白い粉を食べる菌
「畑が消えたあああああ!」
朝一番、俺の悲鳴が町中へ響いた。
「全部!?」
チュウタが寝床から転がり出る。
「七番区画か!?」
バグが水殻を背負ったまま走ってくる。
「茸味噌の菌が広がったんか!?」
二号は歌管から顔を出した。
「違う! 実験皿の土だけ!」
「言い方!」
三匹から同時に怒鳴られた。
俺の前にあるのは、石皿一枚。
昨夜、七番区画から耳かき一杯ほど――今の俺には前脚で抱える量だが――分けてもらった土を入れていた。
そこへ茸味噌壺の菌糸を一本置いた。
今朝見ると、腐葉土だけがなくなっていた。
残っているのは、赤土の細かな粒と、白くふくらんだ菌の塊。
「畑は無事?」
ピノが息を切らして来る。
「無事だ。隔離皿から外へは出てない」
「じゃあ最初にそう言って!」
「ごめん! 起きた瞬間、頭の中では町の畑全部が消えてた!」
「大将の想像でこっちの寿命を減らすな!」
ガーロまで台車を自分で押して来た。
片翅になってから、低い台車を前脚で動かす練習をしている。速くはないが、俺の悲鳴を聞いて治療所から出るには十分だったらしい。
「それで、菌は土を食ったのか」
「腐葉土だけ。たぶん、枯れた葉や茸を分解した」
『たぶんで畑へ近づけるな』
先生が、クルに頭を抱えられて運ばれてくる。
「先生、身体は?」
『組み立てる時間が惜しかった』
「俺の悲鳴で、頭だけ来させてしまった!」
『よいから皿を見せろ』
先生が石皿へ鑑定光を当てる。
『菌は、魔力を含む有機物を分解している。白い廃粉も、蓄えた毒性魔素ごと食った可能性が高い』
「なら、白い粉へ全部撒けば終わりだ!」
「畑の土も終わる」
チュウタが食い気味に止めた。
「分かってる! 今のは願望! 口へ出しただけ!」
「大将の願望、だいたい走り出す前触れやからな」
二号に左右の前脚を押さえられた。
「まだ走らない!」
「“まだ”言うたで」
「揚げ足を取るな!」
昨日の俺たちは、白い廃粉を無害にするかもしれない菌を見つけた。
何年も地下の生き物から魔力を奪い、触れた仲間を倒した粉だ。
これを安全に処理できれば、白い管を怖がらなくて済む。
古い浄化設備を、町の水へ使える。
地上でも毒や汚れを消せるかもしれない。
頭の中では、もう成功後の宴会まで始まっている。
だから危ない。
早く使いたい時ほど、俺は都合の悪いところを見なくなる。
石皿から消えた腐葉土が、その都合の悪いところだった。
「実験は一皿ずつ」
俺は自分へ言い聞かせた。
「畑から遠い隔離室。使う菌は糸一本。結果が分かるまで次を増やさない」
「熱は?」
ジロが石板を開く。
「測る」
「水量」
「測る」
「粉の量」
「測る!」
「大将が勝手に触る回数」
「それも――待て! 俺だけ管理対象!?」
「最大の変動要因です」
反論できない!
隔離室は、第二居住槽の一番下流に作った。
畑から遠い。
床は石。
水路は町と反対方向へ流れる。
入口には三重の溝を掘り、乾燥赤土、殻粉、塩を順に入れた。
菌がどこで止まるか分からないからだ。
壁の隙間はゴキブリ族が調べ、チュウタが土で埋める。
天井の通気穴には二号が布袋をつけた。
「菌も歌で逃げる?」
「知らん。でも胞子が風に乗るなら、俺の風で袋へ集める」
「歌わない方が安全では?」
「音響魔法は歌わんでも使える!」
「初めて聞いた!」
「歌いたいから歌っとるだけや」
「余計な情報まで正直!」
実験皿を六枚並べる。
一番、白い廃粉だけ。
二番、廃粉と水。
三番、廃粉と菌。
四番、廃粉、水、菌。
五番、腐葉土と菌。
六番、生きた芽の代わりに、畑から間引いた細い根と菌。
「本物の芽は使わないの?」
ピノが聞く。
「使わない。最初の一回で、大事な物を賭けない」
「じゃあ、この根が食べられなかったら芽も試す?」
「その前に、もっと似た物を探す」
「遠いね」
「遠い!」
俺は正直に叫んだ。
「今すぐ答えが欲しい! 白い粉へ菌を投げて、光が消えて、全員で勝ったって言いたい! 待つの、ものすごく嫌だ!」
「待てる?」
「待つ。嫌だけど待つ!」
ピノが触角を伸ばし、俺の触角へ一度触れた。
「じゃあ、ピノも待つ」
実験開始。
一刻目。
何も起きない。
二刻目。
四番皿の菌が、廃粉の上へ白い糸を伸ばした。
五番皿では、腐葉土が少し沈む。
六番の根は変化なし。
「四番、食べ始めた!」
「まだ断定しない」
ジロが俺の前へ石板を出す。
