骨先生の記憶
保守通路へ入った瞬間、先生の右脚だけが走り出した。
「先生の脚が逃げた!」
『逃げていない! 追え!』
白い骨の脚は、がしゃ、がしゃ、と石床を蹴って奥へ進む。
胴も頭も、俺たちの後ろだ。
右脚一本だけが、何かに引かれるように暗闇へ走っていく。
「自分の脚へ命令できないんですか!?」
『命令する前に動いた!』
「身体の持ち主なのに!」
『三十年ばらばらだったのだぞ! 多少の自由行動は許せ!』
「自由すぎる!」
俺と二号が追う。
チュウタは先生の胴を背負い、クルが頭蓋骨を抱える。
ガーロとバグが後ろを守る。
「胴、意外と重い!」
チュウタが息を切らす。
「骨に脂肪はついてないでしょ」
「骨自体が重いんだよ!」
「頭は軽いで」
クルが頭蓋骨を抱えたまま笑う。
『誰か、私の意見も聞け』
「今バラバラだから聞けない!」
右脚は一度も迷わなかった。
左。
右。
三つ目の分岐だけ中央。
床の段差を越え、古い扉の前で止まる。
そして、足先で石板を三回踏んだ。
こん、こん、ここん。
扉の縁へ青い光が走る。
『……この拍を、知っている』
クルに抱えられた先生の声が、かすれた。
「先生が思い出した?」
『いや。脚が覚えていた』
「脚の方が頭より記憶力いいん?」
「二号、今は突っ込むな」
「大将も今、同じ顔しとったで」
「ゴキブリの顔を読むな!」
先生の右脚を戻す。
左右を確かめる。
青い印が右。
今度こそ間違えない。
「右脚、装着!」
『それは上下が逆だ!』
「難しい!」
やっぱり一回、間違えた。
「先生、自分の身体なのに難易度高すぎません?」
『三十年分ばらばらだったのだぞ、慣れろ』
「慣れる方も大変だ!」
第二浄化炉の保守通路は、人間の技術者が通るために作られていた。
俺たちには広すぎる。
壁の石一枚が家ほどある。
天井の古い照明は、遠い星みたいに点いている。
床には二本の金属溝。
かつては大きな運搬台が走っていたらしい。
今は錆と白い粉が積もり、触角へ冷たい魔力臭が刺さる。
俺たちは全員、腹と脚へ濡れ布を巻いていた。
先生の骨にも薄い粘土を塗る。
『眼窩へ入れるな』
「骨なのに目薬みたいなことを言う!」
『見えにくくなるのだ!』
白食み菌の小袋を、後ろの石箱へ一つだけ置いた。
通路へ撒かない。
廃粉が漏れた時、箱の中へ回収した分だけ処理する。
使えるからといって、何にでも使わない。
昨日決めたばかりの約束だ。
「先生。この先に何がある?」
『記録室。制御盤。保守具の倉庫』
「思い出したの?」
『口が勝手に答えた』
先生が自分の顎へ手を当てる。
『私は、ここで働いていた』
短い言葉だった。
誰もすぐに返さない。
白い粉が俺たちの命を奪いかけた場所。
先生が、その設備を知っていた。
いや、作る側にいたかもしれない。
先生の眼窩の光が、小さく揺れている。
「まず、扉を開けよう」
俺は言った。
「思い出すのは一つずつだ。脚が先でも、口が先でも、あとで頭が追いつけばいい」
『クロ』
「それに、先生の頭だけ置いて帰れない」
『よいことを言った直後に崩すな!』
「緊張してるんですよ、俺も!」
扉には、人間の手形が刻まれていた。
五本の指。
先生が右手を重ねる。
骨の大きさは、ぴたりと合う。
反応なし。
『生体魔力の照合だ』
「照合って、指紋みたいな?」
『違う。魂の波長だ』
「先生の魂、独特そうですもんね」
『褒めているのか貶しているのか分からんぞ』
「先生は生きてるぞ」
『魂はな。だが肉と血がない』
先生の骨指が、手形の上でわずかに震えた。
通れない。
自分が作ったかもしれない扉なのに、今の身体では仲間として認められない。
「古代設備、身体の違いに厳しすぎるだろ!」
俺は扉を蹴った。
当然、びくともしない。
『物へ怒るな』
「先生が怒らないから代わりに怒ってるんです!」
『……そうか』
「そこで素直になると、こっちが恥ずかしい!」
手形の指先には、小さな魔力石が五つ。
生きた手から流れる魔力を、親指から順に読む仕組みらしい。
「肉がないなら、俺の雷を流す」
『強すぎれば記録石が割れる』
「鍋じゃないから大丈夫!」
「鍋でなくても壁へめり込ませたやろ」
二号が嫌な記録を持ち出す。
「今の俺は、ちりんと鳴らせる!」
「一回成功しただけ」
チュウタまで!
