パンくず大遠征
「待てえええ! 一般家庭なら悲鳴を上げられる見た目だけど、中身は普通のお父さんだ! 話し合いはできる! パンの分け前も話し合おう! 全部持って逃げるのだけはやめてくれえええ!」
返事はなかった。
闇の奥で、カリッ、とパンを削る音が一度しただけだ。
「食ってる! 人が必死で呼び止めてるのに食ってるな!?」
俺は香ばしい匂いと小さな影を追い、六本脚を全力で動かした。
しかし、たった三分後。
俺は天井から垂れた白い糸に絡まり、逆さ吊りになっていた。
「…………」
右前脚と左の中脚を縛られ、石床から五センチほど浮いている。人間なら鼻で笑う高さだが、今の俺には自分一匹分。充分すぎる公開処刑だ。
「さっき命懸けで水を手に入れたんだぞ。少しくらい勢いに乗らせろよ。それなのに三分でこれって何? この世界、俺を調子に乗らせない速度だけ異常じゃないか?」
誰も答えない。
ゴキブリに逆さも何もあるのか知らないが、情けないことだけは確かだった。
「朝飯を探しに来て、朝飯になる。うまいこと言ってる場合じゃないけど、本当にそうなりそうだから困るんだよな……」
身体をねじる。
糸が右の後脚にも絡む。
「あ」
慌てて反対へねじる。
今度は触角が貼りついた。
「ああっ! 違う違う、今のなし! 戻してくれ! 誰に頼んでるのか分からないけど、お願いだから三秒前に戻してくれ! 俺は今、自分で自分を丁寧に梱包してる!」
暴れるほど糸が増えていく。
俺は無理やり動きを止めた。
「落ち着け。蜘蛛の巣で暴れるやつから食われる。テレビで見た。人間の知識とゴキブリ本能がまだ社内連携できてないんだ……」
触角だけをそっと動かす。
前方には焼けた小麦の匂い。
後方には昨日作った水路の湿り気。
そして、上からは生臭い匂いが近づいてくる。
ぴん。
糸が震えた。
ぴん、ぴぴん。
天井の暗がりから、八本の細長い脚が一本ずつ現れた。
黄土色の蜘蛛だ。俺の倍はある。腹には黒い縞模様、牙の先には透明な液がたまっている。
「大家さんが来た。無断入居は謝りますので、敷金礼金なし、即日退去で――駄目ですか。そのよだれ、入居者を腹へ移す顔ですね?」
蜘蛛はゆっくり近づいてくる。
糸を通じ、一本脚を置くたびに震動が伝わった。
俺は身体を丸め、絡んだ糸を口元へ寄せる。
噛んだ。
硬い。
「ゴキブリって何でも食べるんじゃないのか? だったら蜘蛛糸くらい食えよ。こういうときだけ食材へのこだわりを出すな!」
何度も噛む。
繊維が一本、ぷつりと切れた。
蜘蛛まで、二十センチ。十センチ。
「急げ、俺の顎! 今まで特に褒めたことはなかったけど、お前はやればできる子だ! 帰ったらパンを食わせてやる! 俺の口だから結局俺が食うんだけど!」
五センチ。
蜘蛛の前脚が俺へ伸びた。
「うわ、近い近い! 毛穴まで見える! 見たくなかった! 異世界で最初に間近で見る生物が巨大蜘蛛の毛穴って、誰が得するんだよ!」
ぶちっ。
右の前脚が外れた。
身体が斜めになり、残った糸へ全体重がかかる。
蜘蛛の牙が開く。
透明な液が一滴、俺の横へ落ちた。
じゅっ。
石床から煙が上がった。
「毒どころか溶けてる! お前、食事の作法が豪快すぎるだろ!」
俺は自由になった右脚を背中へ回した。
殻の隙間に、昨日のろ過で挟まった炭粒がある。
「取れない汚れにも意味がある! 食らえ、異世界式目つぶし!」
力いっぱい投げた。
炭粒は蜘蛛の顔まで届かず、俺の真下へぽとりと落ちた。
「……知ってた。全然落ち込んでない。今から第二案を考えるところだった!」
蜘蛛の目は、最初から何も変わっていない。
だが炭粒は、下に張られた別の糸へぶつかった。
ぴいいんっ!
