保存食革命
壺の蓋が、俺の顔めがけて飛んできた。
「うおおおおっ!?」
べこんっ!
木の蓋が頭へ直撃する。
六本脚が床から浮いた。
俺は後ろへ転がり、乾燥茸の山へ頭から突っ込んだ。
直後。
ぼふしゅううううっ!
発酵壺から茶色い泡が噴き上がった。
「くっさああああああ!」
新しい町の食料工房が、一瞬で地獄になった。
「大将! 何を入れたんや!」
カサカサ二号が壁へ逃げながら叫ぶ。
「茸! 塩! 水! それだけ!」
「何日置いた!」
「三日!」
「蓋は!?」
「匂いが漏れないよう、粘着苔で完全密閉!」
『それだ、この馬鹿者!』
先生の頭蓋骨が、泡の波に押されて食料棚から落ちる。
「先生!」
『私より壺を止めろ! まだ中で膨らんでいる!』
ぶくっ。
ぶくぶくぶくっ。
石壺の腹が、内側から小刻みに鳴る。
嫌な振動が六本脚へ届いた。
「二発目が来る!」
俺は乾燥茸の山から飛び出した。
「全員、伏せろ!」
「伏せたら泡をかぶる!」
「じゃあ壁へ!」
「最初からそう言え!」
ゴキブリ族は壁と天井へ。
ネズミ族は棚の陰へ。
チュウタが土魔法で、壺の周りへ低い囲いを作る。
二号が風を出口へ向ける。
俺は壺の側面へ回り込み、粘着苔の蓋留めへ前脚をかけた。
「大将、近い!」
ガーロの声。
「少しずつ開けて、中の空気を逃がす!」
「一匹でやるな!」
「分かってる! バグ、膜! ポル、右! 二号、匂いを外へ!」
「最初から呼べ!」
「格好よく蓋を開けたかったんだよ!」
「この状況で見栄を張るな!」
バグの青い防御膜が、俺と壺を包む。
ポルが反対側から蓋を押さえる。
二号の風が細く工房の排気穴へ流れた。
「一目盛りだけ回すぞ!」
「壺に目盛りないで!」
「気持ちの一目盛り!」
粘着苔を、ほんの少し剥がす。
ぷしゅっ!
茶色い泡が針のように飛び、バグの膜へ当たった。
酸っぱい匂い。
茸の匂い。
古い靴の中みたいな――いや、そんな物を思い出したくない!
「臭いが触角へ刺さる!」
「風、強めるで!」
二号が翅を鳴らす。
ぶわっ、と泡の匂いが排気穴へ引かれた。
壺の震えが少し弱くなる。
もう一度、蓋をずらす。
ぷしゅうううっ。
今度は長い息を吐くような音。
石壺の腹が静まった。
「止まった?」
チュウタが棚の陰から鼻だけ出す。
「たぶん」
『近づくな。まず匂いと色を調べる』
「先生、頭が床に落ちたままですよ」
『見れば分かる! 誰か拾え!』
保存食革命、第一号。
開発開始から半刻で、工房は茶色い泡まみれになった。
二十七日後、地上への昇降路が開く。
俺たちはそれまでに、町を整え、地上を調べる遠征隊を作る。
問題は食料だ。
地上へ出れば、すぐ帰れるとは限らない。
雨で道が消えるかもしれない。
人間や鳥から隠れて、何日も動けないかもしれない。
今ある茸苔焼きはうまい。
だが、柔らかい分だけ傷みやすい。
燻製茸は長持ちするが、毎日あれだけでは触角まで煙臭くなる。
乾燥茸は軽いが、硬い。
「地上で顎が疲れて動けません、は嫌だ!」
「大将は喋らなければ顎が休まるで」
「俺の会話を保存方法に数えるな!」
そこで、保存食を三つに分けることにした。
そのまま運べる乾燥食。
水へ溶かせる粉末食。
少しの量で味がつく発酵食。
乾燥と燻製は、前の巣で大失敗しながら覚えた。
今回は偶然うまくいく一皿ではなく、誰が作っても同じ味になる方法へ直す。
「同じ味って必要?」
ピノが聞く。
「必要だ。大将が作るたび爆発したら、壺が足りない」
ジロが答えた。
「基準が俺の失敗!」
「直近の実績です」
工房を四つの場所へ分ける。
洗う場所。
切る場所。
火と煙を使う場所。
発酵させる場所。
床へ色の違う苔を置いた。
青は洗浄済み。
赤は加熱前。
白は完成品。
黒は失敗か、正体不明。
「茶色い泡壺は?」
「黒!」
「見た目は茶色やで」
「状態の話!」
道具にも蜘蛛糸の色帯を巻く。
生の茸を切った刃で、完成品を切らない。
黒い苔が生えた物は、匂いだけで判断せず隔離する。
水量は木の実の殻で測る。
塩は先生の指骨一節分の線まで。
『なぜ私の骨が単位になる』
「長さが変わらないから」
『もっと普通の棒を使え!』
乾燥班は、茸を三種類の厚さへ切った。
薄切りは一日で軽くなるが、割れやすい。
中切りは二日。
厚切りは乾くまで時間がかかるが、噛みごたえが残る。
ネズミ族が貝殻の刃を動かす。