「加減できるんか、ほんまに」
「できる! たぶん! やってみないと分からないけど!」
「不安しかない!」
「それでもやるのが俺たちだろ!」
「そこだけ格好つけるな!」
「だから全員で加減するんだよ!」
先生の右手を、手形へ固定する。
チュウタが土魔法で手首を支える。
ガーロは、五本の指へ細い蜘蛛糸を一本ずつ結んだ。
二号が歌で順番を知らせる。
俺は先生の腕の中へ身体を入れた。
骨の隙間。
人間の腕なら入れない場所だ。
今の薄い身体なら、橈骨と尺骨の間へ腹を滑らせられる。
「先生の腕の中、落ち着かない!」
『私の方が落ち着かん!』
「大将、そこから雷を流せるか」
ガーロの声。
「やる!」
腹の呼吸孔へ、冷たい空気を入れる。
六本脚を骨へ一本ずつ置く。
雷を強く撃つのではない。
先生の腕へ、薄く流す。
「準備!」
二号が歌う。
「親指、起きやー。次は人差し指やでー」
「歌詞が指の点呼!」
「分かりやすいやろ!」
親指。
パチッ。
一つ目の石が青くなる。
人差し指。
パチッ。
二つ目。
中指。
俺の雷が少し強くなった。
記録石が白く明滅する。
『抑えろ!』
「分かってるけど、骨の中で反響する!」
チュウタが土の支えを少し緩める。
余分な震えが床へ逃げた。
ガーロが三本目の糸を引き、指先を一度だけ離す。
雷が細くなる。
「今!」
パチッ。
三つ目が安定した。
「あと二本!」
「数えなくていい、見れば分かる!」
「実況したいだけや!」
薬指。
小指。
五つの石が、先生の骨手を通して同時に光る。
扉の奥で、重い歯車が動いた。
ご……ごごごごっ。
石と金属が何十年ぶりに擦れ、細かな錆が床へ雨のように落ちる。
俺の腹へ、低い震えが突き上げる。
扉が左右へ開いた。
『生体補助、照合』
『保守技師、エルド・ヴァンナー』
『入室を許可』
先生の身体が止まった。
「エルド」
俺は表示を読む。
「それが、先生の名前?」
『……そうだ』
返事が来るまで、長い一拍があった。
『私は、エルドだ』
二号が触角を上げる。
「ほな、エルド先生やな!」
「そこは先生を外さないんだ?」
「外したら誰か分からん」
「名前を思い出した意味!」
「じゃあ普段は先生、怒られた時だけエルドで」
「呼び分ける意味が分からん」
「そこは俺の趣味だ!」
「隊長の趣味で先生の名前が使い分けられてる!」
先生――エルドの顎が、かすかに鳴った。
笑ったのだと思う。
記録室には、薄い金属板が何百枚も並んでいた。
人間用の机は巨大な崖だ。
俺たちは机の脚を壁のように登る。
先生はチュウタの背へ乗り、古い制御盤まで運ばれた。
「自分の記録室なのに運ばれるんですね」
『今の私は移動方式が変わったのだ!』
「格好よく言った!」
「崖登り、得意分野やん」
「得意なのはいいけど、今日何回登った?」
「数えてない」
「数えろ。あとで脚が痛くなるぞ」
制御盤へ近づくたび、先生の記憶が戻った。
白い服。
青い手袋。
何人もの技師が、管の流量を読み上げる声。
水から毒を抜き、地下で種を育て、地上へ安全な水を返す計画。
先生は、その中心にいた。
『私は、魔力吸着材を作った』
「白い粉を?」
『ああ。毒性魔素だけを吸い、再処理炉で洗って戻す。生き物には反応しないよう、何重にも制限を入れた』
先生の骨指が、制御盤の古い線を追う。
『だが、実際にはお前たちから魔力を奪った』
眼窩の光が暗くなる。
『私の作った物が、三十年も地下を傷つけた』
誰も冗談を言わなかった。
白い粉へ触れて倒れた仲間の匂いを、俺は覚えている。
乾いた咳。
動かなくなる脚。
先生自身も、粉を浴びて魔力を奪われた。
簡単に「先生は悪くない」と言えば、そこで終わる。
でも、何が起きたかまだ分からない。
「先生」
『エルドだ』
「呼び方、急に変えろって?」
『……先生でよい』
「そこは慣れてるんだ!」
少しだけ、眼窩の光が戻った。
「先生が作ったなら、先生が一番直し方を知ってる。俺たちは被害を受けた。だから、分からないまま許すとも責めるとも言わない」
