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水一滴が命より重い

カサカサカサカサカサカサカサカサ――ッ!


「いやいやいやいや、速い速い速い! おかしいだろ、その大きさでなんでそんなに速いんだよ! 蜘蛛ってもっとこう、巣の真ん中で獲物が来るまで優雅に待ってる生き物じゃないのか!? 待てよ! 待ってくれ! 俺を待つんじゃなくて、その場で待機してくれって意味だからなああああ!」


 背後で、ガギンッ、と牙が鳴った。


 返事の代わりがそれだった。


「話し合う気が一切ない!」


 俺は地下迷宮の闇を走った。


 人間なら左右交互でよかった。今は片側だけで三本ある。数えるのを諦めた六本脚が、ぬれた石を蹴り、壁をかすめ、ひび割れを飛び越えていく。


「お前ら勝手に動くな! いや止まるな! 注文が多いのは分かってるけど今だけは聞け、俺の脚だろうが!」


 ものすごく速い。


 悔しいが、ものすごく速い。


「そこだけは助かるけど、だからって好きにはならないからな! 俺はまだこの身体を認めたわけじゃ――うおっ!?」


 前方の岩壁に、細い割れ目があった。


 考えるより先に身体が突っ込む。


 ぎゅむっ。


 薄い腹が石に挟まれ、俺は一瞬だけ動けなくなった。


「待て待て待て、入れると思ったの誰だ!? 俺だ! でも身体が先に行ったんだから半分は身体の責任だろ! 押すな! 後ろから押すなあああ!」


 巨大蜘蛛の前脚が割れ目に突き込まれた。


 毛だらけの脚先が背中をかすめる。


「ひぃっ! 抜けろ! 薄くなれ! ゴキブリだろ! こういうときくらい世間の偏見どおりの能力を見せろ!」


 俺は脚をばたつかせ、触角を岩にぶつけ、最後はほとんど押し出されるように割れ目の向こうへ転がり込んだ。


 その直後。


 ドゴォンッ!


 蜘蛛が岩壁へ激突した。


 天井から砂と小石が降る。割れ目の一部が崩れ、毛だらけの脚が向こう側へ引っ込んだ。


「は、はは……どうだ。人間なら通れなかったぞ。残念だったな。俺は今、信じられないほど薄い……」


 勝ち誇ろうとして、言葉が止まった。


 自分で言っていて、悲しくなったからだ。


「薄いことを誇る人生ってなんだよ……」


 いや、人生ですらない。


 ゴキブリ生だ。


 そんな単語を自分の中で成立させたくなくて、俺は急いで立ち上がろうとした。


 立ち上がれなかった。


「あれ?」


 脚が空をかいている。


 ひっくり返っていた。


「……嘘だろ」


 カサカサカサ。


「ちょっと待て。落ち着け。誰も見てない。誰も見てないから、これはまだ失敗じゃない。目撃者のいない失態は失態として確定しない。だから慌てずに、右の脚を、いやどれが右だよ! 全部同じに見えるんだよ!」


 身体をねじる。戻らない。もう一度ねじっても、石の上をずるっと滑り、さらに情けない音がしただけだった。


「さっき蜘蛛から逃げ切った男が、三秒後に自分で起き上がれず死ぬのか!? そんな死因、娘にどう説明するんだよ! いや説明する機会もないけど! そこが一番つらいんだけど!」