巣全体へ鋭い震動が走る。
蜘蛛が反射的にそちらを向いた。
「……え?」
蜘蛛が炭粒へ身体を傾け、俺を支える糸が緩んだ。
「そう、それ! 今のは失投ではなく高度な間接攻撃です!」
誰も信じてくれない言い訳をしながら、残る糸を噛み切った。
落ちる。反射的に背へ力を入れると、翅らしきものが半分だけ開いた。
「飛べるのか!?」
期待した途端、翅は、ばたん、と閉じた。
べちゃっ。
俺は腹から床へ落ちた。
「期待させるなよおおお! 使えないなら思わせぶりに開くな! 一瞬、空を飛ぶ自分を想像したんだぞ!」
痛くて恥ずかしいが、走れる。
背後で黄土色の蜘蛛が騙されたことに気づく。
かかかかかかかかっ!
「来るな! 炭もゴキブリも食欲が湧かないだろ! どうして俺に執着するんだ!」
三本線の刻まれた細道へ飛び込む。
三本。少し先にも三本。角の先には二組。
間隔は一定で、分かれ道ではパンの匂いがする側についている。二組ある場所だけ、空気の匂いが違う。
「道しるべだ。二組は危険……たぶん。説明書がない以上、信じるしかない」
あの影がつけたなら、危険を覚え、印を残せる相手だ。
「話せるかもしれない」
「期待するな。水を見つけて喜んだら怪物が出た。今度はパン泥棒だ。性格も最悪かもしれない。けど、もし返事をしてくれたら」
そこで言葉を切る。
蜘蛛の足音が迫っていたからだ。
前方には、黄緑色に輝く苔が広がっている。
「おお……」
無数の光が呼吸するように明滅し、石床へ星空を敷き詰めていた。
「美羽に見せたら、きっと――」
娘の名前が口からこぼれた。
“持って帰れる?”と覗き込む顔が浮かぶ。
「……持って帰れないな。今は、何も」
家へ帰れず、あの子がどこにいるかも分からない。胸の内側が苦しくなる。
「今はパンだ。生きる。腹を満たす。話し相手を見つける。落ち込むのはそのあとだ。順番、順番……!」
言い聞かせ、星空へ一歩踏み出した。
脚が、ずぶりと沈んだ。
「……ん?」
持ち上げようとした。
上がらない。
透明な粘液が糸を引いている。
「お前も罠なのかよ!」
右脚を引けば左脚が沈む。左脚を持ち上げれば真ん中の二本が貼りつく。
「綺麗だと思った俺の気持ちを返せ! 娘に見せたいとまで思ったんだぞ! 感動直後に足止めするな!」
背後から蜘蛛が迫る。
かかかかっ!
俺は壁の三本線を見た。
二組ある。
「危険の印か! だったら“ここから粘着苔”って書いてくれ! 暗くて読めないけど、今は文句を言わせろ!」
三本線の真下だけ、苔の光が弱い。
よく見ると、粘着苔を薄く削った細道が通っている。
俺より少しだけ幅が広い。
あの影は、ここを何度も通っている。
「助かったのか、文句を言うべきか、どっちなんだよ!」
身体を低くする。
脚を上へ引けば粘液が伸びる。なら横へ滑らせる。前脚で苔の根元を押さえ、真ん中の脚を一気に引いた。
ぶちっ。
「一本! 二本! 残り四本! なんでこんなときだけ脚が多いんだ!」
三本目。
蜘蛛の影が俺へかぶさる。
「待て待て、まだ三本残って――いや、お前も踏んでるぞ」
黄土色の蜘蛛は、勢いのまま粘着苔へ入っていた。
八本の脚が沈む。
蜘蛛が前脚を持ち上げる。
透明な糸が何本も伸び、脚を床へ引き戻した。
「お前も知らなかったのか! 地元住民なら危険情報を確認してから狩れよ!」
蜘蛛が暴れるほど、粘液が腹へ絡んでいく。
残る脚を横へ滑らせ、細道へ転がり込んだ。
「身体を張った実演ありがとう! 俺の罠ではないので損害賠償は受け付けません!」
かちかちかちかちっ!