「言ってみただけ!」
「記録しました」
三刻目。
四番皿の廃粉が灰色になる。
五番の腐葉土は半分消えた。
六番の根へ、白い糸が一本触れた。
俺の前脚が動きそうになる。
「触らない」
ピノが先に言った。
「分かってる!」
「脚、出てるよ」
「これは気持ちだけ!」
前脚を腹の下へ戻す。
「大将、待つのそんなに苦手なんか」
「得意分野じゃないのは認める」
「唯一の得意分野は突っ込むことやろ」
「それは特技であって長所とは言ってない!」
四刻目。
六番の根が、柔らかく崩れた。
ピノの触角が下がる。
「食べた」
「ああ」
菌は白い粉だけを選ばない。
魔力を含む植物なら、生きた根も食べる可能性が高い。
町へ撒けば、畑、茸棚、木の梁まで危ない。
「使えない?」
「そのままでは使えない」
俺は言い直した。
「でも、四番皿の廃粉は止まってる」
先生が骨指を近づける。
青白い反応はない。
『吸着力、消失。毒性魔素も検出されん』
「食べる力は本物だ」
ガーロが低く言う。
「食べてほしい場所から出さなければよい」
「菌を閉じ込める?」
チュウタが三重溝を見る。
「どの溝で止まったか調べよう」
五番皿から菌糸を三本取り、別の細い石板へ置く。
一本目の先へ乾いた赤土。
二本目は殻粉。
三本目は塩。
水を一滴ずつ加える。
赤土の上では、菌糸がゆっくり進む。
殻粉では速度が落ちる。
塩へ触れた菌糸は縮み、動かなくなった。
「塩で止まる!」
「貴重な塩を全部、菌の壁へ使うの?」
チュウタが聞く。
「それは嫌だ!」
反射で答えた。
ミュルから買った塩は、茸味噌にも、冬の身体にも必要だ。
菌を止めるため床全部へ撒けば、食事がまた薄味へ戻る。
「絶対に嫌だ! 安全は大事! でも味も大事! どっちか選べは、もう禁止した!」
「大将、食べ物の時だけ意志が強いで」
「毎日食べるからだ!」
「食の話になると、急に隊長らしくなるな」
「食は生活の土台だ!」
「さっきまでの慌てぶりはどこ行った」
「あれは朝の別人格!」
ジロが三本の進み方を記録する。
「乾燥でも停止します。塩は緊急線だけに使い、普段は水分を切ればよい」
「菌床の外側を乾かす?」
「水を流す中と、乾いた外を分ける」
先生が頷く。
『古い浄化槽の形を使える。内側へ菌床。外側へ乾燥殻粉。その外へ塩の細線』
「白い粉を含む水だけ、中へ通す」
チュウタが床へ図を描く。
「菌は中で粉を食べる。水は下から抜ける。菌が外へ来たら殻粉で乾き、最後は塩で止まる」
「作れる!」
小型の菌床浄化器を試作する。
外側はムカデ幼体の抜け殻。
細かな穴があり、水は通すが菌の塊は通りにくい。
内側へ、茸屑と綿苔を固めた菌床。
その周囲へ乾燥殻粉。
接合部にだけ、塩を細く塗る。
下には青い色粉を敷き、菌が漏れれば光の変化で分かるようにした。
「名前は《白粉ぱくぱく箱》!」
二号が胸を張る。
「幼体の食事箱みたいだ!」
「《菌床浄化器》」
ジロ。
「正しいけど面白くない!」
「《食うのは粉だけにしろ箱》」
俺。
「命令文やん」
「《濾されたい放題》」
「意味が分からない!」
「勢いだけで提案するな!」
『名前は後だ。水を流せ』
先生に全案を止められた。
試験用の廃粉水は、木の実の殻一杯。
白い粉は、触角の先ほど。
以前なら、その少量でも腹の魔力が引かれた。
近づくだけで、呼吸孔の周りが冷たくなる。
今回は菌床へ直接触れない。
俺は透明な石管越しに、匂いと振動を読む。
「流すぞ」
チュウタが水殻を傾ける。
ぽた。
白い水が菌床へ落ちた。
じゅっ。
火ではない。
菌糸が一斉に縮み、粉の魔力へ吸いつく細かな音が、殻を通して腹へ届いた。
白い糸が青くなる。
粉は灰色へ。
水が下の穴へ染み出す。
最初の一滴。
先生が鑑定する。
『毒性反応なし』
「成功!?」
『まだ一滴だ』
「一滴でも喜ばせて!」
二滴。
三滴。
十滴。
出口の水は透明なまま。
菌床の外へ敷いた青い色粉にも変化はない。
漏れていない。
ところが、半分を流したところで殻の側面がふくらんだ。
「止めろ!」
俺の声と同時に、チュウタが水殻を戻す。
ぴしっ。
ムカデ殻へ細い亀裂。
中で増えた菌が、穴をふさいでいる。
「また爆発!?」
「させない!」
ポルとバグが防御膜を重ねる。
二号が排気袋を開く。
先生が細い骨針で、出口の詰まりを突く。
俺は亀裂へ身体を沿わせ、触角で最も圧の低い場所を探した。