 娘。


 その言葉が胸に刺さった。


 あの子は無事なのか。


 俺がかばったあと、助かったのか。


 泣いていないか。


 俺が死んだことで、自分を責めていないか。


「……こんなところで終われるか」


 俺は脚を大きく振り、壁の出っ張りへ引っかけた。


「せーのっ……うりゃああああ!」


 ころん。


 ようやく腹が下を向いた。


「よし! 見たか! これが人類の知恵――ほとんど脚力だったな。うん。今のは脚が頑張った。ありがとう。……だからって好きになったわけじゃないぞ」


 言い訳しながら、暗闇の奥へ進んだ。


 蜘蛛は来ない。


 代わりに、喉が焼けていた。走ったせいだけではない。目を覚ましてから、俺は一滴も水を飲んでいない。


「水……どこかにないのか。地下だろ。地下ってもっと水がじゃぶじゃぶしてる場所じゃないのか。湿気だけ寄こして肝心の水は有料です、みたいな商売やめろよ……」


 そもそもゴキブリの喉がどこにあるのかも分からないが、渇きだけは容赦なく本物だった。前世なら給湯室まで三十秒。今は給湯室どころか、蛇口の概念からして存在しない。


 そのとき、触角の先に冷たいものが触れた。


 ぽちゃん。


「水音!」


 俺は駆け出した。


 通路の先が開け、黒い水面が現れる。


 地下のくぼみにたまった、小さな湖だった。天井から落ちる水滴が、銀色の輪をいくつも広げている。


「助かった……!」


 飛びつきかけて、止まる。


「いや、待て」


 こんなに都合よく水がある。


 しかも、いかにも“どうぞお飲みください”という静けさだ。


「知ってるぞ。こういう水場には絶対に何かいる。俺が安心して飲もうとした瞬間、下からガバッて来るんだ。俺はもう、そんな分かりやすい罠には――」


 水面が盛り上がった。


「ほら来たあああああ!」


 バシャアアアンッ!


 黒い水を割って、ぬらぬらした巨大な頭が飛び出した。


 カエルになる前のオタマジャクシに似ている。ただし、俺の十倍以上ある。頭の横には濁った黄色い目。口の周りから、ぶくぶくと白い泡を垂らしていた。


「分かりやすいにも限度があるだろ! 少しは予想を裏切ってくれよ! 今の俺、当たってもちっとも嬉しくないんだぞ!」


 怪物は、ぐるん、と両目を俺へ向けた。


「飲み水を少し分けていただければ、すぐ帰ります。見れば分かりますよね? そちらが圧倒的強者、こちらが黒くて小さくて社会的好感度も低い弱者です。ここはひとつ、大人の余裕を――前世で散々やった値下げ交渉と同じ空気だ。あっちは怒鳴られるだけで済んだが、こっちは値下げに失敗すると食われる」


 ベチャッ!