蜘蛛が牙を鳴らす。
「怒るなよ! こっちだって二回も引っかかってるんだ! 被害者同士じゃないか! 仲良くする気はまったくないけど!」
三本線の誰かへ借りができた。まず礼を言い、それからパンの所有権を徹底的に争おう。
俺は光る苔の細道を抜けると、香ばしい匂いが一気に強くなった。
先は木箱が積み上がる大空洞だった。錆びた鎖と破れた布袋が、昔の人間の物資置き場だったと伝えている。
空洞の中央では、淡い光を浴びて黄金色の塊が鎮座していた。
「パン……!」
人間なら指で払う欠片が、今の俺には身体の半分以上ある巨大食料だ。
「パンじゃない。小麦山だ。俺が最初に見つけたから、ここをクロ領とする!」
駆け寄りかけて、急停止した。
「……待て。学習しろ、俺」
水場には怪物、光る苔には罠。この世界で“うまそう”は次の危険を呼ぶ合図だ。
「俺だって毎回同じ手には引っかからない。今回は先に――上だ!」
ばさっ。
頭上を大きな翼が横切った。
俺は木箱の下へ飛び込んだ。梁には一匹のコウモリが逆さにぶら下がり、広げた翼は俺の何倍もある。
「ほらいた! 嬉しくないけど予想が当たった! パン一個に警備員を置くなよ! 時給いくらだ!」
コウモリの大きな耳が動き、俺は慌てて口を閉じた。目より音で獲物を探す相手は、俺が黙ると見失ったように首を振った。
「……お喋り禁止か。よりによって俺へ一番つらい攻撃をしてきたな」
小声で愚痴りながら、乾いた木の実の殻を見つける。
前脚で押し、空洞の反対側へ転がした。
ころころ。
かつんっ、殻が錆びた金属板へ当たる。
コウモリの耳がそちらを向き、黒い翼が一気に落下する。ばさばさばさっ!
「よし、知識は通じる! ありがとう過去の俺!」
腹を床すれすれまで下げ、六本脚を一本ずつ石のくぼみへ置く。
「右前、左前、真ん中……真ん中の右? やっぱり呼び方が分からない。お前たち、後で番号を決めような。今は絶対に勝手な音を立てるなよ」
コウモリが殻を掴み、食べられないと知って投げ捨てた。
梁へ戻る。
その間に、パンまであと十センチ。
五センチ。
一センチ。
前脚が乾いた表面へ触れた。
「届いた……!」
端をかじる。かりっ。ぱさぱさで冷たく、塩気もない。それでも信じられないほどうまい。
「うまい……人間の頃なら捨ててたぞ。馬鹿だったな、俺。パンってこんなにうまかったのか……」
もう一口かじる。
「いや違う。これは味見だ。毒がないか確認しただけ。もう一口だけ、別の場所も検査して――駄目だ! ここで全部食ったら明日の俺が泣く!」
自分の口をパンから引き剥がした。昨日の水場まで運べば、飲み水と食料が揃う。あそこを最初の拠点にできる。
「よし、持って帰ろう。大丈夫だ。身体は小さくなったけど、中身は成人男性だ。パンくず一個くらい――」
頭を押しつけ、六本脚を踏ん張る。
「ぬぬぬぬぬぬぬ……!」
動かない。
「まだだ。今のは準備運動だ」
角度を変えて押す。
「人間だった頃は満員電車で押し合いを――関係ないな! でも動けえええ!」
パンは一ミリも動かなかった。
脚だけが石床を虚しく滑る。
「見つけて、危険を越えて、味見もしたのに、重くて持ち帰れない。最後だけ宅配料金を請求するなよ……」
パンへ額を押しつけたまま、しばらく動けなかった。
悔しい。
目の前にあるのに、自分が小さいせいで手に入らない。
「……いや、違う。持ち上げられないなら、持ち上げなければいい」
持ち上がらないなら、角を削って転がす。
俺はパンの縁へ噛みついた。
かり、かり、かり。
一欠片、口へ入る。
「これは成形作業です。つまみ食いではなく、責任者による廃材処分です。責任者は俺です」
少しずつ角が取れ、いびつな球になる。
前脚で押した。
ごろっ。
「動いた!」
もう一度押す。
ごろ、ごろっ。
「見たか! 力が足りないなら頭を――待て、速い」
床が下っていた。
パンは勝手に加速する。
「待て待て待て! まだ成功を噛み締めてる途中だ! 食料が持ち主を置いて逃げるな!」
ごろごろごろごろっ!