「右下! そこへ逃がし穴!」
チュウタが土台を削る。
ぷつっ。
細い穴が開いた。
溜まった水が横の空皿へ流れる。
殻のふくらみが戻った。
「爆発なし!」
「前より成長した!」
「基準が低い!」
失敗はした。
だが止められた。
菌床が増えすぎるなら、交換できる小袋へ分ければいい。
水を一気に流さず、滴下する。
出口は一つではなく三つ。
詰まりを外から掃除できる穴も作る。
二号機には、薄い菌床袋を三枚並べた。
一枚目が粉を食う。
二枚目が残りを捕る。
三枚目は色の変化を見る確認用。
チュウタが白い水を、一滴ずつ流す。
今度は詰まらない。
灰色になった菌床袋だけを、長い骨針で外せる。
俺たちは木の実の殻十杯分を処理した。
出口の水は安全。
外側へ菌漏れなし。
畑の根を置いた離れた皿にも変化なし。
『小規模浄化、成功だ』
先生の言葉で、隔離室の外から歓声が上がった。
いつの間にか、住民が三重溝の向こうへ集まっている。
「入るなって言っただろ!」
「入ってない!」
「応援は外から!」
「白い粉、食べた?」
「食べたぞ!」
俺が答えると、さらに大きな声が返る。
白い粉に倒れた者。
家族を運んだ者。
浄化炉から逃げた者。
みんな、この粉が怖かった。
一滴の水を安全にしただけだ。
地下全体から見れば、何も変わっていない。
それでも、怖い物を「逃げるしかない」から「少しずつ処理できる」へ変えた。
俺の六本脚が、勝手に床を踏んだ。
「よっしゃあああ!」
今度は止めなかった。
二号が歌う。
「白い粉、ぱくぱく。畑は食うなよ、そこちゃうでー!」
「歌詞で命令するな!」
「名前も決まった。《白食み菌》や!」
「今の歌から急に格好よくした!」
ガーロが菌床袋を見つめる。
「悪くない。白を食み、毒を消す」
「ガーロが認めた!」
「ただし畑も食む」
「注意書きが長い!」
「注意書き、覚えられるかな」
「覚えなくても、見ればいい」
「先生、字が読めない奴は?」
『絵を添える。塩の粒と乾いた土の絵だ』
「先生の絵、才能あるんですか」
『……線は引ける』
「自信なさそう!」
正式名称は《白食み菌》。
注意書きは《濡れた場所では増える。畑へ持ち込むな。乾燥殻粉と塩線を切らすな》。
名前より注意書きの方が大きく刻まれた。
夕食は茸味噌焼きだった。
隔離作業の者は、身体を洗い、触角の根元まで乾かしてから食堂へ入る。
「すぐ食べたい!」
「洗う」
ピノが入口で見張る。
「腹減った!」
「洗う」
「大将権限で!」
「今日は衛生係が上!」
「幼体に負けた!」
「幼体に権限で負ける大将、記録していいですか」
「駄目だ!」
「もう書きました」
濡れ苔で腹を拭き、乾いた布で六本脚を一本ずつ拭く。
五本目まで終えたところで、すぐ茸味噌へ走ろうとした。
「六本目」
「忘れてた!」
ゴキブリの脚、多い!
でも六本全部が今日の実験を支えた。
一本くらい面倒でも、悪くない。
食堂では、処理した安全な水で茸味噌汁が作られた。
先生が鑑定済み。
薬師が試飲済み。
全員分ではないので、最初は白い粉に倒れた経験のある者へ配る。
バグが一口飲んだ。
触角を閉じるように下げ、ゆっくり味わう。
「普通の水だ」
小さな声だった。
でも、食堂が静かになる。
「冷たくない。力も抜けない。普通に、うまい」
次の瞬間、皿と殻が鳴り響いた。
カン、カカン、カンッ!
勝利の乾杯だ。
白い粉を倒したのではない。
菌を町へ撒けるわけでもない。
でも、安全に扱う最初の方法を手に入れた。
明日から、隔離室で量を少しずつ増やす。
菌床袋は番号をつけ、使った日、粉の量、水量、交換時刻を残す。
畑係とは道具も水路も分ける。
急がない。
止まらない。
その両方で進む。
食後、俺たちは最初の菌床を交換した。
灰色になった袋を石箱へ入れる。
その下で、こつん、と硬い音がした。
「何だ?」
チュウタが床を掘る。
隔離室の石板の下から、円い金属環が現れた。
白食み菌の細い糸が、環の古い汚れだけを分解している。
汚れの下には、人間語の文字。
『第二浄化炉・保守通路』
先生の声が止まった。
「先生?」
眼窩の光が、文字へ吸いつくように揺れる。
『私は、この字を知っている』
「読めるってこと?」
『違う』
先生の骨指が、金属環へ触れた。
『私が、刻んだ字だ』
かちり。
三十年以上閉じていた保守通路が、先生の指の下で開いた。