 桃色の舌が飛び、俺の横の小石を粉々にした。


「最後まで聞けよ! 交渉の席でいきなり舌を出すな! 人間社会なら一発で出入り禁止だぞ!」


 怪物は泡を吹いた。


 ぶくぶくぶく。


「笑ってるのか? 今、俺のことを笑ったのか!? こっちは真剣なんだぞ! 水一滴で命が決まるんだ。そっちには池一杯あるだろ! 独占禁止法って知ってるか!」


 当然、知らない。


 二発目の舌が飛んできた。


 俺は横へ跳び、岩陰へ転がり込む。


 舌が戻ると、砕けた小石ごと怪物の口へ吸い込まれた。


「石まで食うのかよ。好き嫌いのない立派なお子さんですね! だったら俺じゃなくてそっちを食ってろ!」


 悪態をついても渇きは消えない。水面は目の前なのに近づけば食われる。避けられても、この水が安全とは限らない。虫の死骸が浮かぶ水を飲めば、今度は腹を壊す。


「前門の腹ぺこ、後門の食あたり……どっちも嫌だ。もっと夢のある二択を寄こせ!」


 娘なら、こんなときどうするだろう。


 小さい頃、公園で転んでも、泣きながら自分で立ち上がる子だった。


『パパ、見て。泣いてるけど、立てたよ』


 そう言って、鼻をすすりながら笑った。


「……俺だって、喉が渇いてるけど考えられる」


 飲めないなら、飲めるようにすればいい。


 水辺を離れ、周囲を探った。


 苔。砂。細かい石。黒く炭化した木片。どこから流れ着いたのか、ぼろぼろの布切れもある。


「ろ過だ。石、砂、炭、布……だったか? 過去の俺! 授業を真面目に聞け! 未来のお前がゴキブリになって困るぞ!」


 そんな未来を予想できる学生がいるなら会ってみたい。


 俺は石のくぼみを器代わりにし、布を敷いた。


 触れた瞬間、布がずるりと崩れた。


 鼻があるのかどうか知らないが、猛烈に臭い。


「くっさ! これ腐ってる! 見た目から怪しかったけど、布にまで裏切られるのかよ! もう少し頑張れよ文明の残骸!」


 せっかく集めた砂が、腐った布と一緒に泥へ落ちた。


 俺はしばらく無言でそれを見つめた。


 それから、前脚で同じ砂粒を何度も何度も引っかいた。


「……怒ってない。たかが布だ。失敗なんてよくある。ただ今すぐ責任者を呼んで、製造年月日と保管方法を三時間くらい問い詰めたいだけで――ああもう、腹が立つ!」


 前脚で布を蹴った。


 布は一センチしか飛ばなかった。


「脚力まで空気を読むな! そこは景気よく飛んでいけよ!」


 水辺の怪物が、ぶくぶくと泡を吹いた。


「だから笑うなって言ってるだろ!」


 俺は二度目の材料集めを始めた。


 今度は焦らない。


 周囲の苔をよく見ると、色に違いがある。水際の黒ずんだ苔の近くには、小さな虫の死骸が多い。少し高い場所に生えた緑色の苔には、生きた白い虫が群がっている。


「白いのが食べてるなら、こっちは少なくとも即死はしない……はず。たぶん。専門家ではありません。苦情は受け付けません」


 緑の苔を少しかじる。


「まずっ!」


 反射的に吐き出した。


「なんだこれ、湿った雑巾と苦い草を混ぜて三日間反省させた味だ! ……でも、水分はある」


 口の中に、ほんのわずかな冷たさが残った。


 いける。


 布の代わりに苔を厚く重ね、その上へ炭、細かい砂、小石の順で積む。水を直接くむのは危険なので、天井から落ちるしずくの位置へ装置を置いた。


 ぽつん。


 水滴が小石へ落ちる。


 砂へ染み、炭を通り、苔の下へ――。


「よし、そのまま、そのまま……頼む。今度こそ頼む。俺はお前たちを信じてる。石も砂も炭も苔も、今日会ったばかりだけど大事な仲間だ。ここで一致団結して、あの独占怪物に一泡――」


 ベチャアアッ!


 怪物の舌が伸び、ろ過装置を一撃で吹き飛ばした。


 石が散った。


 砂が舞った。


 炭が俺の頭へ当たった。


「…………」


 俺は動けなかった。


 怪物が、ぶく、ぶくぶく、と泡を吹く。


「お前……」


 触角が震えた。


「今のは駄目だろ! 俺がどれだけ時間をかけたと思ってる! 石を一個ずつ運んだんだぞ、この身体で! 手じゃないんだぞ、口と脚だぞ! 途中で何度も砂に埋まったし、炭なんかかじるたびに口の中が真っ黒になったし、苔は信じられないほどまずかった! それでも水が飲みたくて、娘がどうなったかも分からないまま死にたくなくて、必死に作ったんだぞ! 食うなら俺だけにしろよ! 人の努力まで食い散らかすな!」


 怪物に人の心を求めても無駄だ。それでも、悔しかった。


 目の奥が熱くなる。ゴキブリが泣けるのかは知らない。泣けないなら、それも腹が立つ。


「絶対に飲んでやる」


 俺は散らばった小石を蹴り飛ばした。


「お前の目の前で、腹いっぱい飲んで、できればげっぷまでしてやる。見てろ。俺はな、こう見えてもしつこいんだ。……いや、見た目どおりかもしれないけど! とにかくしつこいんだよ!」


 そこで気づいた。


 怪物の舌が当たった場所に、細い溝ができている。


 水辺からこちら側へ向かって、泥が深くえぐれていた。


「……待てよ」


 俺では、石を動かすだけでも大仕事だ。


 しかし、あの舌なら一撃で地面を掘れる。


 怪物を見る。


 怪物も俺を見る。


「なるほど。交渉には応じないが、力仕事は得意、と」


 俺は少し左へ動いた。


 怪物の舌が飛ぶ。


 避ける。


 ベチャッ!


 泥に新しい溝が刻まれた。


「いいぞ。そこだ。もう少し右。そうそう、上手い上手い。筋がいいよ君。今日から臨時採用だ」


 もちろん怪物は俺を食おうとしているだけだ。


 俺は水辺と少し離れた石のくぼみの間を走り回った。


 舌が飛ぶ。


 かわす。


 泥が削れる。


「はい一発目! 惜しい!」


 ベチャッ!