俺は必死で追う。
パンが小石を弾いた。
からんっ!
小石が金属板へ当たる。
かああんっ!
空洞いっぱいに音が響いた。
「あ」
梁のコウモリが翼を広げる。
「起こしたああああ!」
前を転がるパン。
それを追う俺。
俺を追うコウモリ。
「食物連鎖の教材か! 俺を最下段に置くな! せめてパンと替えろ!」
コウモリの爪が背中をかすめ、俺は壁を駆け上がって横からパンへ体当たりした。
ごつんっ!
「痛あっ! 曲がれ、右だ!」
パンの進路が変わり、木箱の脚へ向かう。
「そっちじゃない! 右って言っただろ! お前にとっての右はどっちだよ!」
もう一度ぶつかる。
背中の殻がきしむ。
パンは木片へ乗り上げ、わずかに跳ねた。
その下へ潜り込み、背中で押し上げる。
「うおおおお! 昨日は薄さ、今日は背中! 俺の身体、取扱説明書を寄こせ!」
パンが跳ね、コウモリの爪をかわす。爪が石床をえぐり、がりりっ、と砕けた石が殻をたたいた。
だが、パンは三本線のある細道へ入った。
コウモリは入口で翼を畳もうとする。身体が大きすぎて入れない。
「残念だったな! 狭い場所では俺が王様だ! 一切尊敬されない王様だけど――風を送るなあああ!」
コウモリが羽ばたき、強風が通路へ吹き込んだ。
パンがさらに速く転がる。
「応援ありがとう! でも善意なら強すぎるし、悪意なら効果的すぎる!」
前方には粘着苔の星空。
安全路はパンより細い。
「止まれ! いや、止まるわけない! 考えろ!」
俺はパンを追い越し、苔の手前に落ちていた木の皮を斜めに立てた。
跳び板だ。
パンが木の皮へ乗る。
ぐにゃり。
「腐ってる! また素材選びを間違えた!」
木の皮が大きくしなり、地面へつきそうになる。
「耐えてくれ! 帰ったら乾かす! 補強もする! 福利厚生を全部つけるから!」
ぱあんっ!
木の皮が反発し、パンくずが宙へ飛んだ。黄緑の光を飛び越え、向こう側の床へ落ちる。
どすんっ!
震動で粘着苔が一斉に明滅し、小さな星空の上を黄金色の月が飛んだようだった。
「成功……成功した! 見たか美羽! パパはパンくずを飛ばしたぞ! ……何の自慢にもならないけど、今のはかなりすごかったぞ!」
答える娘はいない。代わりに、背後からコウモリがもう一度羽ばたいた。
「余韻くらい味わわせろ!」
俺は安全路を走り抜け、パンへ追いついた。
そこからは下り坂で前へ回り、曲がり角に小石を置いた。失敗するたび、次のやり方が一つ分かる。
「黒光り運輸、本日開業。荷物はパン一個、従業員一名。信用は社名の時点で壊滅……もっと爽やかな名前にしよう」
水場の湿った匂いが近づく。あと一つ角を曲がれば、俺の簡易水路だ。
「これで水と食料が揃う」
口に出すと、胸が熱くなった。今日も逃げ、吊られ、昨日以上に愚痴を言った。それでも自分で食料を見つけ、ここまで運んだ。
「やれるじゃないか、俺」
誰も褒めてくれないから、自分で言った。
「もっと褒めてもいいな。よくやった。今日は半分、残りは明日。水で柔らかくして、できれば食卓も作ろう。椅子は……座り方が分からないからいらないか」
一人で夕食の予定を喋りながら、最後の角を曲がった。
横の亀裂から、小さな影が飛び出した。
「え?」
灰色の毛。
丸い耳。
細長い尻尾。
影は俺より大きく、痩せていた。ためらいなくパンへ体当たりし、両前脚をかける。
「ちょっと待て。それは俺が蜘蛛と苔とコウモリを越えて、何度も背中をぶつけて、やっとここまで――」
ばきっ!