ゴキブリ族が六本脚で茸を押さえる。
「右前脚、もっと外!」
「それ俺の脚じゃない!」
「誰のだ!」
「隣のポル!」
「茸一枚へ脚が多すぎる!」
最初の十枚は厚さがばらばら。
先生が骨の定規を置き、ジロが一番そろった班へ赤実一粒を賞品にした。
途端に全員の目が本気になる。
「食べ物を賞品にしたら、作業が倍速になった!」
「最初からそうしろ」
ガルダン王が当然のように言う。
「王様まで参加してる!」
「余の班が最も薄い」
「王が刃物の速さで張り合うな!」
「負けた班は?」
「明日の水運び」
「今、罰まで決まったのか!」
「勝手に決まりました」
「ジロの手が速すぎる!」
粉末班は、乾燥茸、綿苔、ムカデ殻粉を石皿ですり潰した。
最初の配合は茸一、苔一、殻粉一。
水へ入れる。
灰色の泥になった。
「飲める?」
チュウタが聞く。
「飲みたい?」
「聞き返すな」
「拒否権は?」
「ない」
「即答!」
俺が一口舐める。
しょっぱい。
苦い。
口の中が乾く。
「水へ溶かしたのに、喉が渇く!」
『殻粉が多すぎる』
「一対一対一は分かりやすかったのに!」
『身体は分かりやすさで味を決めん』
二回目。
茸四、苔二、殻粉ほんの少し。
木の実油を一滴。
湯へ入れると、茸汁の香りが立った。
「うまい!」
ただし、油が粉を固めて石みたいな玉になった。
三回目は油を抜き、飲む時に加える印を袋へ描く。
成功。
水さえあれば一袋で八匹分の汁になる。
「名前は《どこでも茸汁》!」
「そのままやな」
「分かりやすさは大事だろ!」
問題は、発酵班だった。
先生によれば、茸の表面には目に見えない小さな菌がいる。
うまく使えば食べ物を別の味へ変え、長く保てる。
失敗すれば腐る。
「見えない相手に料理を任せるの?」
ニニが不安そうに聞く。
「俺も不安だ!」
「大将が一番に言うな」
「見えない虫なら青い粉で見つけた。菌も色をつけられない?」
『虫より小さい。だが匂い、泡、温度で働きは分かる』
俺の触角の出番だ。
人間の鼻なら「臭い」で終わる壺も、今の触角には匂いの層がある。
酸っぱさ。
甘さ。
腐った水。
湿った土。
毒。
茸が別の物へ変わる途中の、温かい匂い。
ただし情報が多すぎる。
「全部くさい! 違いは分かる! 分かるけど全部くさい!」
「役に立つ報告をして」
チュウタが鼻を押さえている。
「壺一号、酸っぱい。二号、甘い。三号、土。四号、俺の人生へ謝ってほしい匂い!」
「四号は隔離」
「判断が速い!」
壺一号は水が多すぎ、薄い酸味の汁になっていた。
二号は塩が多く、菌がほとんど働いていない。
三号は表面へ白い茸糸が広がったが、毒はない。
四号は黒い毛が生え、先生が一目で封印した。
『これは食うな』
「どれくらい駄目?」
『お前のしぶとさを試したくなる程度だ』
「絶対に食わない!」
「四号、埋めるん?」
「隔離だ。埋めたら他の場所を汚す」
「地味に危ないんやな……」
二号の声から、初めて軽口が消えた。
そして五号。
最初に爆発した、茶色い泡壺。
完全密閉で空気が逃げず、内側へ力が溜まった。
危険だ。
だが、泡の下にある茸は形を失い、柔らかな茶色い泥になっている。
先生が毒を調べる。
『危険な腐敗反応はない』
「食べられる?」
『少量を、健康な者が試せ』
全員が俺を見る。
「なぜ!?」
「作った者の責任」
ガーロ。
「大将は毒に強い」
バグ。
「最初から食いたそうな顔しとる」
二号。
「最後は違う!」
でも、食べる。
前脚の先へ、茶色い茸泥をほんの少しつける。
触角で毒の刺激を確かめる。
ない。
口へ入れた。
一拍。
二拍。
塩気。
茸の濃いうまみ。
わずかな酸味。
噛んでいないのに、何枚分もの茸が一度に来る。
「……うまい」
「本当に?」
「悔しいくらいうまい! あれだけ臭くて爆発したのに! 失敗の顔をしてるくせに!」
チュウタも、爪の先で舐める。
耳が立った。
「うまい!」
二号。
「茸苔焼きにつけたい!」
ガーロ。
「薄い汁へ入れろ。味が濃くなる」
ピノ。
「おやすみ玉の中!」
「一斉に注文するな! まだ名前もない!」
「《爆発茸泥》」
「食欲が消える!」
「《くさうま壺》」
「正直すぎる!」
「《どろどろ幸せ》」
「語感だけで押すな!」
「《クロの汗と涙》」
「俺、汗も涙も入れてない!」
「《茸味噌》は?」
俺が言う。
「味噌って何や」