『では、どうする』
「一緒に記録を読む」
俺は一番近い金属板へ前脚を置いた。
「何が壊れたか見つける。先生の安全策が足りなかったなら直す。誰かが変えたなら止める。今の先生が逃げたら、俺たちは古代文字を読めなくて困る!」
『最後は私が便利だからか』
「大事な仲間で、ものすごく便利な先生です!」
「順番が大事やな」
二号が言う。
「先生が先、便利が後!」
チュウタも机へ登ってくる。
「僕は白い粉で妹たちが倒れた時、先生に治してもらった。作った責任があるなら、直す責任も一緒にやってもらう」
ガーロが続く。
「俺たちは大将の失敗も、俺の失敗も記録した。先生だけ隠すな」
『隠すつもりはない』
「なら読み上げろ。俺たちが聞く」
先生は、長く黙った。
それから、金属板を一枚取った。
『最終稼働記録。再処理炉停止。吸着材回収不能』
ジロが石板へ写す。
『原因。地上側からの強制命令』
「先生の操作じゃない?」
『記録上はな』
次の板。
『安全制限、解除』
『生体魔力判定、全対象へ拡張』
先生の声が硬くなる。
『この変更を、私は承認していない』
「誰がした?」
記録板の承認欄は削られている。
白い粉ではない。
硬い刃物で、名前だけを何度も傷つけた跡。
先生が骨指を当てる。
その瞬間、青い光が記録板から腕へ走った。
『エルド! 主制御を切れ!』
知らない男の声。
『王命だ! 地上の浄化を優先する!』
別の声。
『地下の生体資源まで吸えば、全員死ぬ!』
先生自身の声。
記憶が、記録室へ重なった。
人間たちが走る。
警報が鳴る。
白い粉が管から噴き出す。
先生は制御盤へ手を伸ばし――。
そこで記憶が切れた。
現在の先生の身体が後ろへ傾く。
「先生!」
チュウタが受け止める。
眼窩の光が消えかけている。
『私が、止められなかった』
「今、止めてる途中だ!」
俺は先生の骨手へ触角を当てた。
「過去の先生が失敗したかは、全部読んでから決める。でも今の先生が俺たちと炉を止めたのは、もう知ってる。白食み菌も見つけた。次も一緒にやる!」
『クロ……』
「だから勝手に消えるな! 身体を組み立て直すの、面倒なんだぞ!」
『心配の言い方が雑だ!』
眼窩へ青い光が戻った。
ガーロが先生の背を支える。
二号が記録室の空気を変えるように、わざと明るく歌った。
「先生の名前はエルド。でも呼ぶ時、先生。骨は外れる、記憶も戻る――」
「歌にまとめるな!」
『音程も外れている!』
「先生が怒った。もう大丈夫や」
俺たちは記録板を三枚だけ持ち帰ることにした。
全部を今夜読む必要はない。
先生も、俺たちも、腹――先生にはないが、気持ちを休める時間がいる。
帰り道。
右脚は勝手に走らなかった。
先生が自分で一歩ずつ歩く。
「道、覚えてる?」
『少しずつな』
「迷ったら脚へ聞こう」
『頭へ聞け!』
町へ戻ると、ピノたちが茸味噌汁を用意していた。
「先生の分も!」
『私は飲めん』
「香りだけ!」
先生の前へ、小さな皿が置かれる。
湯気が眼窩の前を通る。
『……よい匂いだ』
「名前が戻った祝い!」
「エルド先生に!」
「今日から何て呼ぼう」
「先生でいい」
「即答!」
「エルドは重い名前だ。先生の方が、今の俺たちに合う」
「じゃあエルドは特別な時だけ?」
「たぶんな」
殻の皿が鳴る。
先生は飲めない。
それでも同じ食卓にいる。
名前を失っていた時も。
名前を取り戻した今も。
俺たちの先生で、大事な仲間だ。
食後、最後の記録板を先生が開いた。
表面には、地上王家の命令印。
安全制限を解除した者の署名は、半分だけ残っている。
先生の骨指が、その文字をなぞった。
眼窩の奥で、古い炎のような光が揺れる。
『思い出した』
「誰?」
先生は、最初に名前ではなく称号を口にした。
『白燼王』
町の白い管が、一斉に低く鳴った。
とっ、とっ、とっ。
まるで、その名へ返事をするように。
『アバドン』
三十年前、地下を浄化しようとした王の名が、暗い食堂へ落ちた。