「二発目! いいよ、かなり近い! その調子で我が社の水道事業に貢献してください!」


 ベチャアッ!


「三発目! おお、完璧! 君、採用! ただし俺を食おうとした件で評価は最低だからな!」


 最後の一撃で、溝が水辺へつながった。


 ちょろちょろと黒い水が流れ込む。


 そこへ天井からの水滴が混ざり、少し離れたくぼみへたまり始めた。


 怪物の巨体は水から出られない。舌は届くが、水辺から離れれば飛んでくる方向も読める。


「見たか! これが人類の知恵だ! 敵すら働き手に変える! 管理職経験をなめるなよ!」


 調子に乗って胸を張った瞬間、脚が滑った。


 さっき失敗したろ過装置からこぼれた、茶色い泥水だった。


「うわっ、俺の失敗作!」


 身体が横へ流れる。


 怪物の舌が、俺の腹に巻きついた。


「え」


 ぐんっ!


 視界が反転した。


 水辺へ引きずられる。


「嫌だ嫌だ嫌だ! 待て、今のはなし! 勝利宣言の途中だっただろ! 空気を読め! 俺はまだ何も分かってないんだ! 娘が助かったのかも、ここがどこなのかも、どうしてゴキブリになったのかも! せめて一個くらい答えを知ってからにしてくれ! 頼む、俺はまだ死にたくない! 本当はすごく怖いんだよおおおお!」


 脚で地面を引っかく。


 止まらない。


 水面から、怪物の口が現れる。丸い穴の奥に、細かい歯がびっしり並んでいた。


「歯、多すぎるだろ! 歯医者が泣くぞ!」


 俺は必死に考えた。


 舌を外す力はない。


 引っ張り合えば負ける。


 なら――逆だ。


「そっちが引くなら、もっと速く行ってやる!」


 俺は抵抗をやめ、六本の脚で怪物へ向かって走った。


 舌の引く力と、俺の走る力が重なる。


 一気に口元へ迫った。


「今だ!」


 怪物が口を閉じる、その寸前。


 俺は水面すれすれで身体をひねり、口の横にある岩の隙間へ頭から突っ込んだ。


 ぎゅうううっ、と身体が押しつぶされる。


「入れ! 入れ入れ入れ! さっきできただろ! 薄さを誇れ! 今だけは世界一薄くなれえええ!」


 背中を歯がかすめた。


 次の瞬間、俺の身体は狭い隙間を抜け、岩の裏へ飛び出した。


 舌が岩に引っかかり、するりと腹から外れる。


 怪物が暴れ、水しぶきが天井まで上がった。


 俺はその場にへたり込んだ。


「はっ……はっ……はは……」


 生きている。


 また、この身体に救われた。


 速い脚。


 平たい胴。


 人間なら絶対に抜けられない、ほんのわずかな隙間。


「……ありがとう」


 小さく言ってから、急に恥ずかしくなった。


「いや違うぞ! 今のは身体にじゃなくて、隙間にだ! ちょうどいい幅で存在してくれてありがとうって意味だからな! 俺は別にゴキブリ生活を好きになったわけじゃない! 絶対に違う!」


 怪物が水面をたたく。


「お前にも言ってない!」


 脚はまだ震えている。それでも、泣きながら立てた娘の父親だ。俺も怖いまま立てばいい。


 三度目のろ過装置を作った。


 今度は怪物の舌が届かない岩陰だ。緑の苔を厚く敷き、細かく砕いた炭を重ね、砂と小石を載せる。掘らせた溝から流れ込む水を、別の細い溝へ導いた。


 濁った水が装置へ入る。


 ぽつ。


 苔の下から、透明なしずくが落ちた。


「……出た」


 もう一滴。


 ぽつん。


「出たぞ!」


 すぐ飲みたい。


 だが、まだ怖い。


 俺は近くを歩いていた白い小虫を見つけた。


「すまない。決して毒見を強制するわけではない。こちらとしては、新規開店した給水所の利用者第一号になっていただきたいだけで……あっ、行った」


 白い虫は勝手に透明な水へ近づき、口をつけた。


 待つ。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 虫は死なない。それどころか、もう一度水を飲んだ。