「人間の世界にあった、発酵させた調味料だ。作り方は全然違うけど、役目が似てる!」
『では茸味噌でよい』
「先生が採用した!」
茸味噌を安全に作るため、爆発壺をそのまま真似はしない。
蓋へ針ほどの空気穴を開ける。
穴には薄い布を置き、虫と土を防ぐ。
毎日同じ時刻に匂い、泡、温度を記録する。
味見用の匙は壺ごとに分ける。
黒い変色、金属臭、舌を刺す刺激があれば隔離。
食べられる一号だけを増やし、他は混ぜない。
「大将、全部の壺へ名前を書きました」
ジロが札を並べる。
一号《酸っぱい》。
二号。
三号《白ふわ》。
四号《食べたら駄目》。
五号《茸味噌・蓋を完全に閉めるな》。
「名前というより感想と命令!」
「読めば間違えません」
「完璧だ!」
完成祝いの夕食になった。
乾燥茸へ茸味噌を薄く塗り、弱火で焼く。
じゅううっ。
表面の水分が飛び、香ばしい匂いが食堂へ広がった。
触角が勝手にそちらへ向く。
百五十匹分の触角が一斉に動くと、黒い草原が風へなびいたみたいだ。
「まだだ! 焼けるまで待て!」
「一枚だけ!」
「チュウタ、さっき味見しただろ!」
「あれは泥。これは焼き物!」
「料理名が変われば別腹になるの!?」
茸味噌汁。
茸味噌焼き。
おやすみ玉の味噌入り。
最初の壺一つしかないので、一匹分は触角の先ほどだ。
それでも味が濃い。
薄かった苔汁が、少量で御馳走になる。
「これなら遠征先で、乾燥茸を毎日食べても飽きない!」
「その前に町の食事が全部うまくなる」
「明日は乾燥班と発酵班、どっちが偉いか決めよう」
「決めなくていい!」
「両方あるから飽きへんのやろ」
「二号、たまに大人だな」
「たまにで悪かったな!」
「地上へ行かない者も食べられる!」
ピノが皿を掲げる。
その通りだ。
遠征準備だからと、行く者だけへ良い物を集めたくない。
地上へ行く者も、町へ残る者も、同じ壺から食べる。
帰ってきた時にも同じ匂いがあれば、ここが帰る場所だと分かる。
「茸味噌に!」
「爆発しない二号壺に!」
「そこは重要!」
殻の皿が打ち合わされる。
食堂は、さっきまでの悪臭を忘れるほど香ばしい匂いで満ちた。
翌朝。
俺たちは失敗壺の処理を始めた。
四号の黒い茸は、湿った隔離穴へ。
一号の酸っぱい汁は、食べられないが毒もない。掃除用に使えるか別の石皿へ分ける。
三号の白い茸糸は、先生が研究用に残した。
「この泡まみれの布は?」
バグが、工房の隅から濡れ布を持ってきた。
最初の爆発で飛んだ茸泥を拭いた物だ。
布の端には、白い粉が付いている。
旧資材庫から移した道具に残っていた、ごく少量の廃粉。
「触るな!」
俺は反射的に叫んだ。
白い粉は、生き物の魔力を吸う。
濡らして丸め、封じるのが俺たちの決まりだ。
だが、バグの防御膜は光っていない。
「魔力を吸われてる感じは?」
「ない」
先生が布へ鑑定の光を当てる。
白い粉は、白くなかった。
茸泥へ触れた部分だけ、薄い灰色に変わっている。
いつもの廃粉なら、魔力へ反応して青白く光る。
先生が自分の骨指を近づけた。
反応なし。
『吸着力が消えている』
「水で濡れたから?」
『水だけなら、乾けば戻る』
布の上では、茸味噌から流れた細い菌糸が、灰色の粉を包んでいた。
『菌が廃粉を変えた可能性がある』
「食べた?」
『まだ断定するな』
先生が即座に止める。
でも、俺の触角には分かる。
あの白い粉が持っていた、冷たく舌を刺すような魔力臭がない。
発酵壺の爆発で生まれた茸味噌。
その失敗を拭いた布の上で、何年も俺たちを苦しめた白い粉が眠っている。
「小さく試そう」
俺は言った。
「畑にも、町にも広げない。隔離した一皿だけ。菌と粉の量を変えて、何が起きるか見る」
「すぐ全部へ使わないのか」
バグが聞く。
「使いたい! 今すぐ白い管へ全部流したい! ものすごく使いたい!」
触角が勝手に管の方へ向く。
「でも、茸まで食べる菌だったら、畑が全滅する。まず確かめる」
「大将が待つと言った」
チュウタが驚いた顔をする。
「そんな珍しいことみたいに言うな!」
「記録します」
ジロが石板へ大きく刻む。
「そこまで珍しいの!?」
地上への道が開くまで、あと二十六日。
保存食を作っていたはずが、地下全体を救うかもしれない菌まで見つかった。
ただし、その菌が次に食べたのは――。
俺たちが大事に育てた、七番区画の畑の土だった。