パンくずが真ん中から二つに割れた。
「あああああああっ!」
影は片方を抱える。
俺も反射的にもう片方へしがみついた。
「割った! お前、俺の小麦領を真っ二つにした! 何してくれてるんだよ! その割れ目には俺の努力と希望と背中の痛みが詰まってるんだぞ!」
顔を上げる。
若いネズミだった。
頬は痩せ、片耳には切り傷がある。黒い目を大きく見開き、俺を凝視していた。
ネズミの口が震える。
「しゃ……」
「しゃ?」
「喋ったあああああっ! ゴキブリが喋った! しかもすごく怒ってる!」
「そっちも喋ったあああああっ!」
二匹の声が地下へ響いた。
水場の怪物が、ぶくりと泡を吐いて沈む。
俺とネズミは、パンを抱えたまま見つめ合った。
言葉が通じ、返事が返る。それだけで胸の奥から何かが込み上げた。
「お前、名前は? ここに住んでるのか? 壁の三本線をつけたのもお前か? ほかにも誰かいるのか? この世界のことを知ってるか? 人間は――」
「質問多すぎるよ!」
「悪い! ずっと一人だったんだ! やっと話が通じる相手に会ったんだから、少しくらいまとめて聞かせてくれ! 俺だって何から聞けばいいのか分からないんだよ!」
ネズミは一歩下がった。
俺は思わず一歩近づく。
「来るな! 黒くて怖い!」
「それは傷つく! 俺も好きで黒くなったわけじゃない! 昨日まで人間だったんだぞ!」
「もっと怖いこと言った!」
「違う、怖がらせたいんじゃない! むしろ仲良くしたい! できれば座って、俺の事情を最初から最後まで聞いてほしいし、そっちの事情も聞きたい。パンだって……パンだって、半分くらいなら……いや待て、さすがに半分は高くないか? 俺が全部運んだんだぞ。三割。最初は三割から交渉を始めよう」
ネズミはパンを抱え直した。
「これは、もらう!」
「話の後半だけ聞かなかったことにしたな!?」
灰色の影は身を翻し、細い亀裂へ飛び込んだ。
「待て! 逃げないでくれ! いやパンは返してほしいけど、それ以上に、もう少し喋ってくれ! 俺の話を聞いてくれ! でもやっぱりパンも返せ!」
俺は自分の半分を水路脇へ置き、影を追った。
暗い亀裂の先から、声が返ってくる。
「知らないよ! 落ちてたんだから早い者勝ちだ!」
「俺が運んでる途中だった! 落ちてない、移動中だ! 配達員が横にいる荷物を拾得物扱いするな!」
「じゃあ、追いついたら返してあげる!」
「言ったな! ゴキブリの脚をなめるなよ!」
「舐めてないよ、気持ち悪い!」
「あと名前も教えろ! このままだと一生“パン泥棒”呼びになるぞ!」
「別にいいよ、似合ってる!」
言葉が返る。
文句が返る。
俺の声が、もう闇へ吸い込まれて終わらない。
それが嬉しくて、腹が立って、笑いそうになった。
「待てえええ! 名前だけでも教えろ! それと俺のパンを返せええええっ!」
水と食料を得た俺の次の大仕事は、食料泥棒との追いかけっこになった。
相手は、この世界で初めて出会った、言葉の通じる生き物。
たぶん、最初の仲間候補。
ただし今のところは――絶対に逃がせない、俺の夕食半分である。




