声、抑えろ!」
「いるんや!」
石の割れ目からガーロが顔を出す。
後ろにクル、バサ、トワ、ニイ、トト、ミナ。
七匹全員いる。
ルビー側には二号とジロ。
俺、チュウタ、先生。
十三名。
「先生の指が一本足りない」
『名簿上は私の一部だ』
「今それ数える!?」
「全員分や」
ガーロは真顔だった。
「一匹も、一片も置いていかん」
指骨は最初の靴跡の縁に刺さっていた。
トワがすでに回収している。
『私の人差し指!』
「よかったですね」
トワが差し出す。
『ああ。これがないと人を注意する時に困る』
「別の指でいいだろ!」
全員が小さく笑った。
笑い声は、靴音に消えた。
怖い音だ。
でも今は、十三名が同じ根の下にいる。
「負傷確認」
ミナが一匹ずつ診る。
擦り傷三、砂が目に入った者二、二号の硬焼き一枚が粉砕。
「重傷です!」
「硬焼きは数に入れん」
「俺の心が!」
「その粉、昼飯の汁に入れれば食える」
「治りました!」
早い。
「見た目で分かるものは見た目で判断する。それだけだ」
「頼もしい割り切りだな」
ルビーの脚も無事だ。風を使わず、二号とジロを石陰へ押し込んだらしい。
「黒焦げ、チュウタを押したんやって?」
「重かった」
「そこしか言わんのか!」
チュウタが怒る。
本当は、間に合った瞬間に泣きそうだった。
でも、それを言うとたぶん俺より先にチュウタが泣く。
だから重かったことにしておく。
「次からは、靴の影より振動を先に見る」
俺は地面へ四本の線を引いた。
「立っている足へ体重が寄る。次の足が動く。踵が先に落ちる。着地直後の一瞬は、その足が動かない」
ジロが記録する。
「《人間歩行四段階》」
「地上の生存メモやな」
チュウタが言う。
「第一条、人間の影を見てから逃げるな」
二号が粉になった硬焼きを袋へ集めながら続ける。
「第二条、踏まれそうになったら大将の近くへ!」
「俺一匹に集まるな!」
「第三条、硬焼きは粉になっても昼飯!」
「それは生存に関係あるのか?」
「大ありです!」
「第四条もある?」
ジロが炭筆を構える。
「ある! ……何にしよう」
「今考えてたんかい!」
「第四条、思いついた時に足す!」
「メモの体をなしてへん!」
地上の生存メモは、早くも食事の話になった。
ただ、笑って書いただけでは身体が覚えない。
「ガーロ、靴役を頼めるか」
「俺が人間の靴か?」
「隊で一番、歩く振動が重い」
「褒められている気がしないな」
ガーロが少し離れた土を踏む。
ずん。
「今のが一歩目! 次に体重が寄った側と反対へ靴が出る!」
「ほな、こっちや!」
チュウタが走り、二号が逆へ走り、正面衝突した。
「なんでや!」
「俺から見た反対です!」
「向きをそろえろって、さっき大将も失敗したやろ!」
「あれは緊急時だった!」
進行方向を白炎紋の方角へそろえ、もう一度。
今度は十三名が同じ側へ動く。
三回目には、ガーロが脚を上げる前に全員が伏せた。
「早すぎる」
「ええことやろ?」
「これは俺が鼻をかいただけだ」
「紛らわしい!」
「でも反応は悪くない」
ガーロがわずかに口の端を上げた。
「褒めても、もう伏せた後や」
「褒め言葉の速度も練習しろってことだな」
「そんな種目、聞いたことない!」
敵の一歩を読む練習なのに、最後はガーロが鼻をかくたび全員が逃げる遊びになった。
それでも、脚先へ意識を集める速さは確実に上がった。
怖いものは消えない。
なら、怖がり方を練習すればいい。
一匹で震えるより、十三名で間違えて同じ方向へ転がる方がずっとましだ。
◇
人間はまだ近くにいた。
低い声で何かを愚痴っている。
「朝から点検だの、犬が勝手に走るだの……ああ、もう。北の塔まで行ったら絶対休むからな」
言葉が分かる。
巨大な敵の声ではない。
疲れた一人の声だ。
しゃがみ込み、靴底へ挟まった小石を取ろうとしている。
「伏せろ」
人間の顔が空から近づく。
こちらを見ているわけではない。
それでも目の玉一つが、俺たち全員より大きい。
「いたた……何だ、この草」
指が移動葉陰一号の残骸をつまむ。
心臓が縮む。
縄は切った。車輪も回収した。
人間は三枚の葉を見て、ただ放り捨てた。
「何でもないか」
助かった。
立ち上がろうとした時、腰の帯に下がった金属札が石へ当たった。
かちん。
錆びた留め輪が外れる。
札が草むらへ落ちた。
人間は気づかない。
「今度こそ行くか……」
靴音が遠ざかる。
北へ。
俺たちが向かう方向へ。
「あいつ、北の塔って言ったな」
「熱を出した制御塔かもしれへん」
ルビーが草陰から出る。
落ちた札は、俺たちには大きな扉ほどあった。
表面の泥を、先生の指骨で削る。
白い炎の紋章が現れた。
その下に、古代文字と今の人間文字が並んでいる。
先生とジロが同時に読む。
『王立北部浄化管理所』
「保守作業員、デニス」
靴の持ち主の名だ。
その札には、北の制御塔へ入るための認証石まで埋め込まれていた。
俺たちを踏みかけた人間が、目指す場所の扉を開ける鍵を落としていった。
「追うぞ」
靴音はもう小さい。
だが、今の俺には聞こえる。
一歩ごとに地面を揺らす、巨大で、疲れていて、少し愚痴っぽい道しるべだ。