「よし! お客様からおかわりをいただきました! 安全確認、たぶん完了!」


 俺はくぼみに顔を近づけた。


 透明な水面に、黒い顔が映る。


 長い触角。


 平たい頭。


 見間違えようのないゴキブリだ。


 まだ嫌だ。人間へ戻りたい。娘の名前を呼びたい。家へ帰りたい。蛇口の水を好きなだけ飲みたい。


「でも、今はこれが俺なんだな」


 水面の黒い顔へ言う。


「納得はしてない。認めたくもない。明日起きたら人間に戻ってるなら、俺は遠慮なくそっちを選ぶ。だけど、戻る方法が分かるまで、この身体を使う。文句は言うぞ。たぶん毎日言う。今日だけでも百回は言った。これからも言う。それでも――生きる」


 俺は透明な水を飲んだ。


 冷たい。うまい。ただの水なのに、今まで口にしたどんな酒よりうまかった。


「うまい……」


 もう一口。


「うまいぞ、ちくしょう……!」


 身体じゅうへ命が戻ってくる。


 触角が勝手に跳ねた。六本の脚が落ち着きなく地面をたたく。泣けるなら、たぶん泣いていた。


「水道、開通だあああああ!」


 叫びが地下迷宮へ響いた。


 水辺の怪物がびくりと沈む。


「どうだ見たか! 飲んだぞ! お前が邪魔した水を、きれいにして飲んでやったぞ! しかもこの溝、お前が掘ったんだからな! つまり俺の勝利であると同時に、お前は我が給水事業の功労者だ! 悔しいか! 俺もちょっと複雑だ!」


 ぶくぶくぶく、と泡だけが返ってきた。


「負け惜しみは聞こえませーん! 水の中だから本当に何も聞こえませーん!」


 大人げないが、大人の身体はもうないので問題ないことにした。水を腹いっぱい飲むと、今度は空腹が戻ってきた。


「次は食料か……生きるって忙しいな。人間の頃は蛇口をひねれば水が出て、冷蔵庫を開ければ何かあった。あれ全部、奇跡だったんだな」


 触角を伸ばす。


 湿気と苔と土の臭い。その奥に、ほんのわずかだが、香ばしい匂いが混じっていた。


「……パン?」


 間違いない。


 焼いた小麦の匂いだ。


 俺は匂いを追い、岩壁のそばまで進んだ。


 そこで足が止まる。


 壁の低い位置に、三本の線が刻まれていた。


 自然についた傷ではない。


 ほぼ同じ長さで、横に並んでいる。


 誰かが、意図してつけた印だ。


「誰か、いるのか?」


 暗闇へ呼びかける。


 返事はない。


「人間じゃなくてもいい。いや、できれば人間がいいけど、今の俺を見て悲鳴を上げない相手なら贅沢は言わない。話が通じなくても、せめてこっちをすぐ食おうとしないやつで……いや本当は、話がしたい。誰でもいいから返事をしてくれ。俺一人でずっと喋ってるの、そろそろかなりつらいんだよ」


 言ってしまうと、急に静けさが重くなった。


 水を手に入れ、怪物にも勝った。それでも、一人だった。


 そのとき。


 カリッ。


 闇の奥で、小さな音がした。


 パンの匂いが強くなる。


 カリ、カリッ。


 何かが、硬いものを削っている。


「……いる」


 恐怖より先に、胸が跳ねた。


「本当に誰かいる! 待ってくれ、逃げないでくれ! 話が通じるか分からないけど、俺はたぶん敵じゃない! ただし、そのパンを全部持っていくつもりなら話は別だ! 俺も腹が減ってるんだ、半分! いや大きさによっては三分の二ほしい! 交渉しよう!」


 答えはない。


 代わりに、小さな影が岩の向こうへ走った。


「待てえええ! やっと見つけた話し相手候補と、本日最初の食料おおおお!」


 俺は六本の脚で、暗闇へ駆け出した。


 今度は、追われるためではない。


 誰かに追いつくために。

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